04.29.03:34
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09.29.12:04
sick in the past
まっくろけの猫が二匹
なやましいよるの屋根のうへで
ぴんとたてたしっぽのさきから
糸のようなみかづきがかすんでいる
わくらば sick in the past
20070314banana
指と指の間を少しの湿り気と冷たさを孕んで芝草が擽る。唇に触れていたもう片方の手も、同じように巨木の陰を写し込んだ緑野に乗せ上体を預けた。重心を後ろへ少しずつずらして行く。視界を狭めていた前髪が微かな音をたてて頬を滑っていった。それが合図のように思いもよらず、ゆるりと瞼が落ちた。
幾層もの薄い膚越しに、緑の世界が深く明滅を繰り返す。指先を擽る芝草を、頬を撫でる髪を揺らすのと同じ調子で、明暗が猶予う。
緑の底で、温い外気が肌の境界を溶かしていく。それなのに風ばかりが冷たくて、その温度差に引き戻される。薄く開いた視界に、皓々とした青空が緑に縁取られているのが見えた。
焦点を固定したまま、後退を再開する。肘の裏側がぴんと張る。重力に引き摺られ倒れこむ筈の上体は、芝草に辿り着くより先に頭頂に鈍い痛みが走って進行を止めた。浮遊感は途切れて、視界は真一文字の緑と青のコントラストに移り変わる。首が変な方向に曲がった。
痛い。
地面に突いた両腕でなく後頭部と肩甲骨に上体を預けて、そのまま今度こそ下へずるりずるりと落ちていく。上目で背中に在るものを確認すれば、岩肌のような黒々とした幹が高く聳え立っていた。
背中がぴったり、芝草につく。首だけは歪に、焦点は地平に合ったままだ。
「 お わ あ 、 こ ん ば ん は 」
軽くなった腕を持ち上げて、唇に触れる。指先は酷く冷たい。かさついてささくれ立った下唇に舌を這わせて眉をひそめた。
痛い。
裂けているのだな、と思った。
指先ばかりが冷たい。手そのものではなく、掌から先の、特に間接から指先に掛けてが酷く冷たい。唇をなぞっていた指を、暖を求めるようにずらしていくと、冷たい手は頬を滑り、輪郭を掠めて首筋へと落ちた。乾いた膚と、温い肉の向こうで、太い血管がとんとんと血を通わせている。指先ばかりこんなにも冷えて、風は体温全てを奪い去ることは決してしないのだと、音を辿りながら思う。
眠い訳ではないのに、瞼が下りようとするのは頭が痛いからなのだと、漸く理解する。激痛ではない。ただ頭の、後ろの方が重たい感じがする。時折、思い出したような偏った痛みが頭を締め付けるだけだったので、それを痛みだと理解するのに随分掛かった。
意識すると、途端に痛みは増したように思える。遠くで聞こえる子供の笑い声ですら、騒音となって頭を締め付ける。
「 お わ あ 、 こ ん ば ん は 」
うるさい、と声には出さず口だけを微かに動かして言葉を形作る。
誰に見られている訳でもない、こういう時はきつく眉根を寄せてしまえば少しは楽になるのに、それをしないのは何故だろう。
芝草に絡め取られた方の指先を曲げて、柔らかく拳を作る。ぶつり、と音がして縮れた葉が未練がましく冷たい指先に縋ってくる。根元は瑞々しく青々しいのに、先端にいくにつれて水気を失い、茶褐色に乾ききっている。解くようにして指先を動かせば、独り善がりにくるくると奇妙なダンスを踊った。緩めた指先から薫風が病葉を攫う。その行き先を視線で追おうとしたが、追い掛けた先は既に相変わらずのコントラストしか残っていなかった。
青と緑の地平線の彩りを増すように、入道雲が白を介入させる。その面積を少しずつ増していく。
視線を逸らすと空っぽの掌が芝草の上に縮こまっていた。解れた包帯から覗く五指が緩やかに弧を描いている。微かに力を込めて、握る。親指と、人差し指と中指が触れ合う。触れ合った箇所はどちらもがその冷たさを認識している。
頭上を覆うざわめきの間を縫って穏やかな陽の光が差し込むのに、緑の上に落ち込んだ黒い部分が指先の体温ばかりを奪う。こんな、何処よりも冷たい場所で、成す術なくただ四肢を引き寄せる。
「 お ぎ や あ 、 お ぎ や あ 、 お ぎ や あ 」
唇が乾いた。唾液で湿らそうと舌先を出して、先ほどの痛みを思い出す。仕方なく申し訳程度に上唇を嘗めた後、軽く唇を吸った。ふやけた唇の皮が中途半端に口の中に残る。血と、痛みの一番深いところを舌先で探りながら、首筋に潜らせたままの手が少しずつ温くなっていくのを感じていた。
もっと、もっと暖かい箇所を求めて指先は蠢く。耳の裏側の少し下、乳頭骨の脇がちくりと痛む。放り出したままの方の手は冷えたまま、掴むもののない原始反射の形で微動だにしない。
遠くでまた、子供たちの笑い声がした。その笑い声に自分の名前が混ざる。呼んでいるのだ、と認識して瞼を下ろした。もう一度、呼ばれる。子供特有の、高い声が鼓膜を揺らす。
さっきは上手くいかなかったのに、こんな時ばかり眉間に深く皺が寄るのは何故だろう。
目を閉じたまま、鼻先を芝草に押し当てる。湿った土の匂いが鼻腔を擽る。前髪が零れて、目を覆う膚に被さり視界はただ黒一色に染まった。柔らかな新緑を掻き分けて、冷たい土の感触を頬に受けながら自分の脈を追った。とんとん、とんとん、と自分を繋ぎ止めるか細い音と同じ調子で、芝草を踏み締める軽い足音が幾つか聞こえる。
また、急に、忘れていた頭の痛みが増した、気がした。寒い。放り出したままの手も、爪先も、幾ら掻き抱いても少しも足りない。
その不足に、欠落に、口許が緩みそうになるのを奥歯を噛み締めて堪えた。
足りない。足りない。全然足りない。身を横たえた昏い緑野はとても寒くて、冷たくて、何もかもが足りなくて、とても倖せだ。
足りない。足りない。全然足りてなどいない。少しも満たされることなく、ただどうしようもなく凍えたまま、ただ倖せだった。
これっぽっちの不幸もない、そこはとても倖せな場所だった。否、場所ではない。時間でも、気分でもない。そう、ただ、倖せなのだった。自分という男は何処までも幸福で、幸福で――不幸はいつも置き去りで、苦しみも悲しみも遠い国の出来事だ。それでいい。
「氷ぃ!」上の方から、木漏れ日に混ざって少年の声が降る。「氷……って、寝てる?」
遅れて止まった小さな足音に、しぃ、と小さく囁く声がする。
ほら、お前は倖せだろう、と誰ともなく心の中で問い掛けた。けれど答えは返さない。それが自問ですらないことを、頭の片隅の冷静な部分が理解しているからだ。
さっきから力を込めすぎて、奥歯が痛くなってきた。頭も酷く痛んだままで、体中痛いような気がしてくる。けれどこれくらいが調度良い。そうでなければすぐにでも笑い出したい衝動に駆られて仕方がなかった。
諦めたのか、遠ざかっていく足音に痛みも和らぐ。相変わらず、傍らに留まる気配は無くなりはしなかったが、それでも心は安らいだ。
視界を、ゆっくりと広げる。傾いた世界の、最初の彩りは鮮やかな緑だった。膚を取り去っても、簾のような色味のない前髪が視界を幾分狭くしていたが、特に払い除けるようなこともせず視線だけを動かした。木漏れ日を写し込んだ蘇比の髪が、炎のように揺れていた。視線には気付かず、華奢な背中を無防備に向けたままでいる。
「ミャオゥ」
首筋にあてがった手を引き抜くと、上体を起こしながら小さく呟く。一拍置いて、怪訝そうな子供の視線を注がれると奥歯を開放した。ただし先ほどまでのような衝動は失せ、口許は弧を描くだけに留まっている。
「寝てねぇーよ。せっ、かち」
子供の顔に、不愉快そうな表情が浮かぶのを馴れない視点で眺めながら、顎を小さく突き出してもう一度「ミャオゥ」、と呟いて笑う。凪のような倖せの、その滑稽さをわらう。
「 お わ あ あ 、 こ こ の 家 の 主 人 は 病 気 で す 」
【「猫」 萩原朔太郎】
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