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05.15.06:11

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  • 05/15/06:11

12.21.06:01

gift

風邪っぴきでいつもより素直(当社比)な魔王が、子供の癇癪に振り回される話。





「馬鹿だ」
 冷たい声だった。氷面鏡は顔を逸らす。ああ、馬鹿さ。どうせ馬鹿ですよ、拗ねたように言うと、冷水に浸されたタオルが額の上に投げられる。有り難いが、乱暴だ。
「馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ」
 同じ言葉を繰り返す。容赦がない、というより、
「幼稚な嫌味だこと」
「他に形容できる言葉がない」
 手厳しい。
「……馬鹿だ」
 まだ言う。
 大体、ここには他にも人が居ると言うのに、どうして彼が看病をしているのか、と氷面鏡は理解に苦しんでいた。気を遣われた、という考えはいっそのナシの方向だ。自分の日頃の行いを省みれば、憂さ晴らしが良いところだろう。確かに、今は彼の毒舌が辛い。効果覿面だ。
 きっと今は。考えて、別の方へ意識が向かいそうになったのでやめた。
 とにかく、嫌なことは考えるだけでは改善されない。とりあえず自分に優しい方向で行動しようと、タオルの位置をずらし、目の上まで持ってくる。目を塞ぎ、自分と外界とを遮断する。そうすればもうこれで、不機嫌そうな口元も、若葉色の碧の瞳も見えない。逃避と笑うなら笑え。不機嫌なものが視界にあるのとないのとでは、精神衛生上かなりの違いがある。

 これで、何も見えない。
 聞こえるのは、ノイズのような雨の音だけだ。
 奇妙な安心感に包まれる。決して狗尾柳が鬱陶しいわけではなかったが、何となく思った。
 聴覚と触覚だけで、外界と接する。世界の輪郭が、曖昧になるような、自分の存在が薄くなるような、そんな感じがする。
 暗闇に、守られているような、生まれる前に帰ったような、そう言う感じに浸りたいときがある。一人になりたいときがあるのと同じだ。

 暫らくそうしていると、ふと猫柳の動く気配がした。部屋を横切って、窓の傍に寄る。窓から外を見るのが、彼は好きらしい。あまり塔から出なかったから、いつか、そう言って笑うのを見た。
 あれは、まだ彼と会って間もない頃だった筈だ。
 吹雪の晩にまで、窓を開けて外を見ようとしていたこともあった。何を思ったか、一晩中窓から外を眺めていたこともあった。誰かを待っているのか、と訊ねたら、貴方を、と茶化された。貴方ときたら、いつも窓から出入りするじゃないですか、と笑っていた。向かい合って、カモミールを浮べた蜂蜜ミルクを飲みながら、それでも猫柳は外を見つめる。だから多分、彼が待っているのは俺の形をした何か別のものなのだろう、そのとき氷面鏡はそう考えた。
 俺の形をした別のもの、多分、今なら、少し分かる。
 彼の暗闇。彼にとっての暗闇。


 ノイズのような雨の音――いつまで降り続ければ止むのだろう。苛々する。熱のせいだけでなく、この音も意識を散漫させるのに一役買っているに違いない。氷面鏡は重苦しい息を吐き、寝易い姿勢を求めてごろごろと寝返りを繰り返した。
 幾度目か、転がった拍子にタオルが落ちた。視界が開ける。部屋の灯りは落とされて、薄暗い照明になっているのに、狗尾柳は窓辺で本を読んでいる。
「目ェ、悪くなるぞ~」
 ちらりと顔を上げ氷面鏡の方を見ると、狗尾柳は再び本に目を落とした。
「頭が悪いよりはマシだし」
 その悪い頭にキました。
「そういうこと言いますか、この子は」
「別に。雨に打たれてみたり、風に吹かれてみたりする趣味は、俺にはないから」
 熱を出した理由を、氷面鏡だって嫌と言うほど解っている。
「……うっせー」
 反論するのも億劫で、蒲団を被った。思い出させるな、馬鹿。

 忘れることなど、出来る筈がない。
 でも思い出すのも辛い。
 そういうものに襲われたとき、雨に打たれたり風に吹かれたり、女を買ったり、そうやって気を紛らわす以外出来ない自分が、氷面鏡は嫌いだった。

「……泣いてる?」
 凄いことを訊かれた気がする。夜刀彦が居たら、勇者か英雄か、と狗尾柳を褒め称えていることだろう。
「泣いてません」
 蒲団から顔を出してやる。あからさまに安心したような表情をすると、再び本に顔を落とす。でも、目は活字を追っていない。どうしてこういうときにばかり、この子供は嘘が下手なのだろう。バレバレなんですよ、馬鹿が。馬鹿馬鹿。

 目が――悪くなる。
 目の、悪い人の世界はどうなんだろう。
 やはり、輪郭は滲んでいるのだろうか。
 自分と、世界のの境は、やはり曖昧なのだろうか。
 泣いてるみたいに、滲んでいるのか。

 

 

 夢を見た。

 夢の中で、氷面鏡はまだ十六だった。家々は燃えており、崩れ落ちる家の中で兄が悲鳴を上げるのが聞こえた。氷面鏡も、悲鳴のような声で兄の名を呼ぶと、懐かしい友人が出てきて言った。「兄さんは俺が助ける。あんたはテレートスを」頷くと駆け出そうとする氷面鏡を、猫柳が押しとどめた。「見てはいけない。アレは現実だ」何を言う、現実を見ないで何を見るというのか、押し退けてテレートスの元に行こうとすると、狗尾柳は氷面鏡を指差し笑った。犬が吠えた。狂ってるよ。貴方も、俺も狂ってるんだ。だから世界は壊れたんだよ。笑う狗尾柳の後ろで、テレートスが泣いていた。どうして狂ってしまったのか、何処で間違えたんだ、言いながらテレートスは泣いた。犬がその肉を食んでいた。血に染まる身体には無数の暴行の痕があった。どうにかしてその痕を消したくて、必死で氷面鏡は水をかけた。無駄だよ、狗尾柳が囁いた。諦めなよ。諦めたら、優しくしてあげる。誰よりも愛してあげるよ。後ろから抱きしめながら狗尾柳が告げた。その温度に傾倒しそうになりながら氷面鏡は首を振った。それだけは譲れない。諦めてしまったなら、俺は俺でなくなってしまう。崩れ落ちそうな自尊心を必死で支えながら氷面鏡は首を振った。犬はテレートスを食み続け、ついに家は燃え落ちた。友人は悲しげに告げた。「遅かったよ。虫が大分進んでいたから。もうあんたとも一緒に居られないよ」連れて行って欲しくて氷面鏡は嘘を吐いた。虫などいない。兄だって死んでない。言った傍から虫が湧いて、嘘はすぐばれた。灰と火の両方が熱くて氷面鏡は座り込んだ。猫柳が冷たい声で告げた。

「嘘をつくからだよ」

 助けて、氷面鏡は呟いた。誰か助けて。もう遅いよ、テレートスが泣いた。

 

 






 俺は欠陥品として生を受け世界の敵になり全てに憎まれて死ぬだろう

 そこになにかの感慨はない


 空が綺麗だ。
 けれど、それだけだ。

「……ひ、こ」

 氷面鏡の記憶が確かなら、昔にも似たような光景を夜刀彦は見ている。誤魔化しこそしたが、冷静になって考えてみればあの場で氷面鏡が何をしたのかなど明白だ。いくら頭の足りていないことの男でも、それくらいは察しが付いている筈だ、と氷面鏡は思う。
「……うん」
 返す声は酷く沈んで聞こえた。
 普段は後ろへ流している、焔色の髪は雨水を含んで重く頬に落ち掛かっている。陽の光の下で見ると健康そうな褐色の肌は、モノトーンの世界に呑まれると青白く沈んで見える。それとも、本当に雨風に体温を取られて凍えているのかも知れない、彼の引き締まった生身の腕をぼんやりと眺め遣りながらそんなことを氷面鏡は思った。
「お前の見立てて構わない…………どう、思う……」
 夜刀彦が、眉根を寄せる。嫌なら、そんな風に懸命に見ずに目を逸らせば良いだろうに、この男はそれをしない。それで後で便器を抱え込む羽目になるのだから、止せば良いのにと思いながら、それを言うことはしない。
「……重傷ではあると思うけど、すぐ処置出来る」
「……そうか……」
 処置だなどと、まだそんな馬鹿を言ってる。悠長に。

 いつものことだ。誰かが近くに居るときにヘマをしたことはなかったが、それでも初めてではない。頻繁、と言っても良い。発作的に、唐突に、意識がぷつんと途切れる。途切れて、気が付くと辺り一面が血の海になっている。自分の血だ。臓腑が散乱していることなど、そう珍しいことでもない。それらを痛みと混乱と圧倒的な諦念とに苛まれながら拾い集めることにも、もう慣れたものだった。

 やあ魔王殿しくじったな
 だがその程度では人は死なない

「……知ってるよ」
 鼻で嗤う。
「……何?」
「……いや……そのつもりはないとね……」
 失血で、頭が重い。大方のぶち撒けたものは夜刀彦が来る前に詰め込んだ筈だ。取りこぼしがないことを祈る。あとは、きっと今日あたりは熱が出るだろうな、とそんなことを考える。
「……当たり前だ…………困る」
 夜刀彦は、頑なに逸らそうとしなかった視線をやっと外したかと思うと、苦虫を潰したような顔をしてそう呟き、付け加えた。彼が眺める地平線に興味はなかったので、氷面鏡は相変わらず仰向けに空を眺めていた。雨粒が頬を掠め、瞼を滑り、額を撫でて、睫毛に溜まる。
「……彦」
「何?」
 常の平静を取り戻した顔で夜刀彦が見下ろしてくる。

「林檎が食いたいな……」

 平坦な表情を取り戻したまま、夜刀彦は視線をまた地平に遣った。
「今は我慢しろ。ひどいことになる」
「はは。我慢が多い」
「仕方がない。我が儘言うな」
 睫毛に溜まった雨水が目に入りそうになり、反射的に瞼を伏せる。暗闇に不鮮明な星が散って、その更に深いところで影の形が変わる。夜刀彦が動いたのかな、そう、思って瞼を持ち上げると視界と空とを遮るように彩度の落ちた赤い髪が揺れていて、その近しい距離が少し意外だった。多分、少しは驚いたのだと思う。だがそれ以上に夜刀彦がバツの悪そうな顔をして、こちらへ延ばしかけた手を所在無さげに下ろす方に気持ちが行った。何をするつもりだったのだろう。

 昔、というほど過去のことではなかったが、それでも今よりは確かに前に、狗尾柳に言ったことがある。君が好きだからね、と。
 他意は無い、と思う。純粋に、ただ好ましいと思ったのでそれを口にしただけだったと思う。そのときの感情の動きまでは生憎記憶していない。自分が物事を深く考えるとろくなことにならないのは長く生きている内に嫌と言うほど分かっていたので、当たり障りがないな、と判断すると取り敢えず口にしてしまう癖が出たのかも知れない。
 告げると、歳若い魔法使いは逡巡するような素振りを見せた後、誰に向けたものかは知れない嘲り交じりの笑みを浮かべて、魔王が無償の愛?、と溜息のように零した。その言葉を、氷面鏡はやんわりと否定しながら言葉を探す。俺は君に期待をしているから、無償の愛とは言えないな。すると狗尾柳は少し意外そうに驚いて見せると、何を、と言葉少なに訊いてきた。それは秘密、内緒、と言って話を打ち切ると、狗尾柳は不満そうに文句を言っていた。一言で言えるほど単純でもないしね、氷面鏡はそう付け加える。思わせぶりなこと言わないで下さい、狗尾柳はまだ言う。ごめんごめん忘れてよ、氷面鏡は言った。
「……そうですよね」
 ホットミルクの上に浮かんだ白い花をスプーンで沈めながら、狗尾柳はふっと言った。
「僕と……似たようなものだろうとは思ってたけど、何か、期待されてるとも思いませんでした」底で潰れたのか、薬草の香りが湯気に乗って浮かび上がるようだった。「わけもなくなんて、あるわけないよなあ……」
 最後に付け加えられた言葉は、氷面鏡に対しのものというよりかは、殆ど独白のようでもあった。
 手元のマグカップの中身を、器用にぐらりぐらりと揺らしながら氷面鏡は思う。今は静かに下りた、窓ガラスと、その向こうのことを。
「…………『魔法使い』とは嫌な生き物だね。夢を見ることも、見ているふりをすることも出来やしない」
「……夢なんてもう見たくもないですけど。ロクなもんじゃないし……」
「……そう。そうかもな」
 否定はしない。今の自分は、そんな風に言う子供のことを少し寂しく思ったが、きっと十五歳乃至十六歳、つまり狗尾柳とそう歳の変わらないあの頃にはきっと肯定していた。つまらない大人の主観をわざわざ幼子に押し付けることもないだろう。だから、曖昧に言葉を濁した。けれど妙なところで聡い子供は、言葉の端に幽かに浮かんだ氷面鏡の意図を容易く掬い上げる。
「……意外。氷面鏡さん、夢、見たいんだ」
 夜刀彦だったら気付かないし、夕拝朗だったら気付かないフリをしてくれる。朝霧は、どうだろう。夕拝朗とは別の意味で聞かなかったことにするのかも知れない。嫌な子供、微笑ましく、胸中でそっと呟く。
「どうかな。もう見れないから、言うのかも知れないし」
「ああ、夢に夢見てる?」
「うんうん。そんな感じ」
 そんな辻褄合わせ、聞いたことがない。

「……夜刀彦」
 金色の鋭い視線が降る。
「狗尾柳には、言うな」

 人は及び知らぬところでも死ぬということを

「……分かった」

 母のむいた林檎を食べるのはもう不可能だということを
 瞬間の笑顔は瞬間のものでしかないということを
 ありとあらゆるものはただそこにあるだけだということを
 すべてのくだらない真理を

「……夜刀彦。俺は夢を見ているんだよ――あの子に」

 彼には言うな たとえ手遅れであっても




 

 

オテサーネクの恋人 gift
20071221banana




 

 

「……俺、アンタが俺に何を期待してるのか知ってるんだ」

 声が、届く。

 視界を廻らせる。白い天井、剥がれた壁紙から剥き出しになった木目、風に揺れるカーテン、開け放された窓、端に柔らかいブラウンが翻り、節の目立つ体のわりには大きな手が二つ、首を

「……ッ」

 寝台のスプリングが軋む。前に聞いたときはもう少し色気があったのに、柔らかく細められた若葉色の双眸を見つめ返しながらそんなことを思う。
「これでも駄目なんだろうな、やっぱり」
「…………残念ながら。寧ろ手緩い」
 腹を捌いても死なないのに、頭を吹き飛ばしても死なないのに、心の臓を抉り出しても死なないのに、そんな脆弱な掌でどれだけのものを攫うつもりなのだ、と鼻で笑いたくなる。
 力は、そう込められていない。ただ、死なない程度と言うだけで少し身じろいだくらいでは外れそうにない。
「……なあ」
 弧を描いた薄い唇が、柔らかく甘い声音を落とす。
「マホウツカイなんて嫌なもんだってアンタ言ってたけど、夢が見れないからなんてのは嘘だよ」
 変声期前の声は抑揚を欠いて平坦に言葉を紡いだ。簾のような前髪に隠されて、狗尾柳の表情はよく見えない。
「可能性が多いから、他人より余計に夢を見る。手段があるから、諦められなくて――泥沼だ」
 ヒステリーかな、何か気休めの言葉でも欲しいのか、熱と雨音とに掻き乱される思考を氷面鏡は巡らせる。身体の上には乗り上げられてはいなかったが、組み敷かれていることに変わりはない。首も丁度締め上げられているところだ。息苦しい。
「……いいじゃないか、夢くらいいくらでも……」
「アンタを!」
 言い終わる前に、鋭い声が被さる。けれどそれはその一瞬だけで、狗尾柳の声はまたすぐに先ほどまでの平静さを取り戻した。微かに顔が上がり、色々な感情を綯い交ぜにした歪な笑みを向けられる。憎悪とも、軽蔑とも、情欲ともつかないような、そんな昏い笑みだ。
「……見てると、苦しいんだよ」
 狗尾柳の囁く声は細く、小さい。ノイズにも似た雨音に、今にも掻き消されてしまいそうだ。熱で半分くらいは意識が飛んでいるし、首を絞められている所為で血流が滞っているのか、先ほどから酷く頭痛がする。吐き気もする。狗尾柳は知らないが、身体の中身もまだまだぐちゃぐちゃの筈だ(適当に突っ込むなんて真似はしないで、きちんと入れれば良かった)。
「夢と絶望の成れの果てだ」
 小さく、けれど言葉は耳に残る。だから、ああ、、取り溢してはいけない。
 生唾を飲み込むフリをしながら、意識を繋ぐ。思考を廻らせる。平坦な子供の悲鳴、嘆き、憤り、身も蓋もない言い方をするなら、嗜虐性を孕んだ癇癪、その全てを

(可哀相に。受け止めてやる大人は居ないのか)

「期待して裏切られて、それを何度も繰り返してる。そのアンタが、俺にそういうことを、夢を見て期待しろと」

 泣いている。

「俺が、好きだって言うから」緑色の、大きな瞳に溜まった透明な雫は、けれど震えたまま留まっている。「俺はまたあきらめられなくなる」

 言って、首に込められた力が強まる。少しずつ、けれど確実に人を殺せる圧力に近付く。こんなことではこの化け物を殺すことなど叶わないだろう、そんなことは分かりきっている筈なのに、それでも手に籠もる力は弱まる気配を見せない。本気だ。
 そうだ。分かりきっている筈だ。お互い。
 唐突に思い当たった、その当然の事実に、呼吸が今よりもう少し自由になっていたら氷面鏡は間違いなく溜息を吐いただろう。
 分かりきっている筈だった。嫌と言うほどに、お互いに。なのに子供は馬鹿馬鹿しい癇癪で人の首を締め上げているし、病人に成り果て弱った化け物はその手に、仮に完全に息の根を止めるに至らなかったにしても、人殺しの感触が残ることを疎んでいる。

 また破れようとしているのか

「どけ、狗尾柳」

 ひゅう、と息が漏れるような頼りなさで告げる。提案でも懇願でもない、命令する声音と口調で、痺れる右腕を無理矢理持ち上げて、覆い被さる子供の左胸を、押す。
 込められた力はそのままだったが、僅かに上体が上に傾くと狗尾柳の顔がよく見えた。厳しい顔をしていたが、それだけだった。泣いているわけもない。怒りや、憤りの色が浮かんでいる様子もない。
「俺は君に今ここで、人を殺させるわけにはいかない。俺の目の届くところで」
 本当のことを、言葉にするという作業は酷く疲れる。馴れないからだ。首を締め上げられ、こうして言葉を発している今も、少しもその力が緩まる気配がないということを差し引いても、誰かに誠実であるということは本当はとても難しい。けれど、声を震わせるわけには行かなかった。苦しみに喘ぐこともしてはならない。感情的に声を上げるのも駄目だ。ただ低く、押し殺し、押し留め、搾り出すように、告げる。
「それが今、君の望みでも、それだけは、かなえるわけにはいかない」
 泣いている子供が居るなら、誰でも良い、誰か抱きしめてやれば良いのに、と氷面鏡は思う。
「それだけは」
 慰めの言葉を掛けて、柔らかなキスをしてやれば良いのに、と氷面鏡は思う。
「止めてやる」

(誰か)

「から」
 どうして、誰も聞いてやらないんだ、と氷面鏡は思う。
「どけ」
 どうして、彼の嘆きだか叫びだかに耳を傾ける人間が俺しか居ないんだ、と氷面鏡は思う。

「……なに」
 子供は、氷面鏡の腕を振り払った。その腕が寝台に落ちるより早く、狗尾柳は更に圧し掛かってくる。文字通り馬乗りだ。
「何言ってんだよッこんな身体で止められるわけないだろ!」
「……ッ」
 一瞬緩んだ両手の平は、しかし角度を変えてまた氷面鏡の首を覆ってしまう。その僅かな合間に、溺れる人のような息継ぎをした。
「片腕一本で押さえ込まれるくせに、これでどうやって俺を止めるって言うんだよ!」
 今のでまた傷口が開いた。夜刀彦に何て言い訳しよう。
 分かってない。本当は、氷面鏡が少しその存在を拒絶するだけで、何もかもなかったことになってしまうのだということを、この子供は少しも分かっていない。手負いの獣ほど厄介なものはないのに、子供の好奇心はそれに勝るらしい。
 言い聞かせるべきだろうか。氷面鏡が人の道を外れた生き物であるという事実を差し引いても、もし、あてがったその右手が、胸部ではなかったとしたら。狗尾柳の左のこめかみを中心に、茶色い毛髪を包むように頭を掴んでしまえば、親指の関節の下には薄い皮膚と柔らかな眼球がある。子供の癇癪で首を締め上げられるよりも、氷面鏡が眼球と脳味噌を抉る方が早かった。
 きっと子供の頭に、そんな可能性は少しもない。

 小雨を孕んだ強い風が、開け放たれた窓から吹き込んでくる。窓硝子は引っ切り無しに啼きっ放しで、カーテンはまるで生き物のように蠢いている。首を絞める力は次第に弱まり、狗尾柳の口から、また小さく声が落ちる。
「こんな……」息を詰まらせるように、言葉が途切れる。「……こんなの」
 ぐしゃり、と音がしそうなほど、顔を歪ませるのにこの子供は決して泣きはしない。吹き込んだ雨風に、角度によっては金色にも輝いて見える髪の毛が頬に張り付いている。同じ色の睫毛に縁取られた緑色の瞳が、ゆらりゆらりと零れそうに頼りなく揺れる。綺麗な、新緑の若草の色だ。
「こんなの、アンタじゃない」
 首に、申し訳程度に掛かっていた指が、とうとう外れた。代わりに、子供の手の平は氷面鏡の両頬を覆う。
「アンタはいつも傲慢に笑って、俺を馬鹿にして、俺を甘やかして、それに甘えて逃避して、風邪引き込んで役立たずになろうが、もともと居ても居なくても同じだろうが、夢見て期待して破れようが、また諦めきれずに夢を見て」
 緑色は、覗き込むような、見透かすような、そんな所作で降って来る。
「無様に生きてないといけない」女の瞳の中に自分の顔を見ることはあったが、こんな風に子供の眼に自らを見ることは滅多になくて、氷面鏡は意味もなく朦朧とした意識の中で感嘆した。「……気が変わった。死ぬなんて許さない」
 緑の中の、薄ら白い鏡像を焦点を合わせる為だけに意識して見つめ返しながら、自分の頬を覆う子供の手の平が、いつもより温く感じられることに気付く。安静にしているべきなのに、血圧の上がりそうなことをしているからだ、阿呆め、と誰に向けるでもない罵倒を胸中で羅列する。
「惰性でも何でもいいから呼吸しろ」
 子供の吐息が近くなる。
「嘘をついたその口で幸せだと笑って、無駄と知りながらメシを食え」
 虚脱した背中に見た目より筋肉質な腕が回って、上体が浮かび上がる。
「アンタひとり居ても居なくても変わらない世界で、人を殴ってでも夢を見ろ」
 氷面鏡の薄い肩口に額を押し当てて、狗尾柳は言った。掻き抱くように背中に回された腕は、縋っているようでもあった。

「アンタは俺だ。ざまあみろ」

 どんな顔をして言ってるんだか、思うがこの角度では表情は読み取れない。震える肩や、背中に回った腕の力から何となく予想は付くが、子供の癇癪にここまで付き合わされてこれもないだろうに、と氷面鏡は溜息を一つ溢そうとして、やめた。代わりに、その逞しさとは程遠い、庇護欲を掻き立てられる華奢な肩を抱きすくめるかどうしようか、迷う。

 子供は知らない。あの時、子供が明確な殺意で以って氷面鏡の首を絞めたとき、致命的なその箇所こそ避けはしたが、もし、本当に、あのまま力を込め続けていたのなら、あの無垢な手に人殺しの感触が残るようなことになるのなら、その時は。
 やめよう、氷面鏡は今度こそ本当に溜息をついた。
 この子供は、罪と後悔と悪夢に縛られて苦しんで大人になって、そうして罪など自らが決めたただのエゴで、そんなものはこの世界には塵にも満たないほどの価値しかないのだと、母親には母親の人生があって、あの魔法使いは狗尾柳とは別の人間であるのだと、そう気付いて老人となり死んで行く。
 その行く末に、氷面鏡は欠片も必要がない。
 氷面鏡のこれからに、狗尾柳が必要ないのと同じだ。

 そして、雨の中で夜刀彦が伸ばしかけた手の意味を理解した。
 懲りないよな、そんな風に思いながら猫柳の背中に手を掛ける。その背中を、抱くのではなくゆっくりと調子をつけて擦る。本当に懲りない、もう一度胸の中で呟くと、取り敢えずは生命の危機を脱したようなので、辛うじて繋ぎとめていた意識を手放すことにした。
 言い訳は狗尾柳に任せる。

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