04.29.04:43
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09.29.12:12
forget me not blue
アガトガノナ forget me not blue
20061109banana
――韻二つ、それだけだ。
葉と葉が擦れる音がする。瞼ひとつ隔てた向こうで、世界が揺れているのを感じた。頬には巨木の幹の武骨な感触がある。投げ出した手に触れるのは柔らかな草と少しの土だけだった。嗅覚も同じもので支配されている。目を閉じていてもここでは周囲の総てを知覚出来る。或いは、この領域の総てを支配していた。そしてその規模は日に日に増していくばかりだった。
薄く目を開いた先に空が見えた。緑の狭間を縫うようにして覗く空は白く高かった。風が吹けば緑の天蓋は騒めき、縁取られた空も形を変えた。
鼓膜を揺らすのは木々がそよぐ音だけだ。緑の絨毯に落ちるのは深い色の陰だけだ。それだけだ。
鳥の囀りもなく、木漏れ日が差し込むこともない。生命を育むでない、そこに在るだけの無為な木の群れだけが連なっている。穏やかで寂しい、ここはそんな場所だ。
風がやみ、静寂が戻る。白い曇天は晴れない。外のことは何一つ知れない。
どれくらいの間俺はここに居たのだったか、男は少し考えてやめた。
凍り付いたこの空間は時の流れが曖昧だ。時折現われる夢遊病患者のような仄昏い影が過ぎると、それを数えて時を刻んだ。
「彼ら」と言葉を交わしたことはない。寝言のように繰り返される「彼ら」の願望は耳に届いても、男の言葉は「彼ら」には伝わらない。
「彼ら」が何であるのか、男は知っている気がした。だがなるべく考えないようにしていた。意識を向けたが最後、男のしている全てが無意味になってしまう気がして、それが酷く恐ろしかったからだ。
不意に口の中の渇きが意識される。甘いものはそう得意ではなかったが、父が煎れてくれる甘ったるいばかりのココアが飲みたくなった。
代わり映えのしない視界を、数度の瞬きの後閉ざす。世界は視界を通してではなく、網膜に焼き付いて離れない光の残滓のように頭
の中に浮かび上がる。
男にとって、それは誤算だった。何が誤りであるのか、特定することも難しい程にその多くが過ぎ去っていったが、それでも尚思う。
そうして、また男はどれだけそうしていたのか判らないが、おもむろに瞼を抉じ開けると上体を起こした。身体に付いた枯草や土といったものが静かに舞落ちる。確かめるように手足を動かす。ずっと同じ体勢で居た為、体中が軋むように痛んだ。
自分の足で立つと、高くなった視界に少しだけ世界は広く映った。広くなったところで有害なだけの世界に、男はうんざりした。
鬱蒼と苔むした巨木が所狭しと聳え立つのに、何処か閑散としたこの光景は男の記憶の中で重なるものがある。もうどれくらい前のことだったか定かではないが、この領域に立ち入る頃には三十年近く経っていた。それは間違いない。
まだ男が少年と呼ばれるような年頃だった時のことだ。乾いた風と、舞い上がる砂塵に視界を奪われながら、それでも尚焼き付いて離れないそれは、男の父が殺された光景だった。今まで忘れていたのに、何故だか急に思い出された。
あの時の光景に一致する符号は少ない。父が死んだその場所はあまりにも乾いて寂しかったし、無毛の荒野が鈍色の地平の果てに広がるばかりだった。それに比べればこの牢獄には緑が生い茂り、少し足を延ばせば極彩色の花々が咲き乱れている。まるで一枚の美しい絵に、世界に溢れる生命を塗り込んだようにこの場所は静謐に神々しく誰もが目を奪われる魅力がある。今外がどうなっているのか男には想像もつかなかったが、それでもこの場所に勝る優美が存在するとも思わない。
くるぶし辺りに迄伸びた草の上を滑るように歩いて行く。本来ならあるべき草の感触はない。擽るようなほんのかすかの抵抗もなく草地は男の歩みを受け入れた。その柔らかな拒絶は男の存在を示し合わせたように排除しようとしている風でもあった。
ささやかな抵抗を男は顔には出さずに嘲る。排除するならこの存在ごと末梢してしまえば良いのに、それにはまだ力が足りないらしい。場はあれだけの人間を取り込み、食い散らかしてもまだ足りないという。その皮肉を笑う。男は疲れていた。
緩慢な足取りで向かう先を男は知らない。どうせ果ての見えない牢獄なのだから、歩くという行為にあまり意味はなかった。途中、何度か影と擦れ違った。あの影こそがこの場所では正しい姿であり、明確な顔を持ち、身体を持ち、四肢を持つ男こそが異質な存在だった。或いは、住人からは男の存在こそが仄昏い影なのかも知れない。家畜の檻であるという自覚もなく、甘美な夢に浸ったまま死んでいくのは確かに幸せなことでもあるように男は思った。ならばここが魂の坩堝であるという自覚があって尚、こうして死の時を待っている自分は愚かの極みであるとも思えた。
だがそう思ったところで男はここから出るつもりはなかった。本当に出たいと思い、本当に出たいと願えば男にはいくらでもその手段かあるのに、実行に移そうという気持ちにはどうしてもならなかった。それは或いは諦めと言うのかも知れない。
水音を聞いた気がして、男は思わず足を止める。耳を澄ませると、確かに水の動く音がする。自然と足はそちらに向かったが、深く考えたわけではなかった。
腰丈まである雑木を何の抵抗もなしに突き進むと、やはりそこには懇々と沸き上がる泉があった。透明度の異様に高い水に、魚が棲んでいる様子はない。
たとえるなら、父が死んだあの光景とこの場所との差異も、魚の居ない綺麗過ぎる泉の違和感に似たものを感じさせる。父が死んだあの光景、あの場所は神域だった。この場所にはそれに近しい息吹が在り、また酷く鼓動が高鳴る。それも、あまり良くない緊張だ。男は、理解していた。この領域において自分は既に異端であり、この領域は敵だった。
泉に向かい歩を進める。爪先が水に触れても、そこから染みる冷たさはない。そのまま足首が完全に水に浸かる程になっても、その感触は男の肌には届かない。一歩、また一歩と泉の中心へ向かい、腰から下の全てが水に浸る程になった。
その領域の全ての事象が男を拒絶している。
泉の中心で男は目を閉じた。遮断された視界に代わり、脳裏に鮮やかに落ち込んだ世界が展開する。鮮明なのに何処か陰りの隠せない世界を清めるものの片隅に、まるで水面に落とされた波紋のような揺らめきを見留める。
――違う。
それは確かに、物理的にもたらされた干渉であり、尚且つ事象を支配する側に在る者の足跡だった。
目を開ける。静止した水面に幽鬼のように生気のない、そのくせ目ばかりがぎらぎらとした男の疲れた顔が写り込んでいる。その男の顔が、時折ノイズでも混ざったようにして醜く歪む。男に不干渉である筈の事象が、支配者の到来を告げていた。
水面から視線を外し、緑に縁取られた空を仰ぎ見る。薄ら白いばかりの空が眩しく感じられ、思わず目を細めた。
「水浴びにはまだ早いわよ」
声がして、視線を落とす。水面に一際大きく波紋が広がった。その揺らめきと共に、写り込んだ緑の群れも不安げに騒めく。
こんなにも男はあらゆる事象を殺し続けているというのに、その声音は一瞬にして世界を芽吹かせる。かつては自分にも確かに在った万有を育み滅ぼす呪文は、今や咎の名に成り下がった。その皮肉を嗤う。
声はまだ若く幼い。それも女のものだった。この領域で男が捉えることの出来る、唯一の意味在る音だった。
一度目を閉じ、開く。視線だけを声がした方へ向ける。
濃い栗毛色の髪を長く伸ばした、少女と形容しても差し支えない程度の年齢の女がそこに居た。以前会った時と少しも変らない、着飾った様子が少しもない地味な娘だった。その少女は可愛らしく小首を傾げ、微笑んでいる。優しげだったが、その容姿の年頃の少女には似つかわしくない、嫣然とした笑みだった。それは強者が追い詰められた弱者を見下ろす時に見せる、哀れみと嘲りが入り混じったような、男にとって気に入らない笑みだった。
少女が一歩近付く。水面に柔らかな波紋が広がる。
栗毛の髪、浅黄の双眸、簡素な出で立ち、少女らしい丸みを帯びた頬に、薄紅色のふっくらとした唇――何処から見てもただの非力な人間の娘は、静かに水面を滑るように歩く。そして男との距離を随分と縮めたところで立ち止まった。華奢で小柄な少女は、水面に立っている為男を見下ろすかたちになる。
「ねぇ、愛しい人」
柔らかく色付いた唇が男を呼ぶ。少女は身を屈めて男の頬に触れた。男はそれをただ無感動に見つめ返す。
それは男にとって有害だった。よく知っている。昔これによく似たものに接触したときと同じ予感がした。あの時、男は疎ましい「敵」を受け入れたが、これは違う。有害で、「敵」であったとしても、今と昔とは違う。男はそれを受け入れない。男はそれを拒む。どれだけ切なげに請われようと、それはもうかつて在ったものとは全く別なのだということを男は理解している。
「帰れ」
低く、唸るような声で男は言った。少女は相変わらず美しく微笑んでいた。
統覚世界の領域とその否定
加速する現象界の歪み
食い散らかされた無形想の深淵
テオファニア残滓から流出する神性の揺らぎ
僕達の傷を覚えているか
お前の罪を覚えているか
骸の名。忘れられた名。ジョン=ドゥ
狂わないで狂わないで狂わないで狂わないで狂わないで助けて狂わないで狂わないで 絶対的非物質の否定
その名前
その響き
その散り際
その散り様 降り積もる記憶
その死 死んだ 記憶
殺 さ な い で 身罷りし吾が恋
実在の模倣
欠如
錯落
吾ガ咎ノ名トハ詰まり
――韻二つ、それだけだ。
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