04.29.05:13
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11.30.09:25
鳥をまつひと2
高原の冷気を遮る地下道を抜けると、乾いた冷たい風が頬を撫でた。渓谷に造られた古都は数日前に視た夢の記憶より、少し明るいように感じた。
闘技大会の時期も過ぎて人の波は疎らだったが、念のため先に宿を確保しておくことに決める。ロビーで名前を書くジュードを残して、レイアとエリーゼは隣のカウンターへ携帯食の注文をしに行ってしまった。「二人分だけなんだから、買い過ぎないようにね」と声を掛けるが、返されたのは生返事だけだった。そんな二人を諦観を以って眺めながらふと、アルヴィンもまだこの街に居るのではないだろうか、と過ぎる。もしかすると、宿に滞在しているかも知れない。そんな思いに突き動かされて、口を開こうとしたジュードを呼ぶ声が背後から掛けられた。
「ジュード、こっちは終わったよ。そっちは?部屋取れた?」
「……うん。大丈夫」
振り返ると、レイアとエリーゼが立っていた。
「じゃあ、雑貨屋さんで道具を補充しましょう」
少女はそう言って促すようにジュードの手を取った。その手を柔らかく握り返しながら、ジュードは開こうとした口を噤んで笑みの形に吊り上げた。
渡し舟に乗り、闘技場の受付近くにある雑貨屋で道具を補充すると特に寄り道をすることもなくジュードたちは宿へ戻ることにした。野盗や魔物にこそ手こずりはしなかったものの、慣れない雪道を歩いてきた所為で足が痛い。そう思っているのはジュードだけではないらしく、街の中を見て回るのが好きな筈のレイアとエリーゼも特に何も言わずについて来た。
「あー……足だるーい」
「余ったハートハーブを乾燥させたものがありますから、フロントで桶を借りて足湯でもしましょうか」
「さんせーい」
「そうだね。明日も歩かなきゃならないし」
エリーゼの提案に賛同したレイアに、ジュードも同意する。部屋に入ると夕食の前に、借りてきた桶に湯を張って素足を浸した。温かい湯と緊張を和らげる効果のあるハートハーブの芳香で、張っていた足が徐々に解きほぐされていくような心地がする。
「これ、前にアロマにしたとき大変だったよね」
動かなくなった足の補助器具として取り付けた医療ジンテクスの痛みを緩和する目的で、一度ミラの為にハートハーブを探したことがあった。その時のことを思い出して、ジュードは笑う。
「ああ、あれね!ミラのしゃっくりが止まらなくなったやつ」
「でも、ミラ嬉しそうでした」
口に出して笑い合うレイアとエリーゼも嬉しそうだ。香草の薫りを孕む湯気の合間を漂うティポがはしゃぐようにして辺りを飛び交う。
「皆が採ってきてくれた、ってことがミラは嬉しかったんだろうね」
そんなミラを見て、ジュードも嬉しかった。彼女の役に立てるだけで、その時は良かった。そんな些細な全てが今は遠い。
「でもさぁ、あの時は皆一緒だったのに三人だけになっちゃったねー。やっぱ何かサミシー」
エリーゼではなくレイアの膝の上に収まりながら、ティポが言った。困惑した様子でエリーゼが縫いぐるみの名前を呼ぶ。けれど少女の深層は取り繕うでもなく「だってホントのことでしょー」と言った。
「す、すみません」
「いいよ。多分、僕もレイアもエリーゼと同じ気持ちだから」
旅の途中、色々な所へ行った。大きな滝の下をくぐったり、深い森を抜けたり、果てのない荒野をさ迷ったりもした。その全てを、ミラや仲間たちと乗り越えた。その暖かな記憶の気配を感じずに居られる場所は、あまりにも少ない。
浮遊する縫いぐるみがレイアの膝から定位置であるエリーゼの元へ戻る途中「明日にはジュードともお別れだしー」と寂しそうに呟いた。喉元まで出掛かった謝罪の言葉より先に、レイアが「私は、カラハ・シャールまで一緒だからね」と言ってエリーゼの手を握る。エリーゼもすぐに朗らかな笑顔を見せて頷いた。そんな二人のやり取りを眺めながらジュードはレイアに感謝した。ティポはそれ以上何も言わなかった。
夢を視る。眠りに就いた時と同じその場所で目覚める夢を視る。
上体を起こし、黄昏が浮き彫りにする陰影の濃い部屋の中をジュードは見渡した。窓を一瞥し、すぐに逸らす。常ならば窓辺に寄り流れる川と石畳を眺めたが、今日の夢においてはジュードはすぐに背を向けて扉へと向かった。
扉は難なく開くと、密室は荒野へと転じた。水音は遠退いて、眼前には乾いた大地が広がる。ジュードは躊躇なく一歩を踏み出した。
ままならない明晰夢の中、今やジュードは自由だった。扉は記号でしかなく、距離もまた意味を成さない。鈍く輝く空の下、ジュードはただ強く強く呪詛のように念じた。放たれた夢の中で、確信だけを胸に抱いて彼を探した。
やがて、夢はひしゃげた枯木の元へと辿り着く。狂気のように鮮明な夕陽が辺りを真っ赤に染めていて、曲がった枯木は腰の折れた老人の影にも似て見えた。そして、その根元にジュードは彼の姿を見留めた。
歩調を緩め近付いていく。アルヴィンは錆びた剣先スコップを手に、穴を掘っていた。やっとのことで見つけたというのに、彼はジュードが傍らに立っていることに気付いた様子もなく一心不乱に穴を掘り続ける。ジュードは、アルヴィンの名前を二度呼んだ。一度目は特に意識することもなく、二度目はやや強い口調で呼び掛けたがそのどちらにもアルヴィンは顔を上げはしなかった。こうなるとどうにもならない夢の中のルールのようなものを、いい加減に理解していたジュードは諦めて周囲を見渡す。広がるのは矢張り荒涼とした大地ばかりで、陰を作るものは無機質な岩ばかりだ。
鳥の一羽もなく、獣も絶えた、虫の鳴き声すらしない世界で、枯れた木の根元を掘る男はジュードに気がつかない。何だこれは、とうんざりしながらジュードは溜め息を吐いた。男は手を止めることなく穴を掘り続けた。その時にはもう既に、半ば夢の終わりを望み朝の気配を探り始めていたジュードはふとあることに気がついた。穴を掘る男の傍ら、やけに規則正しく立ち並ぶ岩が気にかかった。迂回し、ジュードは岩へと近付く。そして、それらが自然物ではなく人の手の加えられたものであると知れると、全てを直観的に悟った。それから、ゆっくりとアルヴィンへと向き直る。彼は、相変わらず穴を掘っていた。
「アルヴィン」
名前を呼ぶ。男は穴を彫り続けた。返事はない。分かっていた。それでも、縋るような心地でもう一度ジュードはアルヴィンの名前を呼んだ。
人の手の加えられた形跡のある岩は、全部で三つあった。それぞれに文字が彫られていたが、夢である所為かジュードが「彼ら」の正確な名前を知らない所為なのか、読み取ることは出来なかった。ただ、読み取ることは出来なくてもその文字が名前であることが解ったように、その読み取れない文字が示す人物が誰なのかジュードは正しく理解した。だから、戦慄く声で彼の名を呼んだ。
「……アルヴィン、やめて」
固く、凍れる大地を掘り進める男に言った。いつだったか、男自身の口から聞いた言葉を思い出す。黄昏に輪郭を滲ませて、死を眺める男の横顔をジュードは見つめていた。
「やめて」
人の手の加えられた岩は、墓標だ。彼の言うような精霊信仰にまつわるア・ジュールの埋葬方法は知らなかったが、それでも聞きかじりの知識や馴染みのあるラ・シュガルの埋葬を都合良く継ぎ接ぎしてこの夢が成っていることは容易に知れる。何より、岩に刻まれていたことごとくの死者はアルヴィンに縁ある人々だった。彼の母親や、彼を想い続けた女、彼を疎み続けた彼の叔父――それら死者の傍らで男は穴を掘り続ける。その意味を、辿り着く先を考える。ここはジュードの夢の中だ。夢は、深層の代弁者だ。その意味を、考える。
「やめて……やめなよ、アルヴィン!」
叫ぶようにして声を張り上げるが無駄だった。ジュードは決して浅くない彼の掘った穴へ躊躇なく身を踊らせると腕に掴み掛かる。それでも尚、手を動かし続けるアルヴィンを力ずくで制止した。そのままの勢いで、彼を自分の正面へと向き直らせその顔を睨み上げた。
「何やってるんだよ。何を、やってるんだよ!」
アルヴィンは何も言わなかったが、それでもジュードを見ていた。裏切り者の酷薄な笑みも、大人の顔色を窺う子供のような卑屈な笑みも、その顔には浮かんでいない。ただ平坦に凪いだ赤褐色の中に、ジュードは自分の焦燥に駆られた表情を見留めた。
「……ち、違う。僕は」
戦慄く声で、ジュードは言った。アルヴィンは瞬きもせず、ただジュードを見つめていた。
「違う!そんなこと、思ってない」
頭を振る。けれど、乾いた土の色をした彼の双眸から視線は外せなかった。だったら彼に何を求めていたの、という声が聞こえた気がした。誰の声なのか考えを巡らせるより先に、目の前のアルヴィンが瞳を閉ざしてしまう。ただそれだけで、ジュードの伝えるべき全ての言葉を拒絶されたように思えた。
違うんだ、とジュードは繰り返した。こんな結末だけは求めていなかった。それだけは確かなんだ、と語り掛けた。許すでも罰するでもなくただ、彼の信頼と誠実さが得られたらそれだけで良かった。けれども、本当に伝えたい筈の気持ちは夢の中ですら言葉に成らず、ジュードが目覚めるまでとうとうアルヴィンは瞳を閉ざしたままでいた。
目覚めは最悪だった。夢見が悪かったということもあったが、それよりも頭が痛かった。ア・ジュールはラ・シュガルに比べると標高も高く、つい昨日まで雪深い高原を歩いていた。一度ミラの治療の為に帰郷はしたものの、慣れない環境での強行軍に身体が悲鳴をあげはじめているのかも知れない。
着替えて顔を洗い部屋を出る頃には気分も幾らか良くなっていた。階下に降りると、既にレイアとエリーゼがロビーで待っていてジュードの姿を見つけると大きく手を振ってきた。
「おはよ。ジュードが私たちより遅いなんて珍しいね」
「そうだね。疲れてたのかも?」
「えー?大丈夫?」
顔色悪いよ、とレイアに言われてジュードは曖昧に笑う。見たところレイアはいつも通りの様子で、エリーゼも元々この辺りに住んでいただけあって元気そうだ。ならばこれ以上話を長引かせる必要もないだろう、とジュードは早々に話題を今日の二人の出立へと切り替えた。
宿を出ると、三人で朝食を取ることにした。ラコルム海停まで歩かなくてはいけない二人はまた暫く携帯食ばかりになるので、今の内に暖かいものを食べるのだと随分張り切っていた。ジュードも二人と同じものを頼んで食べたが、ブウサギの腸詰めウィンナーを一本残してしまった。食べている途中で、また少し頭が痛み出した為だ。レイアとエリーゼには訝しがられたが「二人の食べっぷりを見てたら食欲なくなっちゃって」と言ったらティポに顔面に吸いつかれた。人目はひいたが、話は逸れたようでそれ以上の言及もなくジュードの残したウィンナーを二人は仲良く切り分けて食べていた。アルヴィンのようなはぐらかし方をしたな、と思ったら少し頭痛が増したようだった。誤魔化すように、ぬるくなった野菜ジュースを飲み干すジュードの前に追い討ちをかけるようにピーチパイの乗った皿が出てきて今度こそ頭を抱えたくなる。甘ったるいばかりのこのパイは彼の好物だ。旅を始めるようになってから過去に二度、作ったことがある。
一度目はエリーゼの為に作った。旅慣れない内気な彼女に、優しい味を食べさせたくて選んだのがピーチパイだった。フィリングは缶詰めの桃で簡単に済ませてしまったがエリーゼはとても喜んでくれた。だから今度作る時はフィリングから作ろう、とジュードは思った。エリーゼも一緒に作りたい、と言ってくれたので約束をした。アルヴィンは出掛けていて、その時は居なかったように記憶している。大方アルクノアか、取り引きをしたというア・ジュールの参謀と連絡を取り合っていたのだろう、と今にして思う。シャン・ドゥで彼の好物がピーチパイであることを知る前の出来事だ。
二度目は、エレンピオスでアルヴィンの従兄が住むアパートの台所を借りて作った。約束通り、エリーゼと一緒に水と塩を加えた小麦粉にバターを挟んで伸ばして生地を作り、フィリングも桃を煮詰めるところから始めた。途中で少しバターが溶けてしまったがそれでも初めてにしてはよく出来た、とエリーゼと二人で手を合わせて喜んだ。ローエンの淹れてくれた紅茶と共に舌鼓を打ちながら、ミラはいつも通り一口食べて「美味しい」と顔を綻ばせ、後は口を開く間も惜しいといった様子で黙々と手を動かしていた。今度作る時は私も呼んでよ、と言うレイアをティポがからかう。その様子を楽しそうに笑って見ているエリーゼの隣で、ピーチパイをアルヴィンも突っついていた。ジュードの視線に気が付いて顔を上げた彼は、控え目に微笑みながら「美味いよ」と言った。だから、返す言葉をなくした。隣に居たエリーゼが、嬉しそうに「本当ですか?」とアルヴィンに訊く。彼女がこのタイミングで約束のピーチパイ作りを提案したのは、アルヴィンを思ってのことだと薄々気付いていたジュードは息が詰まる思いでいた。恐らく、アルヴィンもエリーゼの優しさに気付いていたのだと思う。彼女の頭を撫でながら、同じ言葉を繰り返したからだ。その後、一人トイレに籠もって嘔吐を繰り返す扉の向こうの彼を、ジュードは責めることが出来なかった。彼の嘘を、咎めることが出来なかった。
食事を終えると、シャン・ドゥを発つ二人を街の出入り口まで見送った。「カラハ・シャールにまた遊びに来て下さいね」とエリーゼに言われたので、彼女の頭を撫でながら頷いた。レイアにも源霊匣の本格的な研究に入る前に一度ル・ロンドに戻るのか、と問われたのでイル・ファンに戻ったら寮にある荷物の幾つかを送るので整理を手伝って欲しいと頼んだ。
「全部が全部必要なものでもないからね。イル・ファンを研究の拠点にするにしても、一度綺麗にしておきたくて」
寮の住所を書いたメモをレイアに渡しながらジュードは言った。
「そーいうとこ、ホントきっちりしてるよねぇジュードは」
「そうでもないよ。普通だって」
「まぁいいや。ジュードの恥ずかしい物とか見つかるかもだし、任せといて!」
「あくまでも整理整頓を手伝ってもらうのであって、探し物が目的じゃないからねレイア?」
頼む相手を間違えたな、とジュードは少し後悔した。
川沿いの路に建ち並ぶ巨像の脇を抜けると街道が見えてきた。レイアは「それじゃあまた、イル・ファンでね」と言った。エリーゼも「また会いましょうね、ジュード」と言って笑った。ジュードも二人に「またね」と言った。そして二人の背中を見送ると、少し遅れてエリーゼの後に浮いていたティポがジュードに向かって「ばいばいジュード!」と叫んだ。そんなティポにレイアは「どうしたのティポ、いきなりそんな大きな声出して」と言って苦く笑ったようだった。エリーゼはジュードに背を向けたまま、レイアにもティポにも何も言わず真っ直ぐ前だけを向いて歩いていた。そんな彼女の背中から目が離せなかったジュードは、二人の姿が見えなくなって随分経ってから「さよなら」と呟いた。
人々の喧騒の合間を縫って、橋を渡る。いつか宿の窓から覗いた水辺には、祈りの旗は揺れていなかった。
対岸の日陰に足を踏み入れると、意識が鮮明になって少し頭痛が和らいだ気がする。ジュードの目指す船着場へと向かう道の人通りは少ない。湿地に棲息する魔物は強く、忘れられたマクスウェル信仰の聖地に人々の足が遠退いて久しい今、当たり前といえば当たり前の光景なのだろうな、と流れる水面に揺れる巨像の陰を見るともなしに眺めながらジュードは思った。だが、ジュードもまた魂を清め導く川へは向かわず、その脇の階段を上る。その先の昇降機に乗り込むと、記憶の中から一つの数字を拾い上げて該当するボタンを押した。
昇降機から下りると、強い風が頬を撫でた。開けた広縁の手摺りへと近付く。石造りの手摺りに手を這わせて階下を覗き込むと、街を彩る長い祈念布の合間に先程眺めていた川が見えた。
ガイアスの説得へ向かう前に、一度だけ異世界エレンピオスからリーゼ・マクシアに戻ってきたことがあった。もともとあまり自分から進んで先の提案をすることのなかったアルヴィンは、ハ・ミルでの一件以来更に輪をかけて自己主張らしい自己主張をしなくなった。それが、珍しくシャン・ドゥへ行きたいと彼が言ったのでジュードは二つ返事で了解し、仲間と共にこの昇降機に乗り込んだ。その時はまだ彼の母親が亡くなっていることをジュードは知らなかった。だからこの広縁に姿を見せた女性――アルヴィンが母親の世話を頼んでいた闇医者であるイスラに「母さん、死んだんだってな」と平坦な声で告げたときジュードは文字通り言葉を失った。それは一緒に居たエリーゼも同じで、ただ一人ミラだけが思案深げに目を細めてアルヴィンの様子を伺っていた。だからジュードは、既にミラは彼の母親が亡くなっていたことを知っていたのだろうな、とその時思った。
手摺りから手を離して踵を返すと、ジュードはアルヴィンの母親が亡くなった家の扉の前へと立った。彼の母親は亡くなった。ここはもうアルヴィンの帰るべき場所ではない。現に、今はもう違う人間に貸し与えている。だから遺品の整理の為立ち寄ったとしても彼がいつまでもここに留まる道理はないし、増してジュードがこうして扉の前に立つ理由もない。ただ、ふと、イル・ファンの自分の部屋のことや、最近また立て続けに視るようになった不可解な夢――そうした些末な引っ掛かりが積み重なってジュードをこの扉の前に立たせた。
アルヴィンのリーゼ・マクシアでの二十年は母親の為にあったと言っても過言ではない。それなのに彼は母親の亡骸が何処へ埋葬されたのかすら知らない。母親の最期を看取ったであろうイスラが、今やまともに受け答えの出来る状態ではなかったからだ。彼は部屋の物にはあまり執着もないようで、イスラと彼女の婚約者この部屋を譲り渡してしまった。だが、あの時は状況が状況であったし、そうでなくても自分の我が儘に付き合わせてしまったという負い目が彼の中にあっただろうことは想像に難くない。本当はアルヴィンは、あの場でもっときちんと遺品を整理したかったのではないだろうかとか、母親が何処に埋葬されたのか知りたかったのではないかとか、とジュードは思った。
少し迷ってから呼び鈴を鳴らす。ややあって扉の向こうから耳に馴染んだ声が聞こえた。ユルゲンスだ。訪問者がジュードであることを知ると、彼は驚いた様子で扉を開けてくれた。
彼が招き入れてくれるままに部屋に入ると、かつて来たときより心持ち黄昏の薄らいだ室内は少し雑然として見えた。アルヴィンの母親が伏せっていた寝台の上では、イスラが安心しきった穏やかな顔で寝息をたてている。
「……アルヴィン、来たんですよね」
窓を開け換気をするユルゲンスの背中に声を掛けた。ああ、と彼は肩越しにジュードを見やって頷いた。
「今日の朝まで居たんだがね……丁度君と入れ違う形で出掛けてしまったんだよ」
「まだシャン・ドゥに居るんですか?」
改めて部屋の中を見渡す。開け放された引き出しに衣服が無造作に引っかかっていたり、無造作に積み上げられた本が半ばで崩れていたり、確かに遺品を整理する目的で彼が訪ねてきたというわりには、何もかもが中途半端だ。
「イスラがね、アルヴィンさんのお母さんを埋葬した場所のことを話したんだよ」
穏やかに、ユルゲンスは告げた。エリーゼの生家のことがあったのであまり驚きのようなものはなかったが、それでもすぐに言葉が出てこなかった。目を閉じて、唇を引き結び、頭を垂れる。ここには居ない男を、酷く罵倒したい衝動に駆られた。
肩に温かいものが触れて、それが人の手であるということは目を閉じたままでも知れる。顔を上げるとユルゲンスが、柔らかく微笑んでいた。
「きっと、まだ彼はそこに居るんじゃないかな」
本当にユルゲンスは良い人だな、とジュードは思った。
昇降機を下りると、ジュードは川辺の船着き場へと向かった。湿地帯へ行くのかと訊ねてきた船頭に、ユルゲンスから教えて貰った場所を伝えると彼は怪訝そうに眉根を寄せながらそれでも舟を出してくれた。
舟に乗っている間、初老の船頭はジュードの告げた土地があまり人の寄り付かない場所だと言った。罪人や病人の亡骸を「処理」する為の、鳥も通わぬ不浄の地であるのだという。誰に聞いたか知らないが観光なら止めておきなさい、と言われたのでジュードは首を横に振って「違います」と告げた。
「……全く、今日は何て日だろう」ジュードの方は見ず、独り言のような調子で船頭は言った。「あんな辺鄙な場所に行きたいだなんて言う奴は今日だけで二人目だ」
ジュードは返事をしなかった。舟の揺れに頭痛が益々酷くなって、吐き気がしていたからだ。だから舟の縁にもたれかかり、大人しく薄紅に輝く雲を眺めながらアルヴィンも同じ物を見ただろうか、と考えていた。
桟橋に着くと船頭はここで待っている、と言ってくれた。だが、いつ戻るとも知れない、とジュードが言うと二時間程したら迎えに来てくれることになった。
船頭を見送り一人きりになると、ジュードは改めて辺りを見渡した。山の陰になっている所為か辺りは薄暗く、草木は乏しい。寂寞とした荒野に、乾いた風の音ばかりがいやに大きく響いている。だが、この何処かにアルヴィンが独りきりで居るのだろうと思うと、こうして立ち止まっている時間も惜しかった。頭は相変わらず痛んだが、揺れない地面の上で吐き気は少し治まった。
歩き出して暫くすると、雲の切れ間から陽の光が差し込んだのか暗い視界が明るく晴れた。赤茶けた不毛の大地はアルヴィンを探す夢の中の光景に似ていたが、足取りは重くままならない。だが、だからといって引き返すという選択肢はない。まだ、ジュードはアルヴィンを見つけていなかったからだ。
斜陽の差す緩やかな傾斜を登りきり、小高い丘の上に立つと陰になるものがなくなり視界が大きく広がった。周囲は相変わらず荒涼としていたが、すっかり葉の落ちてしまった背の低い裸の木が疎らに生えているのが見えた。その中の一つに、寄り添うような人影を見留めて一瞬、ジュードは確かに息を詰める。
夢の中、陽の光はもっと鮮烈で、全てを暴き立てるような苛烈さで、大地や、木や、そして彼を、赤く染め上げていた気がした。朝陽とも夕陽とも知れない光に輪郭を滲ませて、死者の名を刻んだ岩に囲まれた彼は木の根元に穴を掘っていた。死者を埋める為の穴なのだと、自身の深層に由来する夢を渡るジュードは即座に理解していた。だからこそ、いつか彼が話してくれた埋葬の意図を感じ取り思わず制止の声を上げた。だが、それらは全て眠りの中での話だ。目覚めてしまえば、夢は目まぐるしく流れる現実の片隅で大人しくしているしかない。だのに、今ジュードは言い知れない焦燥と既視感とに苛まれていた。
差異はある。空はもっと彩色に富んでいたし、荒野と称するには疎らだが緑の見留められるこの寂寥とした丘は、夢の中で彼を見つけた最果ての地ではない。けれど幾つかの符号の一致に、ジュードは良くない胸の高鳴りを感じた。
木の根元に深く、深い穴を掘る男がそこに居る――焦燥を促す理由はそれだけでいい。それだけで、ジュードは拳を固く握り締め、踏み出せる。
「アルヴィン!」
名前を呼んだ。風が強く吹いていたので、その音にかき消されてしまわないように声を張り上げた。夢の中では、声は決してアルヴィンに届かなかった。そんな焦りもあったかも知れない。けれど、そんなジュードの不安を余所に穴を掘る男の動きは止まった。屈めていた上体を起こすと、撫でつけられた鳶色の前髪がはらはらと落ちる。よく見ると髪は大分乱れていて、こめかみにはうっすらと汗が浮いていた。トレードマークのコートやスカーフも取り去って腕を捲った出で立ちの男は、赤味の強いブラウンの瞳に驚きの色を滲ませる。
「……ジュード?」
その酷く幼い呼び掛けに、ジュードは何故かどっと疲れた。だが、同じくらい取り繕うことのない珍しい彼の表情に安堵もした。
乾いた大地に空いた不自然な窪みまで数歩というところで、ジュードは足を止めた。窪みのほぼ中央に居るアルヴィンは、居る筈のない子供の姿を訝しげに見上げている。眉根を寄せて「何で居んの?」と彼は訊いてきた。
「……何、してるの?」
「いや、訊いてんのはこっちなんですけどね」
「何で、穴なんて」
何を埋めるの――とは、続けなかった。口を噤んで、視界からアルヴィンを追いやった。彼の少し困ったような気配がして、それから大地を穿つ乾いた音が鼓膜を揺らした。剣先スコップを突き立てて離すと、男は窪みから這い出てジュードの近くにまでやってきた。
「見て分かんない?ほら――」
促されて一度彼の顔を見上げ、それから穴を見やる。中央にはところどころが薄汚れた白い麻布の包みがあった。その周りを蝿が二匹、飛び回っているのが見える。
「お宝でも埋まってると思った?」
久しく見ることのなかった不透明な笑みを貼り付けて、アルヴィンが喉を鳴らした。ジュードは返事をしなかった。そんなジュードの様子に彼は肩を竦めて首を横に振ると、また窪みへと戻っていく。今度はジュードも止めなかった。
突き立てたスコップを引き抜くと、アルヴィンは作業を再開した。麻布の包みの周りの土を丁寧に掻き出していく。彼がどれだけ穴を掘り続けているのかは判らなかったが、こめかみから顎にかけて汗が流れ落ちる度に何某かの言葉が喉元にまでせり上がってきた。それを、ジュードは飲み下す。乱れた髪を振り乱し、手の甲で滴る汗を拭ったりなどしながら穴を掘り続ける男をただ眺めた。
やがて麻布の全容が穴の中で露わになると、アルヴィンはジュードの足元へスコップを置いた。ちょっと下がってろ、と言い残して彼は窪みの中央で屈む。それから、麻布の包みを肩の上に担ぎ上げた。彼の意図を汲み、ジュードは手を伸ばす。
「いいよ、下がってろって。汚れるぞ」
「いいから、ほら」
アルヴィンの返事は待たずに麻布に手をかけると、少し饐えた臭いがした。引き上げるジュードに合わせて、アルヴィンは麻布の包みを下から押し上げる。そのままの勢いで穴から這い出ると、衣服を軽く叩きながら「サンキュ」と言った。
「……ねぇ、アルヴィン」
麻布の包みから目の離せないまま、ジュードはアルヴィンの名前を呼んだ。何だよ、と彼はコートを羽織りながら軽い調子で返してくる。スカーフは少し迷ってから、首に引っ掛けてジュードの方へ近付いてきた。
「何で、こんなこと……」
半ば呆然とした心地のまま、包みから目の離せないジュードは言った。対照的に、彼は淡々とした様子でジュードの足元にしゃがみこみ麻布へと左の手を伸ばす。その手を、ジュードは反射的に掴んだ。アルヴィンは一瞬、本当に一瞬の間だけだが、それでも確かに身体を強ばらせた。もしかすると、ジュードの手を振り払おうとしたのかも知れない。けれど彼はただ緩く拳を固めただけだった。それから逡巡するように視線をさまよわせた後、結局その赤褐色の瞳にジュードを捉えた。
「鳥に、食わせようと思って」
そう言って、掴んでいるのとは異なるもう一方の手をジュードの手に添えて、丁寧にゆっくりと解いた。そしてまた麻布に手を掛ける。そんな彼をジュードはただ黙って見ていた。汚れてほつれた布を解いていく彼の手は慎重だったが、迷いはない。
「ジュード」
名前を呼ばれて、顔を上げた。
「あー……開ける、けど」
「……どうぞ」
「いや、そうじゃなくてだな」
乱れて落ち掛かった前髪を掻き上げながら、何処か困った様子で彼は言葉尻を濁した。手袋に土でもついていたのか、こめかみが少し汚れた。今更何を躊躇するのだろう、とジュードが小首を傾げるとアルヴィンは大袈裟に肩を落として見せた。
「……もう、何でおたくこんなとこ居んの。まじで?」
「探してたんだ。アルヴィンを」
彼のこめかみについた土を手袋に覆われた手で拭いながらジュードは言った。あまり、深く考えずに言葉を発したものだから言ってから自分で少し驚いた。
「何だそれ」
訝しげな眼差しを向けて、アルヴィンが眉をひそめる。だが、ジュードも彼の発したものと全く同じ問い掛けを自身へと投げたくなった。
「何、だろう……?」
「何かあったのか?会ってからずっと変だぞ、お前」
そう言って、アルヴィンは苦く笑った。だから、頭が痛いからだよ、という言葉は飲み込んだ。彼がせっかく笑っているのに、この場の空気が変わってしまいそうに思えたからだ。それに、この頭痛も単に夢見が悪かった所為だ。すぐに治まる。そこに至り、ふと気がついた。
「でも、本当に……ずっと探してた気がする」言葉と共にこぼれたジュードの笑顔も、苦いものになってしまったかも知れない。「やっと見つけた」
笑みをひそめて、アルヴィンは瞬く。それから居心地が悪そうに顔を背けながら、そりゃ悪かったな、と言って手を動かし始めた。その様子が奇妙に可笑しくて、ジュードは声を出して笑った。アルヴィンは「うっせぇ」とだけ言って、それ以上ジュードが彼を探してた理由を訊くことはなく、麻布を開きに掛かった。
アルヴィンが麻布を寛げると、仄かに漂っていた腐臭が一瞬だけ密度を増す。次いで、数匹の蝿が中から飛び出してきた。不快な羽音に眉をひそめるジュードを、アルヴィンが笑った。離れてろって、と言われて首を横に振ると彼はやれやれといった様子で肩に引っ掛けたスカーフを抜き取り、ジュードの口と鼻を覆うように巻き付けた。腐臭が和らぎ羽音が遠くなる代わりに、硝煙と整髪剤の入り混じったアルヴィンの匂いが鼻腔を突いた。
改めて、ジュードは彼の暴いたものを見下ろした。麻布から覗く死んだ女の顔を、ジュードは知っている。
「……レティシャさん」
手袋を引き抜いて、ジュードは彼女に手を伸ばした。その冷たく固い、土気色の頬に触れる。アルヴィンは手を出さなかった。ジュードを止める素振りもない。顔だけでなく身体に掛かっていた麻布も取り去り、ジュードは彼女に触れた。
腐敗網と死斑の浮かんだ暗青色の肩から、乳房を掠めて腐敗性水泡で肥大化した腹部へと手を滑らせる。手のひらに、生きている人間とは異なる類いの熱を感じた。側腹部にも腐敗網が見られ、淡青色に変色している。その間、手持ち無沙汰だったのか隣で屈んでいたアルヴィンは腐肉から這い出た蛆を摘んで除けていた。
「状態は悪くなさそうだね」
一通り触れて調べてから、ジュードは言った。アルヴィンは蛆を摘み続けながら何か言いたそうに口を開き掛けたが、結局唇を引き結んでしまった。そこで気がつく。
「あ……ごめん。やっぱ嫌だよね、目の前でお母さんの身体をまさぐられたら」
「優等生がまさぐるとか言うなって」
「大丈夫!別にやましい気持ちとかはないよ、安心して?」
「何の心配してるんだよ」
頭を抱えてアルヴィンが呻いた。息子としては裸の母親の身体を、子供とはいえ男に暴かれるのを眺めているというのは落ち着かない気持ちになるものではないか、と考えた結果の配慮の言葉を掛けたつもりだったが上手く伝わらなかったようだ。もういいから退けよ、とアルヴィンに上体を押しやられジュードは立ち上がる。頭を垂れてまた母親の身体を麻布で包み始めた彼を見下ろしながら、もし自分が来なければアルヴィンは自ら腐敗の状態を調べたのだろうな、と思った。
すっかり母親の身体を包んでしまい、最後に顔を布で覆うだけといったところでアルヴィンが急に手を止めた。それまで彼は流れるように手際よく作業をしていたので気になってジュードが注視していると、彼の母親の色味の薄くほつれた髪と頭皮との間から蛆が覗いているのが見えた。だが、その蛆を気に留めた様子もなくアルヴィンは母親の頬に手を添え、それから乾いてひび割れた唇をそっと親指でなぞった。
「正直、面影もないくらいもっとぐちゃぐちゃになってると思ってた」俯いたまま、アルヴィンは言った。「二節近くも前なのに、綺麗なもんだな」
抑揚を欠いた声音は、容易く風に消されてしまいそうな程小さい。ジュードは肩から下がり掛けた彼のスカーフを巻き直した。
「腐敗菌の多くは嫌気性だからね。空気中よりも水中、水中よりも地中の方が遺体は傷み難いんだよ」
恐らく、彼女を死に追いやった女はその証拠を少しでも早く隠そうと埋葬を急いだのだろう。その事実が彼女の息子の目の前に形になって横たわっていた。それを皮肉と言うべきなのだろうか、とジュードは考える。彼はただ「流石だな、医学生」と言って笑うだけだ。そこに感傷のようなものは見て取れない。
「あー……でもあれか、除籍になったんだっけか」
「それなんだけど、ガイアスの口添えで復学出来そうなんだ。卒業は遅れるかも知れないけど」
カン・バルクで源霊匣やこれからのエレンピオスとのことを話している途中、それまでの流れからジュードがタリム医学校の学生だったことが話題に上がった。四象刃が潜伏していたことで事態を把握していたガイアスが医学校に直接書状を送ることを約束してくれた。ジュードとしてはすぐにでも源霊匣の研究に着手する気でいたのだが、ローエンも今までやってきたことを無駄にすることはない、と背中を押してくれたのでガイアスの厚意を有り難く受けることにした。
「へぇ、それはまた……粋なもんだね、あの王さまも」
「確かに、色々あって医師の数も不足してるからね。ハウス教授みたいに医者をしながら研究っていうのもありなのかな、って」
そんな余裕――猶予が許されているとは思えなかったが、だからといって源霊匣に全てを捧げることを精霊の主と成った彼女が望んでいるとも思えない。
気がつくと、アルヴィンは顔を上げていた。肩越しにジュードを見上げている。何、とジュードは首を傾げた。
「いや?……まぁ、何にせよ良かったな」
曖昧に答えを濁して、アルヴィンはまた俯いてしまった。それでも更に言及を深めようという気にならなかったのは、直前に彼がとても嬉しそうな笑顔をジュードに向けたからだ。
生前の面差しがくっきりと残った死体の額にアルヴィンは唇を落とし、今度こそ完全に麻布で覆った。耳鳴りに混ざる蝿の羽音が鼓膜を揺らす中、ジュードは今彼を独りにしなくて済んだ偶然に何となく感謝した。
闘技大会の時期も過ぎて人の波は疎らだったが、念のため先に宿を確保しておくことに決める。ロビーで名前を書くジュードを残して、レイアとエリーゼは隣のカウンターへ携帯食の注文をしに行ってしまった。「二人分だけなんだから、買い過ぎないようにね」と声を掛けるが、返されたのは生返事だけだった。そんな二人を諦観を以って眺めながらふと、アルヴィンもまだこの街に居るのではないだろうか、と過ぎる。もしかすると、宿に滞在しているかも知れない。そんな思いに突き動かされて、口を開こうとしたジュードを呼ぶ声が背後から掛けられた。
「ジュード、こっちは終わったよ。そっちは?部屋取れた?」
「……うん。大丈夫」
振り返ると、レイアとエリーゼが立っていた。
「じゃあ、雑貨屋さんで道具を補充しましょう」
少女はそう言って促すようにジュードの手を取った。その手を柔らかく握り返しながら、ジュードは開こうとした口を噤んで笑みの形に吊り上げた。
渡し舟に乗り、闘技場の受付近くにある雑貨屋で道具を補充すると特に寄り道をすることもなくジュードたちは宿へ戻ることにした。野盗や魔物にこそ手こずりはしなかったものの、慣れない雪道を歩いてきた所為で足が痛い。そう思っているのはジュードだけではないらしく、街の中を見て回るのが好きな筈のレイアとエリーゼも特に何も言わずについて来た。
「あー……足だるーい」
「余ったハートハーブを乾燥させたものがありますから、フロントで桶を借りて足湯でもしましょうか」
「さんせーい」
「そうだね。明日も歩かなきゃならないし」
エリーゼの提案に賛同したレイアに、ジュードも同意する。部屋に入ると夕食の前に、借りてきた桶に湯を張って素足を浸した。温かい湯と緊張を和らげる効果のあるハートハーブの芳香で、張っていた足が徐々に解きほぐされていくような心地がする。
「これ、前にアロマにしたとき大変だったよね」
動かなくなった足の補助器具として取り付けた医療ジンテクスの痛みを緩和する目的で、一度ミラの為にハートハーブを探したことがあった。その時のことを思い出して、ジュードは笑う。
「ああ、あれね!ミラのしゃっくりが止まらなくなったやつ」
「でも、ミラ嬉しそうでした」
口に出して笑い合うレイアとエリーゼも嬉しそうだ。香草の薫りを孕む湯気の合間を漂うティポがはしゃぐようにして辺りを飛び交う。
「皆が採ってきてくれた、ってことがミラは嬉しかったんだろうね」
そんなミラを見て、ジュードも嬉しかった。彼女の役に立てるだけで、その時は良かった。そんな些細な全てが今は遠い。
「でもさぁ、あの時は皆一緒だったのに三人だけになっちゃったねー。やっぱ何かサミシー」
エリーゼではなくレイアの膝の上に収まりながら、ティポが言った。困惑した様子でエリーゼが縫いぐるみの名前を呼ぶ。けれど少女の深層は取り繕うでもなく「だってホントのことでしょー」と言った。
「す、すみません」
「いいよ。多分、僕もレイアもエリーゼと同じ気持ちだから」
旅の途中、色々な所へ行った。大きな滝の下をくぐったり、深い森を抜けたり、果てのない荒野をさ迷ったりもした。その全てを、ミラや仲間たちと乗り越えた。その暖かな記憶の気配を感じずに居られる場所は、あまりにも少ない。
浮遊する縫いぐるみがレイアの膝から定位置であるエリーゼの元へ戻る途中「明日にはジュードともお別れだしー」と寂しそうに呟いた。喉元まで出掛かった謝罪の言葉より先に、レイアが「私は、カラハ・シャールまで一緒だからね」と言ってエリーゼの手を握る。エリーゼもすぐに朗らかな笑顔を見せて頷いた。そんな二人のやり取りを眺めながらジュードはレイアに感謝した。ティポはそれ以上何も言わなかった。
夢を視る。眠りに就いた時と同じその場所で目覚める夢を視る。
上体を起こし、黄昏が浮き彫りにする陰影の濃い部屋の中をジュードは見渡した。窓を一瞥し、すぐに逸らす。常ならば窓辺に寄り流れる川と石畳を眺めたが、今日の夢においてはジュードはすぐに背を向けて扉へと向かった。
扉は難なく開くと、密室は荒野へと転じた。水音は遠退いて、眼前には乾いた大地が広がる。ジュードは躊躇なく一歩を踏み出した。
ままならない明晰夢の中、今やジュードは自由だった。扉は記号でしかなく、距離もまた意味を成さない。鈍く輝く空の下、ジュードはただ強く強く呪詛のように念じた。放たれた夢の中で、確信だけを胸に抱いて彼を探した。
やがて、夢はひしゃげた枯木の元へと辿り着く。狂気のように鮮明な夕陽が辺りを真っ赤に染めていて、曲がった枯木は腰の折れた老人の影にも似て見えた。そして、その根元にジュードは彼の姿を見留めた。
歩調を緩め近付いていく。アルヴィンは錆びた剣先スコップを手に、穴を掘っていた。やっとのことで見つけたというのに、彼はジュードが傍らに立っていることに気付いた様子もなく一心不乱に穴を掘り続ける。ジュードは、アルヴィンの名前を二度呼んだ。一度目は特に意識することもなく、二度目はやや強い口調で呼び掛けたがそのどちらにもアルヴィンは顔を上げはしなかった。こうなるとどうにもならない夢の中のルールのようなものを、いい加減に理解していたジュードは諦めて周囲を見渡す。広がるのは矢張り荒涼とした大地ばかりで、陰を作るものは無機質な岩ばかりだ。
鳥の一羽もなく、獣も絶えた、虫の鳴き声すらしない世界で、枯れた木の根元を掘る男はジュードに気がつかない。何だこれは、とうんざりしながらジュードは溜め息を吐いた。男は手を止めることなく穴を掘り続けた。その時にはもう既に、半ば夢の終わりを望み朝の気配を探り始めていたジュードはふとあることに気がついた。穴を掘る男の傍ら、やけに規則正しく立ち並ぶ岩が気にかかった。迂回し、ジュードは岩へと近付く。そして、それらが自然物ではなく人の手の加えられたものであると知れると、全てを直観的に悟った。それから、ゆっくりとアルヴィンへと向き直る。彼は、相変わらず穴を掘っていた。
「アルヴィン」
名前を呼ぶ。男は穴を彫り続けた。返事はない。分かっていた。それでも、縋るような心地でもう一度ジュードはアルヴィンの名前を呼んだ。
人の手の加えられた形跡のある岩は、全部で三つあった。それぞれに文字が彫られていたが、夢である所為かジュードが「彼ら」の正確な名前を知らない所為なのか、読み取ることは出来なかった。ただ、読み取ることは出来なくてもその文字が名前であることが解ったように、その読み取れない文字が示す人物が誰なのかジュードは正しく理解した。だから、戦慄く声で彼の名を呼んだ。
「……アルヴィン、やめて」
固く、凍れる大地を掘り進める男に言った。いつだったか、男自身の口から聞いた言葉を思い出す。黄昏に輪郭を滲ませて、死を眺める男の横顔をジュードは見つめていた。
「やめて」
人の手の加えられた岩は、墓標だ。彼の言うような精霊信仰にまつわるア・ジュールの埋葬方法は知らなかったが、それでも聞きかじりの知識や馴染みのあるラ・シュガルの埋葬を都合良く継ぎ接ぎしてこの夢が成っていることは容易に知れる。何より、岩に刻まれていたことごとくの死者はアルヴィンに縁ある人々だった。彼の母親や、彼を想い続けた女、彼を疎み続けた彼の叔父――それら死者の傍らで男は穴を掘り続ける。その意味を、辿り着く先を考える。ここはジュードの夢の中だ。夢は、深層の代弁者だ。その意味を、考える。
「やめて……やめなよ、アルヴィン!」
叫ぶようにして声を張り上げるが無駄だった。ジュードは決して浅くない彼の掘った穴へ躊躇なく身を踊らせると腕に掴み掛かる。それでも尚、手を動かし続けるアルヴィンを力ずくで制止した。そのままの勢いで、彼を自分の正面へと向き直らせその顔を睨み上げた。
「何やってるんだよ。何を、やってるんだよ!」
アルヴィンは何も言わなかったが、それでもジュードを見ていた。裏切り者の酷薄な笑みも、大人の顔色を窺う子供のような卑屈な笑みも、その顔には浮かんでいない。ただ平坦に凪いだ赤褐色の中に、ジュードは自分の焦燥に駆られた表情を見留めた。
「……ち、違う。僕は」
戦慄く声で、ジュードは言った。アルヴィンは瞬きもせず、ただジュードを見つめていた。
「違う!そんなこと、思ってない」
頭を振る。けれど、乾いた土の色をした彼の双眸から視線は外せなかった。だったら彼に何を求めていたの、という声が聞こえた気がした。誰の声なのか考えを巡らせるより先に、目の前のアルヴィンが瞳を閉ざしてしまう。ただそれだけで、ジュードの伝えるべき全ての言葉を拒絶されたように思えた。
違うんだ、とジュードは繰り返した。こんな結末だけは求めていなかった。それだけは確かなんだ、と語り掛けた。許すでも罰するでもなくただ、彼の信頼と誠実さが得られたらそれだけで良かった。けれども、本当に伝えたい筈の気持ちは夢の中ですら言葉に成らず、ジュードが目覚めるまでとうとうアルヴィンは瞳を閉ざしたままでいた。
目覚めは最悪だった。夢見が悪かったということもあったが、それよりも頭が痛かった。ア・ジュールはラ・シュガルに比べると標高も高く、つい昨日まで雪深い高原を歩いていた。一度ミラの治療の為に帰郷はしたものの、慣れない環境での強行軍に身体が悲鳴をあげはじめているのかも知れない。
着替えて顔を洗い部屋を出る頃には気分も幾らか良くなっていた。階下に降りると、既にレイアとエリーゼがロビーで待っていてジュードの姿を見つけると大きく手を振ってきた。
「おはよ。ジュードが私たちより遅いなんて珍しいね」
「そうだね。疲れてたのかも?」
「えー?大丈夫?」
顔色悪いよ、とレイアに言われてジュードは曖昧に笑う。見たところレイアはいつも通りの様子で、エリーゼも元々この辺りに住んでいただけあって元気そうだ。ならばこれ以上話を長引かせる必要もないだろう、とジュードは早々に話題を今日の二人の出立へと切り替えた。
宿を出ると、三人で朝食を取ることにした。ラコルム海停まで歩かなくてはいけない二人はまた暫く携帯食ばかりになるので、今の内に暖かいものを食べるのだと随分張り切っていた。ジュードも二人と同じものを頼んで食べたが、ブウサギの腸詰めウィンナーを一本残してしまった。食べている途中で、また少し頭が痛み出した為だ。レイアとエリーゼには訝しがられたが「二人の食べっぷりを見てたら食欲なくなっちゃって」と言ったらティポに顔面に吸いつかれた。人目はひいたが、話は逸れたようでそれ以上の言及もなくジュードの残したウィンナーを二人は仲良く切り分けて食べていた。アルヴィンのようなはぐらかし方をしたな、と思ったら少し頭痛が増したようだった。誤魔化すように、ぬるくなった野菜ジュースを飲み干すジュードの前に追い討ちをかけるようにピーチパイの乗った皿が出てきて今度こそ頭を抱えたくなる。甘ったるいばかりのこのパイは彼の好物だ。旅を始めるようになってから過去に二度、作ったことがある。
一度目はエリーゼの為に作った。旅慣れない内気な彼女に、優しい味を食べさせたくて選んだのがピーチパイだった。フィリングは缶詰めの桃で簡単に済ませてしまったがエリーゼはとても喜んでくれた。だから今度作る時はフィリングから作ろう、とジュードは思った。エリーゼも一緒に作りたい、と言ってくれたので約束をした。アルヴィンは出掛けていて、その時は居なかったように記憶している。大方アルクノアか、取り引きをしたというア・ジュールの参謀と連絡を取り合っていたのだろう、と今にして思う。シャン・ドゥで彼の好物がピーチパイであることを知る前の出来事だ。
二度目は、エレンピオスでアルヴィンの従兄が住むアパートの台所を借りて作った。約束通り、エリーゼと一緒に水と塩を加えた小麦粉にバターを挟んで伸ばして生地を作り、フィリングも桃を煮詰めるところから始めた。途中で少しバターが溶けてしまったがそれでも初めてにしてはよく出来た、とエリーゼと二人で手を合わせて喜んだ。ローエンの淹れてくれた紅茶と共に舌鼓を打ちながら、ミラはいつも通り一口食べて「美味しい」と顔を綻ばせ、後は口を開く間も惜しいといった様子で黙々と手を動かしていた。今度作る時は私も呼んでよ、と言うレイアをティポがからかう。その様子を楽しそうに笑って見ているエリーゼの隣で、ピーチパイをアルヴィンも突っついていた。ジュードの視線に気が付いて顔を上げた彼は、控え目に微笑みながら「美味いよ」と言った。だから、返す言葉をなくした。隣に居たエリーゼが、嬉しそうに「本当ですか?」とアルヴィンに訊く。彼女がこのタイミングで約束のピーチパイ作りを提案したのは、アルヴィンを思ってのことだと薄々気付いていたジュードは息が詰まる思いでいた。恐らく、アルヴィンもエリーゼの優しさに気付いていたのだと思う。彼女の頭を撫でながら、同じ言葉を繰り返したからだ。その後、一人トイレに籠もって嘔吐を繰り返す扉の向こうの彼を、ジュードは責めることが出来なかった。彼の嘘を、咎めることが出来なかった。
食事を終えると、シャン・ドゥを発つ二人を街の出入り口まで見送った。「カラハ・シャールにまた遊びに来て下さいね」とエリーゼに言われたので、彼女の頭を撫でながら頷いた。レイアにも源霊匣の本格的な研究に入る前に一度ル・ロンドに戻るのか、と問われたのでイル・ファンに戻ったら寮にある荷物の幾つかを送るので整理を手伝って欲しいと頼んだ。
「全部が全部必要なものでもないからね。イル・ファンを研究の拠点にするにしても、一度綺麗にしておきたくて」
寮の住所を書いたメモをレイアに渡しながらジュードは言った。
「そーいうとこ、ホントきっちりしてるよねぇジュードは」
「そうでもないよ。普通だって」
「まぁいいや。ジュードの恥ずかしい物とか見つかるかもだし、任せといて!」
「あくまでも整理整頓を手伝ってもらうのであって、探し物が目的じゃないからねレイア?」
頼む相手を間違えたな、とジュードは少し後悔した。
川沿いの路に建ち並ぶ巨像の脇を抜けると街道が見えてきた。レイアは「それじゃあまた、イル・ファンでね」と言った。エリーゼも「また会いましょうね、ジュード」と言って笑った。ジュードも二人に「またね」と言った。そして二人の背中を見送ると、少し遅れてエリーゼの後に浮いていたティポがジュードに向かって「ばいばいジュード!」と叫んだ。そんなティポにレイアは「どうしたのティポ、いきなりそんな大きな声出して」と言って苦く笑ったようだった。エリーゼはジュードに背を向けたまま、レイアにもティポにも何も言わず真っ直ぐ前だけを向いて歩いていた。そんな彼女の背中から目が離せなかったジュードは、二人の姿が見えなくなって随分経ってから「さよなら」と呟いた。
人々の喧騒の合間を縫って、橋を渡る。いつか宿の窓から覗いた水辺には、祈りの旗は揺れていなかった。
対岸の日陰に足を踏み入れると、意識が鮮明になって少し頭痛が和らいだ気がする。ジュードの目指す船着場へと向かう道の人通りは少ない。湿地に棲息する魔物は強く、忘れられたマクスウェル信仰の聖地に人々の足が遠退いて久しい今、当たり前といえば当たり前の光景なのだろうな、と流れる水面に揺れる巨像の陰を見るともなしに眺めながらジュードは思った。だが、ジュードもまた魂を清め導く川へは向かわず、その脇の階段を上る。その先の昇降機に乗り込むと、記憶の中から一つの数字を拾い上げて該当するボタンを押した。
昇降機から下りると、強い風が頬を撫でた。開けた広縁の手摺りへと近付く。石造りの手摺りに手を這わせて階下を覗き込むと、街を彩る長い祈念布の合間に先程眺めていた川が見えた。
ガイアスの説得へ向かう前に、一度だけ異世界エレンピオスからリーゼ・マクシアに戻ってきたことがあった。もともとあまり自分から進んで先の提案をすることのなかったアルヴィンは、ハ・ミルでの一件以来更に輪をかけて自己主張らしい自己主張をしなくなった。それが、珍しくシャン・ドゥへ行きたいと彼が言ったのでジュードは二つ返事で了解し、仲間と共にこの昇降機に乗り込んだ。その時はまだ彼の母親が亡くなっていることをジュードは知らなかった。だからこの広縁に姿を見せた女性――アルヴィンが母親の世話を頼んでいた闇医者であるイスラに「母さん、死んだんだってな」と平坦な声で告げたときジュードは文字通り言葉を失った。それは一緒に居たエリーゼも同じで、ただ一人ミラだけが思案深げに目を細めてアルヴィンの様子を伺っていた。だからジュードは、既にミラは彼の母親が亡くなっていたことを知っていたのだろうな、とその時思った。
手摺りから手を離して踵を返すと、ジュードはアルヴィンの母親が亡くなった家の扉の前へと立った。彼の母親は亡くなった。ここはもうアルヴィンの帰るべき場所ではない。現に、今はもう違う人間に貸し与えている。だから遺品の整理の為立ち寄ったとしても彼がいつまでもここに留まる道理はないし、増してジュードがこうして扉の前に立つ理由もない。ただ、ふと、イル・ファンの自分の部屋のことや、最近また立て続けに視るようになった不可解な夢――そうした些末な引っ掛かりが積み重なってジュードをこの扉の前に立たせた。
アルヴィンのリーゼ・マクシアでの二十年は母親の為にあったと言っても過言ではない。それなのに彼は母親の亡骸が何処へ埋葬されたのかすら知らない。母親の最期を看取ったであろうイスラが、今やまともに受け答えの出来る状態ではなかったからだ。彼は部屋の物にはあまり執着もないようで、イスラと彼女の婚約者この部屋を譲り渡してしまった。だが、あの時は状況が状況であったし、そうでなくても自分の我が儘に付き合わせてしまったという負い目が彼の中にあっただろうことは想像に難くない。本当はアルヴィンは、あの場でもっときちんと遺品を整理したかったのではないだろうかとか、母親が何処に埋葬されたのか知りたかったのではないかとか、とジュードは思った。
少し迷ってから呼び鈴を鳴らす。ややあって扉の向こうから耳に馴染んだ声が聞こえた。ユルゲンスだ。訪問者がジュードであることを知ると、彼は驚いた様子で扉を開けてくれた。
彼が招き入れてくれるままに部屋に入ると、かつて来たときより心持ち黄昏の薄らいだ室内は少し雑然として見えた。アルヴィンの母親が伏せっていた寝台の上では、イスラが安心しきった穏やかな顔で寝息をたてている。
「……アルヴィン、来たんですよね」
窓を開け換気をするユルゲンスの背中に声を掛けた。ああ、と彼は肩越しにジュードを見やって頷いた。
「今日の朝まで居たんだがね……丁度君と入れ違う形で出掛けてしまったんだよ」
「まだシャン・ドゥに居るんですか?」
改めて部屋の中を見渡す。開け放された引き出しに衣服が無造作に引っかかっていたり、無造作に積み上げられた本が半ばで崩れていたり、確かに遺品を整理する目的で彼が訪ねてきたというわりには、何もかもが中途半端だ。
「イスラがね、アルヴィンさんのお母さんを埋葬した場所のことを話したんだよ」
穏やかに、ユルゲンスは告げた。エリーゼの生家のことがあったのであまり驚きのようなものはなかったが、それでもすぐに言葉が出てこなかった。目を閉じて、唇を引き結び、頭を垂れる。ここには居ない男を、酷く罵倒したい衝動に駆られた。
肩に温かいものが触れて、それが人の手であるということは目を閉じたままでも知れる。顔を上げるとユルゲンスが、柔らかく微笑んでいた。
「きっと、まだ彼はそこに居るんじゃないかな」
本当にユルゲンスは良い人だな、とジュードは思った。
昇降機を下りると、ジュードは川辺の船着き場へと向かった。湿地帯へ行くのかと訊ねてきた船頭に、ユルゲンスから教えて貰った場所を伝えると彼は怪訝そうに眉根を寄せながらそれでも舟を出してくれた。
舟に乗っている間、初老の船頭はジュードの告げた土地があまり人の寄り付かない場所だと言った。罪人や病人の亡骸を「処理」する為の、鳥も通わぬ不浄の地であるのだという。誰に聞いたか知らないが観光なら止めておきなさい、と言われたのでジュードは首を横に振って「違います」と告げた。
「……全く、今日は何て日だろう」ジュードの方は見ず、独り言のような調子で船頭は言った。「あんな辺鄙な場所に行きたいだなんて言う奴は今日だけで二人目だ」
ジュードは返事をしなかった。舟の揺れに頭痛が益々酷くなって、吐き気がしていたからだ。だから舟の縁にもたれかかり、大人しく薄紅に輝く雲を眺めながらアルヴィンも同じ物を見ただろうか、と考えていた。
桟橋に着くと船頭はここで待っている、と言ってくれた。だが、いつ戻るとも知れない、とジュードが言うと二時間程したら迎えに来てくれることになった。
船頭を見送り一人きりになると、ジュードは改めて辺りを見渡した。山の陰になっている所為か辺りは薄暗く、草木は乏しい。寂寞とした荒野に、乾いた風の音ばかりがいやに大きく響いている。だが、この何処かにアルヴィンが独りきりで居るのだろうと思うと、こうして立ち止まっている時間も惜しかった。頭は相変わらず痛んだが、揺れない地面の上で吐き気は少し治まった。
歩き出して暫くすると、雲の切れ間から陽の光が差し込んだのか暗い視界が明るく晴れた。赤茶けた不毛の大地はアルヴィンを探す夢の中の光景に似ていたが、足取りは重くままならない。だが、だからといって引き返すという選択肢はない。まだ、ジュードはアルヴィンを見つけていなかったからだ。
斜陽の差す緩やかな傾斜を登りきり、小高い丘の上に立つと陰になるものがなくなり視界が大きく広がった。周囲は相変わらず荒涼としていたが、すっかり葉の落ちてしまった背の低い裸の木が疎らに生えているのが見えた。その中の一つに、寄り添うような人影を見留めて一瞬、ジュードは確かに息を詰める。
夢の中、陽の光はもっと鮮烈で、全てを暴き立てるような苛烈さで、大地や、木や、そして彼を、赤く染め上げていた気がした。朝陽とも夕陽とも知れない光に輪郭を滲ませて、死者の名を刻んだ岩に囲まれた彼は木の根元に穴を掘っていた。死者を埋める為の穴なのだと、自身の深層に由来する夢を渡るジュードは即座に理解していた。だからこそ、いつか彼が話してくれた埋葬の意図を感じ取り思わず制止の声を上げた。だが、それらは全て眠りの中での話だ。目覚めてしまえば、夢は目まぐるしく流れる現実の片隅で大人しくしているしかない。だのに、今ジュードは言い知れない焦燥と既視感とに苛まれていた。
差異はある。空はもっと彩色に富んでいたし、荒野と称するには疎らだが緑の見留められるこの寂寥とした丘は、夢の中で彼を見つけた最果ての地ではない。けれど幾つかの符号の一致に、ジュードは良くない胸の高鳴りを感じた。
木の根元に深く、深い穴を掘る男がそこに居る――焦燥を促す理由はそれだけでいい。それだけで、ジュードは拳を固く握り締め、踏み出せる。
「アルヴィン!」
名前を呼んだ。風が強く吹いていたので、その音にかき消されてしまわないように声を張り上げた。夢の中では、声は決してアルヴィンに届かなかった。そんな焦りもあったかも知れない。けれど、そんなジュードの不安を余所に穴を掘る男の動きは止まった。屈めていた上体を起こすと、撫でつけられた鳶色の前髪がはらはらと落ちる。よく見ると髪は大分乱れていて、こめかみにはうっすらと汗が浮いていた。トレードマークのコートやスカーフも取り去って腕を捲った出で立ちの男は、赤味の強いブラウンの瞳に驚きの色を滲ませる。
「……ジュード?」
その酷く幼い呼び掛けに、ジュードは何故かどっと疲れた。だが、同じくらい取り繕うことのない珍しい彼の表情に安堵もした。
乾いた大地に空いた不自然な窪みまで数歩というところで、ジュードは足を止めた。窪みのほぼ中央に居るアルヴィンは、居る筈のない子供の姿を訝しげに見上げている。眉根を寄せて「何で居んの?」と彼は訊いてきた。
「……何、してるの?」
「いや、訊いてんのはこっちなんですけどね」
「何で、穴なんて」
何を埋めるの――とは、続けなかった。口を噤んで、視界からアルヴィンを追いやった。彼の少し困ったような気配がして、それから大地を穿つ乾いた音が鼓膜を揺らした。剣先スコップを突き立てて離すと、男は窪みから這い出てジュードの近くにまでやってきた。
「見て分かんない?ほら――」
促されて一度彼の顔を見上げ、それから穴を見やる。中央にはところどころが薄汚れた白い麻布の包みがあった。その周りを蝿が二匹、飛び回っているのが見える。
「お宝でも埋まってると思った?」
久しく見ることのなかった不透明な笑みを貼り付けて、アルヴィンが喉を鳴らした。ジュードは返事をしなかった。そんなジュードの様子に彼は肩を竦めて首を横に振ると、また窪みへと戻っていく。今度はジュードも止めなかった。
突き立てたスコップを引き抜くと、アルヴィンは作業を再開した。麻布の包みの周りの土を丁寧に掻き出していく。彼がどれだけ穴を掘り続けているのかは判らなかったが、こめかみから顎にかけて汗が流れ落ちる度に何某かの言葉が喉元にまでせり上がってきた。それを、ジュードは飲み下す。乱れた髪を振り乱し、手の甲で滴る汗を拭ったりなどしながら穴を掘り続ける男をただ眺めた。
やがて麻布の全容が穴の中で露わになると、アルヴィンはジュードの足元へスコップを置いた。ちょっと下がってろ、と言い残して彼は窪みの中央で屈む。それから、麻布の包みを肩の上に担ぎ上げた。彼の意図を汲み、ジュードは手を伸ばす。
「いいよ、下がってろって。汚れるぞ」
「いいから、ほら」
アルヴィンの返事は待たずに麻布に手をかけると、少し饐えた臭いがした。引き上げるジュードに合わせて、アルヴィンは麻布の包みを下から押し上げる。そのままの勢いで穴から這い出ると、衣服を軽く叩きながら「サンキュ」と言った。
「……ねぇ、アルヴィン」
麻布の包みから目の離せないまま、ジュードはアルヴィンの名前を呼んだ。何だよ、と彼はコートを羽織りながら軽い調子で返してくる。スカーフは少し迷ってから、首に引っ掛けてジュードの方へ近付いてきた。
「何で、こんなこと……」
半ば呆然とした心地のまま、包みから目の離せないジュードは言った。対照的に、彼は淡々とした様子でジュードの足元にしゃがみこみ麻布へと左の手を伸ばす。その手を、ジュードは反射的に掴んだ。アルヴィンは一瞬、本当に一瞬の間だけだが、それでも確かに身体を強ばらせた。もしかすると、ジュードの手を振り払おうとしたのかも知れない。けれど彼はただ緩く拳を固めただけだった。それから逡巡するように視線をさまよわせた後、結局その赤褐色の瞳にジュードを捉えた。
「鳥に、食わせようと思って」
そう言って、掴んでいるのとは異なるもう一方の手をジュードの手に添えて、丁寧にゆっくりと解いた。そしてまた麻布に手を掛ける。そんな彼をジュードはただ黙って見ていた。汚れてほつれた布を解いていく彼の手は慎重だったが、迷いはない。
「ジュード」
名前を呼ばれて、顔を上げた。
「あー……開ける、けど」
「……どうぞ」
「いや、そうじゃなくてだな」
乱れて落ち掛かった前髪を掻き上げながら、何処か困った様子で彼は言葉尻を濁した。手袋に土でもついていたのか、こめかみが少し汚れた。今更何を躊躇するのだろう、とジュードが小首を傾げるとアルヴィンは大袈裟に肩を落として見せた。
「……もう、何でおたくこんなとこ居んの。まじで?」
「探してたんだ。アルヴィンを」
彼のこめかみについた土を手袋に覆われた手で拭いながらジュードは言った。あまり、深く考えずに言葉を発したものだから言ってから自分で少し驚いた。
「何だそれ」
訝しげな眼差しを向けて、アルヴィンが眉をひそめる。だが、ジュードも彼の発したものと全く同じ問い掛けを自身へと投げたくなった。
「何、だろう……?」
「何かあったのか?会ってからずっと変だぞ、お前」
そう言って、アルヴィンは苦く笑った。だから、頭が痛いからだよ、という言葉は飲み込んだ。彼がせっかく笑っているのに、この場の空気が変わってしまいそうに思えたからだ。それに、この頭痛も単に夢見が悪かった所為だ。すぐに治まる。そこに至り、ふと気がついた。
「でも、本当に……ずっと探してた気がする」言葉と共にこぼれたジュードの笑顔も、苦いものになってしまったかも知れない。「やっと見つけた」
笑みをひそめて、アルヴィンは瞬く。それから居心地が悪そうに顔を背けながら、そりゃ悪かったな、と言って手を動かし始めた。その様子が奇妙に可笑しくて、ジュードは声を出して笑った。アルヴィンは「うっせぇ」とだけ言って、それ以上ジュードが彼を探してた理由を訊くことはなく、麻布を開きに掛かった。
アルヴィンが麻布を寛げると、仄かに漂っていた腐臭が一瞬だけ密度を増す。次いで、数匹の蝿が中から飛び出してきた。不快な羽音に眉をひそめるジュードを、アルヴィンが笑った。離れてろって、と言われて首を横に振ると彼はやれやれといった様子で肩に引っ掛けたスカーフを抜き取り、ジュードの口と鼻を覆うように巻き付けた。腐臭が和らぎ羽音が遠くなる代わりに、硝煙と整髪剤の入り混じったアルヴィンの匂いが鼻腔を突いた。
改めて、ジュードは彼の暴いたものを見下ろした。麻布から覗く死んだ女の顔を、ジュードは知っている。
「……レティシャさん」
手袋を引き抜いて、ジュードは彼女に手を伸ばした。その冷たく固い、土気色の頬に触れる。アルヴィンは手を出さなかった。ジュードを止める素振りもない。顔だけでなく身体に掛かっていた麻布も取り去り、ジュードは彼女に触れた。
腐敗網と死斑の浮かんだ暗青色の肩から、乳房を掠めて腐敗性水泡で肥大化した腹部へと手を滑らせる。手のひらに、生きている人間とは異なる類いの熱を感じた。側腹部にも腐敗網が見られ、淡青色に変色している。その間、手持ち無沙汰だったのか隣で屈んでいたアルヴィンは腐肉から這い出た蛆を摘んで除けていた。
「状態は悪くなさそうだね」
一通り触れて調べてから、ジュードは言った。アルヴィンは蛆を摘み続けながら何か言いたそうに口を開き掛けたが、結局唇を引き結んでしまった。そこで気がつく。
「あ……ごめん。やっぱ嫌だよね、目の前でお母さんの身体をまさぐられたら」
「優等生がまさぐるとか言うなって」
「大丈夫!別にやましい気持ちとかはないよ、安心して?」
「何の心配してるんだよ」
頭を抱えてアルヴィンが呻いた。息子としては裸の母親の身体を、子供とはいえ男に暴かれるのを眺めているというのは落ち着かない気持ちになるものではないか、と考えた結果の配慮の言葉を掛けたつもりだったが上手く伝わらなかったようだ。もういいから退けよ、とアルヴィンに上体を押しやられジュードは立ち上がる。頭を垂れてまた母親の身体を麻布で包み始めた彼を見下ろしながら、もし自分が来なければアルヴィンは自ら腐敗の状態を調べたのだろうな、と思った。
すっかり母親の身体を包んでしまい、最後に顔を布で覆うだけといったところでアルヴィンが急に手を止めた。それまで彼は流れるように手際よく作業をしていたので気になってジュードが注視していると、彼の母親の色味の薄くほつれた髪と頭皮との間から蛆が覗いているのが見えた。だが、その蛆を気に留めた様子もなくアルヴィンは母親の頬に手を添え、それから乾いてひび割れた唇をそっと親指でなぞった。
「正直、面影もないくらいもっとぐちゃぐちゃになってると思ってた」俯いたまま、アルヴィンは言った。「二節近くも前なのに、綺麗なもんだな」
抑揚を欠いた声音は、容易く風に消されてしまいそうな程小さい。ジュードは肩から下がり掛けた彼のスカーフを巻き直した。
「腐敗菌の多くは嫌気性だからね。空気中よりも水中、水中よりも地中の方が遺体は傷み難いんだよ」
恐らく、彼女を死に追いやった女はその証拠を少しでも早く隠そうと埋葬を急いだのだろう。その事実が彼女の息子の目の前に形になって横たわっていた。それを皮肉と言うべきなのだろうか、とジュードは考える。彼はただ「流石だな、医学生」と言って笑うだけだ。そこに感傷のようなものは見て取れない。
「あー……でもあれか、除籍になったんだっけか」
「それなんだけど、ガイアスの口添えで復学出来そうなんだ。卒業は遅れるかも知れないけど」
カン・バルクで源霊匣やこれからのエレンピオスとのことを話している途中、それまでの流れからジュードがタリム医学校の学生だったことが話題に上がった。四象刃が潜伏していたことで事態を把握していたガイアスが医学校に直接書状を送ることを約束してくれた。ジュードとしてはすぐにでも源霊匣の研究に着手する気でいたのだが、ローエンも今までやってきたことを無駄にすることはない、と背中を押してくれたのでガイアスの厚意を有り難く受けることにした。
「へぇ、それはまた……粋なもんだね、あの王さまも」
「確かに、色々あって医師の数も不足してるからね。ハウス教授みたいに医者をしながら研究っていうのもありなのかな、って」
そんな余裕――猶予が許されているとは思えなかったが、だからといって源霊匣に全てを捧げることを精霊の主と成った彼女が望んでいるとも思えない。
気がつくと、アルヴィンは顔を上げていた。肩越しにジュードを見上げている。何、とジュードは首を傾げた。
「いや?……まぁ、何にせよ良かったな」
曖昧に答えを濁して、アルヴィンはまた俯いてしまった。それでも更に言及を深めようという気にならなかったのは、直前に彼がとても嬉しそうな笑顔をジュードに向けたからだ。
生前の面差しがくっきりと残った死体の額にアルヴィンは唇を落とし、今度こそ完全に麻布で覆った。耳鳴りに混ざる蝿の羽音が鼓膜を揺らす中、ジュードは今彼を独りにしなくて済んだ偶然に何となく感謝した。
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