04.29.01:40
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11.07.23:42
St Sinistra
始動編開始16年前の、ギルガリム兄弟とサリエルのお話。
彼ら兄弟に会ったのは、俺が十二歳になったばかりの頃だった。技術提供者として研究天使のグループに加わる女性の弟達だと聞かされた。兄の名をセレスタ、弟の名をアジュラといった。兄は勿論、何故か弟の方もあまり話したがらず、彼らの姉が名前を告げた。暗い色の髪をした兄弟とは対照的に、透けるような銀の髪の、目鼻立ちの美しい女だった。しかし肌色は血色を欠き、四肢は女性らしい膨らみを一切感じさせず、何処か造り物めいた印象を受けた。表情のない二対の少年の方がまだ、人間らしく思える。
それでも結局、その日は俺も何を喋るでもなくただそこに居た。覚えているのは、同じ顔をしたものが寄り添っているのが、浮き世離れしていて不気味だった。それが彼ら――彼の第一印象だった。
それから程なくして、彼ら兄弟の世話役に抜擢された。ライラは年が近いことと、少なかれ彼らと面識がある為だと言っていたが、後にアジュラ自らの指名だったのだと、本人の口から告げられた。
「だってサリは、僕らを見ても目を逸らさなかっただろ?」
照れくさそうにアジュラは笑って言った。兄の方は眠っていた。
それから、俺と彼ら兄弟との間に接点が出来た。教団内に年の近い子供が他にいないことも手伝って、仕事がなくても彼らを訪ねて行った。運悪く兄の方が起きている時間に当たると門前払いをされるので、そんな時は適当に外で時間を潰してから出直すことにしていた。ただ、どんな時に行っても彼らの姉である女性とはち合わせることはなかった(俺は彼女が苦手だったので、その事実は大変喜ばしいことだったのだが)。そうして、比較的穏やかに俺と彼らとの二年は過ぎた。
セレスタとアジュラが十四歳になる頃、彼らは洗礼を受けて天使名アムビエルを与えられた。若い新参者の異例の出世に、異を唱える者は居ない。熾天使長が自ら彼らに香油を注いだからだ。
「とは言っても、それだけじゃあないよねぇ」
「だな」
天井の高い廊下を、彼らの車椅子を押して歩く。電動式の車椅子でなく、わざわざ俺が手押ししているのは、勿論他の煩わしい仕事諸々を適当にやり過ごすための口実の一つが、この上級天使様らのお世話だからだ。
「神に愛されるが故の欠如……だなんて当人、愛を受ける側にしてみれば迷惑なものだよ」
「おやおや、上級天使ともあろう貴きお方が、何を仰います」
「クソ喰らえってとこかなー。内緒にしといて」
「仰せのままに――が、実際神の寵愛如何は置いておいても、実生活にハンディキャップを強いられるのは頭痛の種か」
言ってから、誤解されかねない言動に俺はフォローを入れるべきか迷い、結局やめた。言い訳がましく聞こえるかも知れない。アジュラも気にしていないようだった。
「試練もまた神の愛とか、そんなじゃない?」
「……お前達みたいなのも、欠如なんだろうか」
「一人には多いけど、二人にはちょっと足りない」
「試練?」
「僕のね」
「“僕らの”でなく?」
「だって、兄さんは既に賢者だもの」
彼はそう言うと、比較的自由になる右側の方の手で、自身の胸をとんとんと叩いた。成る程、と俺は彼の意図を理解した。それから、ならば現世を生きる大概の人々は生まれながらにして愚者ではないか、と反語から性悪説にたどり着いて、これが可笑しくて笑う。
「え?何、何?何が可笑しかったの、サリ」
「どいつもこいつも愚か者ばっかだと思って笑った」
それは俺も俺の姉も熾天使長もこの兄弟の姉も同じなのだろう。或いは神の寵愛故の欠如持つ双子の兄弟の弟ですら、鈍ましい俗物でしかないのかも知れない。ただその半身である彼の兄だけが、心臓の在処に関わらず、聖なるもので在り続けるのだろう。
「サリって変だよねー。天使なのに、神様絶対じゃないの」
「どっかの奇妙な兄弟の所為だな、間違いなく……ライラには内緒にしといてくれ、怖いから」
「本人目の前にして何て言い種だ、全く。兄さんもサリのことは気に入ってるのに」
「そりゃお前のお気に入りなだけだろ」
それを、眠りこけているのを良いことに感情面まで一緒くたにされて弟に代弁されたのであっては、セレスタにとってもいい迷惑だろう。
「違うよ、兄さんだよ」だが、アジュラは言い張った。「サリをお世話の人にしよう、って最初に言ってたのも兄さんだ」
俺は彼の半身へと目配せした。相変わらず、瞼はきつく閉じられている。一卵性双生児である以上、彼もまたこの瞼の奥に何処か儚さを思わせる青い眼を隠しているのだろうが、生憎とその像を思い浮かべることはかなわない。人形のようにして、いつもアジュラの隣で眠りこけている兄、そんな印象しか彼には持てないのだ。上下する胸と、だらしなく半開きになった口からの吐息だけが、それでも何とかアジュラの横に在るものを、彼の兄なのだと俺に認識させていた。
「俺はセレスタと喋ったことはない」
「うん。でもセレスタはサリを知っているよ」賢者と同じ色をした眼差しが向けられる。「多分、僕よりもサリを知ってる」
有り得ない。
「……有り得ない。セレスタは……」
「サリ、兄さんは居るよ。ここに居るんだ。他の天使は信じてくれないけど、サリは信じてくれるだろ?」
「お前だって、セレスタと話したことはないだろう?起きてられる時間だって、この頃どんどん短くなるばかりじゃないか」
言うと、アジュラは黙り込んでしまった。別に彼を否定するでも、責めようとしたわけでもない、不本意な自身の言葉の刺に、俺もまた口を閉ざす。天空に居を構えていようと、大いなる翼を背負おうと、神に仕えていようと、こんな時俺はどうしようもなく自分が人間だと思う。しかも、分別のつかない無力な子供に分類される。言葉が足りないのか、一言多いのか、それすらも判らずにいる。
「……目が覚めると、書き置きがある」
アジュラが言った。
「セレスタだ」
違う。
「兄さんが起きてるときに、僕にメッセージを残してくれるんだ」
違う。大人達は、アジュラに本当のことを言っていないのだろう。それはあの造り物めいた、温度を持たない眼の色の女が弟達に見せた、ほんの僅かな肉親の情だったのかも知れない。
(或いは、こうなることを初めから解っていて……あの女は症例を求めたのか)
きっともう、誰にも真実を明かすことは出来ない。お前の兄など初めから存在してはいないのだと
(誰が……)
打ち明けられるわけがない。隣に横たわるそれは、宿主に寄生するだけの単なる生暖かな肉塊、生命の宿らぬもの。
「兄さんは居るよ。ここに居る」
故に、いかな聖なる特性を合わせ持とうにも、そこに神性は宿らない。賢者にも聖者にも成り得ず、また愚者ですらない。
(境界に存在するが故に何よりも)
明確な区分を持たず自由で無垢なるもの。
「サリ、信じてくれる?」
同じ問いが繰り返された。
「何を」
きっとその時に、まともに答えを返す気は既に失せていたのだろう。どうせ返すべき言葉が見つからないのが、判っていたからだ。
年を重ねる毎に、彼らの有する睡眠時間は長くなって行った。そのどちらか一方ですら、起床していられる時間が短くなったのだ。限界が近付いているのだと、誰もがそう思った。俺は、これこそがあの何処か幼さを残す友人に架せられた、神の試練というものなのだろう、と思った。何にせよ、彼らの目のつかないところで大人達が進めている計画さえ済んでしまえば、彼の寂しさもいくらかは癒されるのだろう。彼らが崇高な存在なのか、神の寵愛を受けた聖者なのか、それは判らないが、大人達の計画は、ならば神性を貶めるという行為に他ならず、そうしなければ彼ら兄弟の寂しさが埋まらないでいるのも、また皮肉な話だと思う。
その日、俺はいつもの時間に彼らを訪ねて行った。アジュラが目覚めている時間は短くなるばかりだったが、その分会いに行くタイミングを計りやすくなった。入り口の前に立つ研究天使に、挨拶をして部屋の中に入ろうとすると呼び止められた。
「告死、あの双子なら出掛けて行った」
「誰が連れだした」
「車椅子に乗って、自分で出掛けて行った。ガフの間に出掛けて行った。神の座に出掛けて行った」
「ルカが許すものか」
「だが、双子は呼ばれて行った。呼ばれたのだと言った。呼ばれたのだと言っていた。俺は知らない。熾天使長様は怖い恐ろしい。俺は知らない。俺は」
「取り敢えず向かってみる。お前も、症状が進行してるなら早めに申告した方がいい。神は殉職には寛大だ。堕天は免れなくても、家族には保障が出る」
「おぉれぇえはぁ、あ、知らないぃ。怖いぃ、怖い怖い怖い」
姉に他の研究天使を据えるように言わなくてはならない。三日待ってリストにこの男が上がっていなければ、申告も俺がしようと思った。
その部屋には、独特の匂いがある。何かが湿ったような匂いだ。消毒液や溶液に似ている気もしなくはないが、もっと有機的な感じがする。汗や唾液といった、何とも対極に位置するものも連想させられる。ただ、それらと違い不快感はない。抜けた先に、配線で雁字搦めになった、俺達の「神」が居る。
柔らかな日差しが天窓から差し込み、石畳を浮彫りにする。その上を、奇妙に艶かしい幾重もの配線が這っている。その中央、雀の囀りを頭上に湛えたがらんどうの部屋の中央に、彼らは居た。特に声を掛けることはしない。気配も足音も消していない。傍らに立つと、アジュラが視線だけ俺の方に向けた。目の下に隈が出来ている。四肢も、出会った頃に比べて随分とやつれたように思う。睡眠と栄養は足りている。ただ、身体を維持するだけの器官が充分ではない。「歪み」ですらない、もっと根源的、原始的な欠損。
「サリエル、今はお前は俺を哀れんでいるのか」
「何……?」
質問の意味が解からず、問いを返す。
「俺達は惨めか?醜く、さもしい存在か?」
穏やかに、問いは続いた。彼の隣では兄が静かに寝息をたてている。まるで安らかな、表情で寄り添っている。
「或いは、欠落なのだと」
「言っている意味が解からない」
「それは違う。これは、ある意味では完成された容だ。少なくとも、それが世界だ」彼は瞼を伏せた。全く同じものが二つ並んだ。「閉じられている、それは俺達も世界も同じだ」
「アジュラ……?」
「いいや、俺はセレスタだ」
「それはお前の兄の名だ」
「俺達の名前だよ」
「……お前も、『歪み』始めたのか?」
「本気で言ってる?『歪み』は狂気と死だ。なら俺はそのどちら?」
そんなのは狂っている方に決まっている。でも、俺はそこで黙った。目の前の見慣れた顔は、初対面宜しくいつもとはまるで違った表情で、俺を見上げてくるばかりだ。
「俺達が『歪み』始めているというのなら、どちか一方が狂ってる間はもう一方が死んでいるんだろうよ」何が面白いのか、彼は口の端を吊り上げて言った。「でも、それももうお終い」
少年は右手を緩慢な動作で以て持ち上げる。そして左の胸にひたりとあてがった。それはこの鏡像のような兄弟の、最大の違いとも唯一の違いとも言える、けれど決定的な違いだ。そして、俺は驚いていた。とても驚いていた。
「知って、いるのか?」
「ふぅん……お前も知ってるんだ」
「被験者には、知らせていない」
「俺はあの人に聞いたんだよ」
「シナ?」
手術の責任者はライラだったが、熾天使長直属の部下である彼女が被験者の不安を煽るようなことを言うとは思えなかった。
「違う違う。そもそも、アジュラは知らない。その点では安心するといい、親友殿」
「お前は、何だ」
「言っただろう、セレスタだと」
「『あの人』って、誰だ」
「居るじゃない、ほら」
胸から手が離れる。真っ直ぐに腕を伸ばす。そうして、彼は「神」を指した。
「神……、神……?」
「違うと思う。多分、違う。あの人は単なる上位概念なだけで、多分俺達が考えるようなのとかじゃ、全然ない」
神でないなら、化け物だ。それを、熾天使長も、この双子の姉も「神」と認識していないことなど、薄々感づいていた。ただの力なのだと、彼らは考えている。同じことを、目の前の少年も言う。同じ、けれど恐らくは彼らより余程本質に近い。
「意思があると?……シナプスに似たものは確認されているが」
「あるとも。ただ彼女は言葉を持たない。だから誰も彼女の意図を汲めないだけ」少年は腕を下ろした。「まあ、それをどうにかするミステリオンなんだけれど」
ならば、誰にも汲めない神(のようなもの)の意図を口にする、この少年は何なのだろう。神の代弁者を気取っている風ではない。彼の物言いは、本当に酷く当たり前のことを言っているのだと、終始徹底しているからだ。
「聖なるもの……?」
「オットー?古いね。しかも哲学者なんて……ヌミノーゼとか言い出す気?」
あの肉の塊ではない。この二対の、これは何だ。
「でも、強ち間違ってないのかも」
見当違いの的外れな同意に、先に続く言葉を待つのでなくただ閉口する。少年は恍惚とした表情で、鉄板から僅かにはみ出ている赤黒い肉塊を見上げた。
「魂が打ち震えるって、多分これだ」
後にも先にも、俺が兄と話したのはこの時だけだった。
二人が独りになった日、俺はそこに居た。
弟は叫んでいた。泣き叫んでいた。大人達は暴れる弟を取り押さえた。俺は訳が解からず、ただ壁に背を預けてその恐ろしい光景を見ていた。
もっと簡単に、ことは進むのだと思っていた。確かに、セレスタと話をする以前に比べれば俺の中には疑念や疑問といったものが多く渦巻くようにはなっていたが、それでも彼があまりにも穏やかなものだから、弟との折り合いも上手くつけたものなのだとばかり思っていた。なのに今、彼の弟は泣いている。
「やめて!やめてやめてやめてやめてやめて!僕らを放っておいて!僕らを引き裂かないで、お願い!」
俺は動けない。双子の姉が薄ら氷のような目を細めて注射針を取り出すのをただ見ていた。
「殺さないでッ殺さないで!死にたくない!」
「安心なさい。お前は死にはしないわ」
歌うような優しい声で、女が囁いた。研究天使の一人が暴れる弟の頭を押さえつけた。兄は寝ている。「腕を押さえて」女が言った。別の研究天使が言われるままに腕を押さえた。以前怖い怖いと言って怯えていた、あの天使だった。瞳は濁り、感情は宿らない。あの後、俺は彼の『歪み』を上に報告していた。弟は諦めない。肩を揺らして大人達の腕を振り解こうともがく。つられて隣り合った兄の身体も揺れる。研究天使達が押さえつける中で、尚暴れる弟と目が合った。
「サ……サリ!サリ、サリ、助けて!サリ、助けて!」
必死の叫びに、手を伸ばしそうになる。けれど、身体は動かない。
もう、終わる。この双子は、俗物に貶められなければ救われない。そうでもしなければ、あるのは死だけだ。
兄は、狂気と死とを天秤に掛けた。そのどちらを選んだのか、俺には判らない。或いは、選ばされたのかも知れない。これから選ばせるのかも知れない。どちらが死んで、どちらが狂うのか。そして弟は泣き叫んでいる。どちらも選べないと、泣いている。
「お願い、助けてッ殺さないで!」
その言葉の無意味さを、その言葉の持つ本質とを合わせて理解しているのは、恐らくその場においては俺と彼らと彼らの姉とくらいのものだった。他の多くはただ先の意図しか汲みきれず、衰弱した子供が一時の激情に駆られているのだと、そう思っていった。理解していたのは当事者と、緩慢な死に終止符を打とうとする研究者と、そして部屋の隅でその嵐のような出来事をただ見ているしか出来ない無力な子供だけだった。
その時、俺達は十六歳だった。
次にアジュラに会った時、彼はもう独りきりになっていた。言い知れない喪失を抱えていた。俺を責めることはしなかったが、赦すこともしなかった。
「殺してしまった……境界は喪われた」
広々とした寝台の上で、彼はそう呟くと、声をたてず泣いた。
彼の部屋を出て、廊下を歩いている。そうすると、声が聞こえてくる。「歪み」が発症してもロボトミー手術で進行を遅らせることが出来ることとか、頭を開いたときに特殊な機械を埋め込んでるだとか、その技術を開発したのはあの双子の姉だとか、そんな話ばかりだ。こんな話も聞いた。聖人の死体が第一研究所の方へ回されたらしい。何人かの研修天使を伴って、早速珍しい被験体に刃を入れたのだそうだ。今は幾つもの肉片に分けられて保存されている。執刀に熾天使長も立ち会っていたと、ライラが言っていたので信憑性はあるのだろう。だが、そんなことに心を痛めたり、情緒を震わせたりはしない。あれはただの肉の塊で、魂の器ですらない。あれは彼の兄などではないのだ。
(だが、境界足り得た。存在は、象徴だ)
そんなものも、ことも、初めから何もなかったのだ、と言ってしまって良い気がした。でも、きっと俺は許せない。生まれ、育ち、そして死んでいくこの世界、この国をもう許せない。そして、許せないことが辛い。
アジュラが、兄を喪失してから何を思いその後の二年を過ごしたのか、俺は知らない。俺は世話役から外されて、代わりに階級が一つ上がった。彼は彼で神に愛されし欠落者から、神の愛を受けて尚、その試練に打ち勝った者として異例の出世を遂げている。彼は神の与えた試練を見事に乗り越えた超越者で、もう誰かの手を借りて車椅子に乗らなくてはならないようなこともない。それでも、アジュラがその結果に満足しているとは思えなかった。彼は試練を越え、人を超え、確かに聖なるものと呼ばれるに相応しい経験をしたとして、そこにあったのは彼の寄る辺の喪失だ。だが彼は何も言わない。
けれど確かに二年が過ぎて、ほんの少しだけまた世界は動いた。同じように彼も動いた。俺も動いた。
神と呼ばれたあの肉塊の鎮座する部屋へと、足を向けた。部屋の前には、彼が居た。
「久しぶり」
しっかりとした足取りで、彼は俺の方へと向き直ると左手を軽く上げて挨拶をした。
「そうだな、ほんとに」
「訊かないのか?『お前は何だ?』って」
「無意味だ」
「そうだね、無意味だ」
彼は俺の言葉に同意した。俺は彼に背を向けた。
「お前、今指名手配されてるって自覚あるのか?」
「もう?あの男も大概仕事が早い」
「当然の反応だろう」
「まだ俺が犯人って決まったわけじゃない」
肩越しに、彼の右手に握られた剥き身の長刀を覗き見る。何人か斬って来たのだろう。
「デミウルゴスを処分したんだな」
「違うね。これはあの人の大好きな神様が与え賜おうた試練だよ。見事乗り越えれば晴れて聖者だ。楽園の扉だって開くかもよ?」
「白々しい」
俺が笑うと、彼は眉根を寄せた。珍しく苛立っているようだった。手にした刀の柄を、強く握り込むのが見なくても分かった。
「何を考えている、サリエル。どうして俺の前に姿を現した」
「さぁ?」
「俺は、まだ捉まるわけには……」
「今、ここに来るまでの研究所の機能は、非常機構に因って停止してる」
「…………何やってんだ」
「全くだな、まあお前が言わなければバレないだろ。内緒にしといてくれ」
警備天使が駆けつけるのに十五分。研究天使に俺の組んだ構築を突破されるとは思えない。強行突入で来るだろう。それでも装甲を破るのに、上からの許可を取り付ける必要がある。それには早くても十分。それから作業に掛かるのであれば、上乗せで五分。
「……単純計算で三十分だな」
「正気か?お前は自分が何をしてるのか解かってるのか?」
「行けよ、見逃してやるから」俺は彼の質問に答えなかった。
「俺は、神を殺すかも知れない」
矢張り俺は返事をしなかった。彼に背を向けていた。
背中に負った翼は重たいばかりで、結局俺に何も与えはしなかった。けれどそれを自ら手折ることも出来ないのだろう。俺はこの国で生まれ、この国で死ぬのだろう。外を知らぬままに、真実に触れぬままに死ぬのだろう。
「サリエル」
彼の声が偽翼と背中とに向けられた。
「あの部屋の、あの匂いは、海に似ている」
「海?……ディラックの海?」
「違うよ、ホントお前は相変わらずだね。……ああ、でも……強ち間違いでもない」
俺は彼に向き直った。穏やかな笑顔を向けられた。お前は何だ、と問う気も失せるような柔らかなものだった。
「いつか見せよう、約束だ。俺はお前に友情のようなものを感じているのだから」
本当はこんなことを話している場合ではない筈だった。なのに彼が急き立てるように話し出すので、俺は言葉を挟めない。早く行け、と言いたいのに。それもまた、彼の言う友情のようなものの為なのだろう。そして、言わずにいるのも。
「サリエル、この世界は歪むべくして歪んだ。先ず最初に、神が歪められた。……大いなる実験とその症例の名の下に」
「そんなことだろうと思っていたさ」
「俺達がシナと逃げ出したあの国は、楽園とは名ばかりの狂信者共の巣窟だ。気をつけろ、俺達では終わらない」
それが彼の別れ際の言葉だった。彼の背中が扉の奥へ消えて行くのを見届けると、脇のコンソールパネルを開けてパスワードを打ち込んだ。背後から十数人の足音が聞こえる。早い。それなりに使える奴が居たのかと思い、振り返って納得した。
「熾天使長様自ら、おこしになられましたか。それに、そこに居るのは親愛なる姉上殿」
「サリエル、道を開けなさい」
縋るように、ライラが言った。俺は何も言わなかった。ただ少しだけ、笑ったのだと思う。すると熾天使長が彼女を下がらせ、進み出た。淡い色の前髪の下から、驚く程濃い赤が覗く。
「退け、サリエル。お前は好きだ」
シニストラの聖賢 St Sinistra
20050526banana
後のことは、あまりよく覚えていない。恐らく、斬られたのだと思う。それから、潰れていない方の目が、光を捉えた。気が付けば俺は赤ん坊を抱えていて、無我夢中に走り出していた。斬られて潰れた目に感謝した。両の目で捉えるには、世界はあまりにも歪んでいて、俺には耐えられなかっただろう。天使ですらない、人だったものを横目に、何故俺は歪むことも許されないままなのかと、そんなことを考えていた。
俺は天上に生まれ、天上に暮らし天上で死ぬのだとばかり思っていた。生まれながらに教団員として、背負うのではなく偽翼を移植された。俺は天使としてしか生きられない。ずっと、そう思っていた。だのに、俺は血塗れた赤子一人抱いて、自分の価値に背を向けて走っている。そんなものは要らないと、かなぐり捨てた。重たいばかりの翼を引き千切るのには痛みが伴った。だが俺は走った。
歪んだ神の融け出した塔に近付いてはならない――それは来るべき時が来るまで、彼を守る為の呪文だった。別れ際の彼の言葉の真意を得られる機会は、永遠に失われたままなのだろう。例えば彼は親友で、思えば彼は息子であり、ならば俺は彼にとっての何ものであったのか。儚い青と、薄ら氷が並ぶ様を俺は最後に見た。一致する筈のない符号が一致する。
全てが始まった場所で俺は終わりを選んだ。疲れていただけなのかも知れない。結果は目に見えて明らかで、俺の行動はらしくない、無謀なものでしかなかったのかも知れない。けれど親友殿、お前は今の俺を見て言うのだろう。時は来た、子供らの運命を解き放て、と。
「助けてッ殺さないで!」
青い瞳の子供は昔と何一つ変らない姿で、叶わない同じ叫びを繰り返している。あの頃と変らない、子供は十六歳だった。
遠くに潮騒を聞く。無理矢理に叶わない約束をさせた男。別に俺は憾んではいない。それはきっと死に際の言葉遊びだったのだろう。だから約束を果たせないことを、彼は嘆かなくて良い。
俺は死に傾く重りになった。俺はもう少し、彼らに狂っていて欲しいのだ。
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