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  • 04/29/06:22

11.30.09:28

鳥をまつひと3

 空へ向けて真っ直ぐに伸ばされた指先から、羽音を立てて一羽の鳥が飛び去っていく。ジュードは鳥を放った男の背を見るともなしに眺めていた。
 頭痛が少し治まった代わりに、息をする度に胃が重く沈むような感覚を覚える。耳鳴りも酷い上に、無神経な蝿たちが相変わらず耳元を煩わしく飛び交っていた。正確には、座り込むジュードの傍らから漂う死臭に集っている。
 母親の死体を綺麗に麻布の中へと戻してしまうと、アルヴィンは鳥葬の為に山を登る、と言った。近くに在るそう高くない山で、地元の人間なら半日程で登りきってしまえるらしい。シャン・ドゥの住人の多くがその山の山頂で鳥葬を行う。素人だし倍はかかるかな、とアルヴィンは言った。そこで、ジュードが舟の船頭が迎えに来てくれることを伝えると、彼は怪訝そうな眼差しを向けてきたが結局吐息を一つ零しただけだった。それから、彼の鳥ーーシルフモドキに船頭の霊視野を覚えさせてある、と言ってアルヴィンは紙片に筆を滑らせた。
 耳元を飛び交う蝿を追い払うジュードの方へ、鳥を飛ばした男が緩慢な足取りで近付いてきた。辺りは黄昏を孕み始めた空を背にするその表情は、少し判りにくい。
「おたく、マジでついてきちゃうわけ?」
「今更それを訊く?シルフモドキ、飛ばしちゃったのにさ」
「だけどジュード、お前……」
 アルヴィンの紡ぐ言葉を最後まで耳に入れる前に立ち上がる。或いは、アルヴィンが言い淀んだのかも知れない。何にせよ先に続く言葉は容易に予想出来たので、最後まで聞くつもりがなかったのは確かだ。立ち上がった拍子にまた頭の痛みが増した気がして眉根を寄せる。そんなジュードの様子に彼がどんな感情を読み取ったのかは解らない。ただ、ジュードの思惑通り一度は途切れた先の言葉を、アルヴィンが続けることはなかった。
「……誰も居ない川辺で一人で居るなんて僕は嫌だからね、アルヴィン?」
 それ以上に、アルヴィンを独りでなど行かせたくはなかった。ただ、本当のことを言うと彼は良い顔をしないだろうな、とジュードは思った。だから言わなかった。
「それで、山に登ってどうするの?」
 一度、深く息を吸ってからジュードは言った。アルヴィンは何かまだ言いたそうに頭を掻いたが、結局ジュードの足元に屈んだだけだった。
「山頂で死体をバラして、鳥を待つ」
 死臭のする麻布の包みを右肩に軽々と担ぎ上げながら、アルヴィンはジュードの問いに答えた。思わず、彼のコートの裾を引く。
「アルヴィンがやるの?」
「おたくにやらせるわけないでしょーよ」
「そうじゃないでしょ、アルヴィン」
 語気を強めてジュードが言うと、彼は少し怯んだように顎を引いた。だからジュードも思わず引いてしまった彼のコートの裾を離した。
「鳥葬師が捕まらなかったんだ。こればっかりはな……急な話、ってのもあるけど断界殻が消えて霊勢の偏りがなくなった所為か、鳥が読めなくなっちまったとかでことごとく全滅だったんだわ」
「もうそんなに、リーゼ・マクシアに影響が出てるなんて……」
「そ。だからこんな混乱した状態じゃ、アポもない俺の依頼は受けられないってことなんだろ」
 意図的に、であるのかは判らないが彼の声音は随分と明るいものだった。行くんだろ、とジュードの背中を叩いて歩き出す。その後を、少し遅れて小走りに追い掛けながらジュードは問いを重ねた。
「ねぇ、大丈夫なのアルヴィン」
 足がもつれて重い。ほんの少し走っただけなのに、呼気が乱れる。そんなジュードをアルヴィンは足を止めて待っていた。大丈夫じゃねぇのはお前だろ、と言って溜め息を吐かれた。けれど、待っていろとも帰れとも言われなかったので、呼吸を整えながら彼の隣りに並んだ。
「……まぁ、大丈夫なんじゃねぇの。前に人手が必要とかで手伝ったこともあるから、手順や要領も分かってるしな」
 ジュードの息が整ったのを待って、アルヴィンはまた歩き出した。だが、その足取りは先程より幾らも緩慢だ。走るとコケるぞ、と肩越しに言われたので大人しく歩いて彼の背を追う。
「それもアルヴィンが今までやってきたっていう『汚い仕事』のひとつ?」
 そういう意味で訊いたんじゃない、と喉元まで込み上げた言葉をジュードは飲み込む代わりに軽口を叩いた。軽快な笑い声と共に、アルヴィンは肩を揺らす。それから、死体の処理なんて「汚い仕事」の内にも入らないさ、と彼は言った。
 その後も何度か彼の殊更緩やかな足取りに、それでも遅れながらジュードは歩いてついていった。アルヴィンはその都度立ち止まってジュードとの足並みを揃えて水分の補給を促した。差し出された水筒を素直に受け取って喉を潤しながら辺りを見渡すと、薄紅色の空が徐々に彩度を落とし始めていた。木々は益々疎らになり、身体に吹き付ける横殴りの風ばかり随分と強くなったように感じられる。前を歩く男が、そんな風からジュードを庇うように歩いていることにも気がついた。そういえば、旅を始めて間もない頃はよくこんな彼の背中を見ていた気がする。旅慣れないジュードやミラをその背で庇って、彼はいつも数歩先を歩いていた。やがて隣りに並び前線を駆るようになると、寧ろ先陣をきるように戦場を走るジュードの支援が多くなったアルヴィンの背を目にすることは殆どなくなった。
 途中、アルヴィンは何度か肩を揺らして麻布の包みの位置を直した。そう辛そうな様子ではなかったが、長時間一点に重みが架かるのは彼でも負担になるのだろうな、とジュードは思った。
 深い呼吸を心掛けながら歩を進めていると、また一つ男が身じろぎをした。その拍子に麻布の包みが僅かながら解けて、隙間から腕が落ちた。アルヴィンが舌打ちをしながら足を止める。拾おうと振り返る彼を制して、ジュードはその足元に屈んだ。奇妙に柔らかく張りを失った肉が、指の間に入り込んでくる。あまり強く握ると崩れてしまいそうな危うさがあった。慎重に拾い上げると、腐肉と骨の覗く断面からはらはらと小指の爪程の大きさの蛆が零れて落ちた。
「悪いな」
 アルヴィンが手を伸ばしてきた。ジュードは首を横に振る。
「いいよ。また落としちゃうかも知れないし、僕が持つよ」
「……あんま気分のいいもんじゃねぇだろ」
「何言ってるの。僕、医学生なんだよ?」
 ポケットからハンカチを出して、丁寧に彼の母親の腕を包む。少しはみ出たが、これくらいならば問題はないだろうとジュードが満足して頷くと諦めたのか彼は風にかき消されてしまいそうな程小さな声で「好きにすればいいさ」と言って背を向けた。その背中に「好きにするよ。ずっと好きにさせてくれてるくせに」とジュードは声を投げた。
 「……もう少し行くと山小屋があるから、そこで包み直す」心底忌々しそうに彼は告げた。「そうしたら、今日はもう歩かない」
 確かに、辺りはもう随分と暗くなり始めていた。シャン・ドゥの一帯は霊勢の偏りの為に一年を通して夕暮れに包まれていたが、断界殻が解かれたことによってごく僅かな時間だが朝や夜が訪れるようになったらしい。やがてその時間も長くなりリーゼ・マクシア全体の霊勢も安定するだろう、と言っていたのは確かローエンだった。それだけに今までの霊勢の移り変わりは当てにならない。だから、アルヴィンの提案は尤もだ。けれどジュードは何となくそれが気に入らないな、と思った。或いは、後ろめたさのようなものがそこにあったからなのかも知れない。
「……まだ歩けるよ」
 気がついたら口に出していた。当然のことながら、アルヴィンは怪訝そうな視線をジュードに向けた。
「俺が疲れたんだよ」
「嘘。嘘吐き。アルヴィンっていつも嘘ばっか。嘘だよ」
 首を横に振る。頭が痛かった。蝿が煩い。風の音かも知れないがどちらでも構わなかった。耳鳴りがして、吐き気がした。
「……お前、取り敢えず落ち着け。水飲めよ」
「嫌だ。さっき飲んだ」
 彼の母親の腕を抱え込んで、ジュードはその場にうずくまった。俯いてしまったのでアルヴィンの表情は見えなかったが、困っているのは気配で判った。違う。困らせたいわけじゃないんだ。助けになりたいんだ。頼って欲しいんだ。そんな感情がぐるぐると渦巻くけれど、息が苦しくて言葉にならなかった。置いて行かれるかも知れない、と急に奇妙な不安に襲われて泣きたくなった。彼が盛大な溜め息を吐いた所為かも知れない。
「ジュード」
 名前を呼ばれた。顔を上げるよりも、返事をするよりも早く、アルヴィンに腕を掴まれた。そのまま力任せに引かれて、自然と腰が浮いた。彼の母親の腕を落としてはいけない、とジュードが慌てている間に水筒を押し付けられる。少し迷ってから、ジュードは水筒を受け取った。その時、彼のあからさまな安堵の表情を見てしまって何も言えなくなった。空いた手で彼はコートのポケットを探り、飴玉を二つ取り出すとジュードの手に握らせた。
「飲み終わったら行くぞ。歩きながら舐めてな」
 離れ際に、頭を柔らかく一撫でされる。ジュードが水筒の中身を飲み干したのを見届けるとアルヴィンはまたゆっくりとした足取りで歩き出した。言われた通り飴玉を一つ口に放り込んでジュードも後を追った。風が随分と冷たくなってきたように感じられて、彼の巻いてくれたスカーフを巻き直した。まだアルヴィンの匂いがする。腕の中には相変わらず彼の母親の一部があって、それが何故だかとても不思議だった。

 言葉通り、十分程歩いた所に無人の山小屋が建っていた。宿泊を目的にしたような施設ではなく本当に中継地の単なる休憩所といった風体の質素な石造りの小屋だったが、中には毛布やストーブが備え付けられていて外で野宿することを思えば上等だった。かなり暗くなっていたので周囲の様子はよく解らなかったが、吹き付ける風の相変わらずの強さから遮るものが辺りにないことが知れた。アルヴィンはジュードから母親の腕を受け取ると、先に小屋に入って火をおこすように言った。外で包み直すつもりらしい。気を遣われているな、と感じてまた先程の言い知れない不愉快さがこみ上げてきたが、もう彼を嘘吐きと罵る気も起きなかったので大人しく山小屋の中に戻った。
 小さい窓が一つあるだけの小屋の中は外よりも一段と暗く、ジュードは手探りでストーブまでたどり着くと火をおこしに掛かった。幸い空気が乾燥していたこともあって、火はすぐに点いた。部屋の中が暖まり始めたところで、改めて備え付けられている備品を調べる。毛布だけでなく寝袋や缶詰め、茶葉に加えてポータブルストーブなども揃っていた。アルヴィンとは違い山に登ることになるとは思ってもいなかったジュードは、勿論何の準備もしていない。これ以上彼の負担になるわけにはいかなかった。そこまで考えてふと、缶詰めを物色していた手をジュードは止めた。
 負担になっているのは、間違いない。アルヴィンは、ずっとジュードに気を遣っていたように思う。風から身を呈してジュードを庇い、努めて緩やかに歩を進めた。一人だったら、アルヴィンはもう山頂に辿り着いていたかも知れない。だが、決定的な一言を彼は口にしない。或いは、医学生であるジュードが何も言わない為に、ハ・ミルでの出来事を境に彼が患い続けている病がそうさせているのかも知れない。だとしたらそれはそれで業腹なことだ、とジュードは思ったが何にせよここに来て彼の考えが全く読めなくなってしまった。ただ、これまでのアルヴィンの様子から素人判断ながらもジュードの状態を把握しているということは解る。そして、その諸症状への対処も的確に彼は行っていた。それらの結果から察するに、次に彼はきっと山小屋での待機か下山を言い渡すのだろうな、とジュードは思った。歯噛みをする。事実を突きつけられても、断る言葉が思い付かなかったからだ。最悪、アルヴィンも一緒に山を下りると言い出しかねない。それだけは何とか避けなければ、と思うと矢張り自ら彼に申告するのが妥当なところだ。
 豆を煮たスープの缶詰めを二つ手に取ると、ジュードはストーブの近くへと戻った。缶切りで蓋を開けて火に掛けているそこに、アルヴィンが戻ってきた。外気が吹き込んでその温度差に肩を震わせると、彼は慌てて扉を閉めた。
「悪い」
「ううん、平気。外、大分寒い?」
「だな。やっぱ今日はこれ以上はキツいって」
 両手を擦り合わせながらストーブの前へとやってきたアルヴィンの為に脇に避ける。彼は火に向かい暫く手のひらをかざした後、手袋を外した。そこでふと気になってジュードは背後を窺った。次いで、周囲を見渡す。隣から「どうしたよ、優等生?」という声が湧き上がったので、そこでやっとジュードはアルヴィンの方を見た。目が合う。
「あれ?……お母さんは?」
「外に置いてきた。あっちのが寒いし」
 言ってから、彼はゆっくりと炎に向き直った。それから火にかけられた缶詰めを見て、これだけじゃ足りねぇかもなぁ、と言った。結局彼は自分の分とジュードが半分程残した缶詰めを平らげて、その後も物足りないと言って携帯食をかじっていた。その際の食欲のないジュードへの言及は特になかった。だからジュードもそれに甘えて、とうとう自分の症状を言い出せなかった。ただ、彼は相変わらず水分の摂取を要求し続け、食後にバター茶を淹れてジュードに渡した。一杯目は良かったが、カップが空になる度に注いできて最終的に体調不良の所為で気持ちが悪いのかバター茶の所為で気持ちが悪いのか判らなくなってしまった。正確な時間は鐘の音が聞こえない場所だったので解らなかったが、ジュードが頻繁に目を擦り始めるとアルヴィンに眠るよう促された。
「アルヴィンはまだ寝ないの?」
「いや、俺ももう寝みぃわ流石に。でもその前に荷造りだけ済ませちまうから、おたくは先に横になれば?」
 アルヴィンに毛布を手渡される。少しカビ臭い。
 酷く身体が怠いのは確かだったので、言われた通り横になると胃の中がかき回されて喉元までさっき食べたスープがせり上がってくる気がした。息を詰めてやり過ごすと、手足を縮こまらせて毛布にくるまる。すると何だか急に不安になった。思わず、口を開く。
「置いて行かないでね、アルヴィン」
 言ってから、後悔した。後悔してから、今更だと思った。彼に言おうと一度は決めた筈なのに、馬鹿な話だと自身にほとほと呆れた。けれど、ゆっくりと振り向いたアルヴィンの顔を見たらそうした諸々はすぐに消え失せた。浮かんだ表情こそ乏しかったが、彼は酷く驚いているように見えたからだ。だからジュードは、矢張り彼は足手まといの自分を残して黙って行ってしまうつもりだったのだろうな、と思って少し悲しくなった。置いていかないで、とジュードは繰り返した。独りにならないで、と祈るような心地で呟いた。それらの言葉に彼が返した答えをジュードは知らない。答えを待つより先に、意識が深く沈んでしまったからだ。
 眠りは浅く、ジュードは目を覚ました。その都度アルヴィンの姿を探そうとして視線を巡らせようとするのだが、姿を捉えるより先に手のひらで視界を覆われてしまう。夜明け前なんだからまだ寝てろ、と囁いてカップに注がれた水をジュードに飲ませた。何度目かの覚醒で空が明るんできたことが知れ、状態を起こそうとしたらむせた。咳き込んでいると、横になってるのが辛かったらもたれてろ、とアルヴィンは言ってジュードを背中から毛布ごと抱え込んだ。
「ちゃんと、寝てる?」
 重たくなる目蓋を押し止めながら、ジュードは訊ねた。寝てるさ、と耳元で声がする。背後からジュードを抱きすくめる彼が、額を肩に押し当ててきた。
「ちゃんと寝てるから、お前も寝ろ」 嘘吐き、と呟いてジュードは笑う。それからアルヴィンに体重を預けて目蓋を閉じた。彼の体温を追う。その後は意識が浮上することも夢を視ることもなかった。

 寒さで覚醒した。だが、目蓋は重くなかなか開かない。それでも、頬に感じる外気が冷たくて身震いする。そこで、ジュードは一息に目を開けた。
 アルヴィンが居ない。
 壁にもたれたまま小屋の中を見渡す。昨晩使用した機材は既にしまわれていた。寝る前に荷物をまとめる、と言っていたのでそのとき一緒に片付けたのかも知れない。
 一瞬、矢張り置き去りにされたのだろうか、と脳裏に浮かんだ。だが、すぐに否定する。根拠のようなものはなかったが、今一度ジュードは彼を疑うようなことをしたくなかった。彼を信じたかった。それに、まだアルヴィンのスカーフはジュードの襟元に巻かれたままだった。
 立ち上がるが、足元は安定しない。昨日より更に状態が悪くなっている。動いたことで頭が痛みを訴えた。咳き込むと、錆の味が口の中に広がった。だが、ジュードは何度か深い呼吸を繰り返すと毛布を肩に引っ掛けて小屋の外に出た。
 朝陽が目に突き刺さる。切り立った崖の向こうに菫色に染まった空の色と、昇る朝陽の光を淡く映し込んだ雲海が広がっていた。昨夜訪れた時には辺りも暗くなっていたので判らなかったが、かなりの高さまで登ったようだった。
 傍らを見ると丁寧にまとめられた麻布の包みが目に留まる。だから、まだ彼が近くに居るのだという確信が得られて安心した。
 風が強く、毛布が浚われないようにと抑えながらジュードは山小屋の周りを歩いた。何か意味があるのか、ところどころに奇妙な紋様の描かれた石を積み上げた塚が立ち並んでいる。丁度小屋の陰になるところに井戸があって、まだ新しい水を汲んだ後が残っていた。改めて辺りを見渡すと、空に向けて片腕を高く突き出したアルヴィンを見つけた。鳥の羽ばたく音がする。シルフモドキだ。黄金色に輝き菫色の滲む雲海へと消えるその姿を見届けると彼が振り返った。すぐに目が合う。アルヴィンは少し驚いた様子で目を見開いたが、それもほんの一瞬のことで低く唸るような声でジュードの名前を呼んだ。
「お前……起きたのか」
「寒くて目が覚めたんだよ」
 彼は黙って手指をジュードの額に寄せた。長く外に居たのか、手袋を外したその指先はかさついて冷え切っていた。指は額からこめかみへと滑り、そのまま頬に手のひらを添えた彼は、熱いな、とだけ言った。或いは、続く言葉があったのかも知れない。ただ、先にジュードが口を開いた。
「シルフモドキってこんな高度まで来られるんだね」
 彼はすぐに答えなかった。逡巡は、ジュードの投げた問い掛けに対するものではないと知れた。けれど、結局アルヴィンは小さく顎を引いて「そうだな」と言った。
「風の精霊術で気圧を制御してるみたいだから、こんくらいはな」
「そうなんだ。……えっと、それで?今の、船頭のお爺さんから?」
「ああ。また鳥を飛ばして連絡寄越せってさ」
 言いながらアルヴィンはジュードの頭をかき混ぜて、それから背中をそっと押した。
「戻ろうぜ。ずっと外に居たから寒ぃ」
「出発は?」
「……飯食ってから」
 促されるままに山小屋に戻ると、彼はバター茶を淹れながら何を食べるかジュードに訊いた。食欲がなかったジュードは何と答えるべきか、と言葉に詰まったがアルヴィンが「食べたくなけりゃ食わなくていい」と言ったので頷いた。ジュードがアルヴィンの淹れたバター茶を飲んでいると、彼も面倒だったのか携帯していた皮袋から粉を掬い取るとバター茶と混ぜて練り合わせそれを食べるだけに済ませた。見慣れない食べ物をジュードが不思議そうに見ているとア・ジュール原産の麦を轢いたツァンパという粉で、シャン・ドゥでは一般的な携帯食なのだと教えてくれた。
 出発前、少し腹が下った。眩暈は酷く、風の音よりも耳鳴りの方が大きい。だが、それらの不調をアルヴィンに伝えることはせずに、山小屋を発った。
 山頂へと続く道の足場は悪かった。ニア・ケリア山道とは異なり、閑散と広がる赤茶けて乾いた大地に小石ばかりが転がっている。土は堅く、靴底を通して足の裏に冷気を感じた。俯いて登るジュードの足元には、緑も陰もない。砂を孕む風に、何度か倒れそうになった。吐き気と眩暈は治まらない。目が霞んで、酷く寒かった。耳鳴りに全ての音を奪われて、そのくせ自分の息遣いばかりがいやに大きく鼓膜に届く。吐息が熱い。自分が確かに歩けているのか、彼について行くことが出来ているのか、不安になってジュードは顔を上げた。岩肌と、見たこともないような青い空とのコントラストが美しい。だが、アルヴィンの姿を見留めることは出来ない。そう思い至った瞬間、足を石に掬われる。倒れる、と身構えるより先に二の腕を強く掴まれた。アルヴィンだった。ジュードの背中側に腕を回して脇の下から押し抱えるように通すと、そのまま歩き出す。
「一人で歩けるよ」
 身じろぐが、体格に見合ったアルヴィンの力は強く、解けない。仕方なく、ジュードは「水が飲みたい」と言った。彼の手が緩むと、その隙に突き飛ばす勢いでアルヴィンの胸元を強く押した。腕は解けたが、振り払った筈の男は麻布の包みを抱えた状態であるにも関わらず僅かにバランスを崩しただけで踏みとどまった。だが、彼を気にかける余裕はジュードにはなかった。アルヴィンから少しでも離れようともつれる足で、二度、三度と踏み出すが結局膝をついてしまう。それでも立ち上がろうとしたそこへ、ジュードの名前を鋭く呼ぶ声がした。何かが落ちる音と、足音を聞きながら、咳き込むジュードは込み上げる胃液に耐えきれず吐いた。視界が涙で滲む。鼻の奥が痛んだ。うずくまるジュードの背中を、駆け寄ったアルヴィンがさすった。
「触らないで!」
 胃液で灼ける喉で、それでもジュードは声を振り絞り叫んだ。一瞬、怯むように背に触れていた体温が離れる。けれどその手はまたすぐにジュードの背中を案ずるようにさすり始めた。その間にも何度かむせて、咳き込んでいるのか吐いているのか判らない。さする彼の手を払いのけようとして暴れると、手首と腕を掴まれた。
「落ち着けって!」
 本当に、その通りだと思った。昨日からーーアルヴィンと再会してから、ずっと何かが可笑しいと思ってはいた。けれど、その理由は分からない。彼の真意も分からない。だから怖かった。ままならない身体と、不透明な彼の意図に、不安ばかりが増していった。
 恐らくはジュードの為に取り出し掛けたのだろう水筒が滲む不鮮明な視界に入り、手を伸ばす。自分の置かれている状態などとっくに知れていた。どうすればいいのかも解っている。アルヴィンの手を煩わせるまでもない。だのに彼は口煩く水を飲むことばかりを要求してくる。そこまで解っているなら、もっと別な最良の対処方法に思い至らない筈がないのにそれを彼は決して言わない。何を考えているのか解らない。どうして欲しいのか解らない。いつも彼はそうだった。大事なことは何一つ打ち明けてくれない。一人で抱え込んで、一人で結論に急いで、一人で追い詰められて、そこから動けなくなる。
 奪い取った水筒は、けれど口元に運ぶことすらかなわなかった。蓋の開いた口から零れた水が、袖口を濡らすが気に留めている余裕はない。血と胃液とが混ざり合った咳を繰り返す。苦しくて、アルヴィンがジュードから水筒を奪い戻したことにも気がつかなかった。手袋に覆われた彼の手が、頬に添えられる。もう一方の手は後頭部に回されて、顔が上向きになると少しだけ呼吸が楽になった。蒼穹を背にしたアルヴィンの顔で視界が埋め尽くされる。そうして息を吸おうとしたそこへ、彼の唇が触れた。一瞬、息苦しさも頭痛も消えたように思う。けれどすぐに口内へと注ぎ込まれた水を飲み下すことに必死になった。一息吐く頃、もう一度同じように唇を塞がれる。胃液で灼ける喉を流れていく水の感触が心地良かった。三度目の唇が降る前に顔を背け、息も絶え絶えにジュードは「もういい。要らない」と言った。頬に添えた手をそのまま背中に回してジュードを抱き込むと、アルヴィンは耳の裏に鼻先を埋めた。
 「ごめんな、ジュード」耳に掛かるアルヴィンの吐息がくすぐったくて、ジュードは思わず肩をすくめる。「ごめん」
 謝罪の言葉を繰り返す男の背に同じように腕を回そうとしたが、ままならない。腕は鉛のように重く、まるで自分のものではないようだった。だから仕方がなく、ジュードはアルヴィンに体重を預けて彼の肩口に頬を寄せた。
「……本当だよ。ファーストキスだったのに。酷いよアルヴィン」
 回された腕に、更に強く力が込められた。縋るような強さだった。彼は「犬にでも噛まれたと思ってくれ」と言った後、もう一度ジュードに謝った。だが、どうしてそんな風に謝罪の言葉を繰り返すのか、ジュードにはその理由が分からない。
 滲む視界は、それでも美しく空の青さを映し込んでいた。瑠璃色の空に、麻布がはためいている。彼の肩越しに見たその光景と、背中に回された腕の温もりとに何だか無性に泣きたくなった。

 不快な羽音に眉をひそめる。耳元で、鼻先で、掠めるように虫が飛び交う。卵を産みつける新たな腐肉を求めている。唇に止まり、鼻の穴の辺りに少しの間留まると、虫は頬の側へと這っていった。重たい腕を持ち上げて顔を擦ると、不快な羽音をたてて虫は飛び去った。
 鼻腔には、甘い匂いが刺さる。まるで何かを包み隠すかのように漂う、濃い香りだ。
 重たい目蓋をゆっくりと押し上げる。霞む視界に、濃い瑠璃色が移り込んだ。忙しなく飛び交う蝿は煩わしかったが、空は美しかった。仰向けに寝転んで、背中に硬く冷たい石を感じながらジュードは蒼穹を見上げていた。
 鼓膜を、風と虫の羽音でない音が揺らす。耳鳴りではない。聞こえた音は布を引き裂く音に似ている気がした。
 初めに視線だけ、次に頭をゆっくりと傾ける。案の定痛むこめかみを抑えて、ジュードは眉をひそめた。傾けた先の視界に乾いた大地が映る。だが、それでもそこかしこには小さく可憐な花々が風に踊っていた。甘い匂いの正体だ。途端、強い風と漂う甘い匂いの中に在って尚、鼻腔を突き刺す異臭が奇妙に意識された。思わず、喘ぐように口で大きく息をする。胸が詰まって反射的に胸元を握り締めたら、手触りの良い彼のスカーフに触れた。小さく咽せると、視界に捉えた異臭の中心に在る男が作業の手を止めて顔を上げた。暗い色をした外套のようなものを羽織った背中越しに目が合う。彼のコートはジュードの身体に掛けられていた。
「大丈夫か?」
 声は風の音にかき消されて届かなかったが、確かにそう動いた彼の唇にジュードは頷いて肯定の意を示した。アルヴィンは薄く微笑むと、また作業に戻った。
 呼吸もままならない程に状態の悪化したジュードに、アルヴィンが水を飲ませてくれたことは覚えている。彼の肩越しに打ち捨てられた麻布の包みを確かに見た。だが、その後の記憶が酷く曖昧だった。まるで夢のような心地の中で、彼に半ば抱えられるようにして歩を進めたような気もする。何となく懐かしい気がするのは、アルヴィンと初めて会った時にも彼の小脇に抱えられたからかも知れない。
 蒼穹を背に、外套を羽織った男が錆びた刃を振り下ろす。うつ伏せにした肉から頭が花の中に落ちた。血は出なかった。衝撃で、閉じられていた目蓋がめくれてアルヴィンによく似た赤褐色の、けれど薄ら白く濁った目が覗いた。だが、男は気にした素振りを見せずに鉈に似た刃を土に突き立てると、今度はナイフを取り出して切断面から背中に向けて切れ込みを入れていった。淡々と、男は手を動かす。そこには何の感情も見て取れない。よく似た光景を故郷でも見たことがあるな、とジュードは思った。
 昔、まだジュードがル・ロンドに居た頃珍しい家畜がレイアの実家が経営する宿に持ち込まれた。それはア・ジュールでは一般的によく食べられるというブウサギで、レイアの父親がその肉を切り分けて見せてくれた。その時彼女の父親が身に付けていたのは外套ではなく前掛けだった気もするが、肉に刃を振り下ろす様が丁度今のアルヴィンに重なる。確か、うつ伏せにするのは内臓が飛び出すのを避ける為だと彼女の父親は言っていた。
 背中の次は足だった。一息に切れ込みを入れて、足の裏を削ぎ取る。血は、矢張り出ない。それでも辺りには花の匂いに混じって、獣じみた脂の臭いが漂っていた。少し距離を置いて眺めているジュードですら、額から脳にかけて突き刺さるような刺激臭を感じる。だが、ナイフを逆手に持った男は淡々と足の指の間にも切り込みを入れて、今度は腕を手に取った。
 以前にも経験があると本人が言っていた通り、彼は実に手際良く肉を解体していく。そこには一切の情どころか、人間性すら感じさせない。
「何か、手伝おうか?」
 死斑の浮いた腕を切り裂き、手指の間に切り込みを入れるアルヴィンにジュードは身体を横たえたまま思わず声を掛けた。片膝を突いて俯いていたアルヴィンが顔を上げる。目尻が少し赤くなっていて、ジュードは声を掛けたことを後悔した。けれど彼はそんなジュードを寧ろ気遣うように「いいから寝てろ」と今度は風の音にかき消されないよう声を張り上げたかと思うと、噎せながらしゃがみ込んだ。すぐに背を向けてしまったので見えなかったが、あれは吐いたな、とジュードは思った。
 青空の下、風にそよぐ花々の中に横たわる腐肉というのは何だか酷く現実味を欠いていて、本来付随すべき嫌悪感や道徳観はまるで遠くに感じる。蝿は相変わらず煩わしかったが、髪を撫でる風は心地良かった。
「……鳥、どう?来そう?」
 緩く、目を閉じてジュードは呟くように問うた。彼に声が届かなくても構わなかった。だが、すぐに明瞭な声音で「わっかんねぇ。全然読めねぇ」と忌々しげな声が返されて、ジュードは笑った。目を開けると、視界に広がるのは雲一つない青い空ばかりで唸るような彼の声にも納得した。
「大丈夫。ミラが連れてきてくれるよ」
 囁くように、ジュードは言う。肉を引き裂く音が一瞬だけ絶えて、それから喉を鳴らす彼の笑い声と共に再開した。
「……どんだけミラ様頼みなのよ」
 楽しそうに、彼は肉の肋を砕きながら言った。溜まっていたガスで、悪臭が深みを増した。鷲掴みにされ引きずり出された内臓は、腐敗が進んでいる所為かところどころが緑や黄色に変色しているのが遠目からでもよく判った。
「いいんじゃない?……それくらいの責任、取っても」
 アルヴィンへの答えとしてではなく、もうここには居ない彼女にジュードは言った。ジュードの気がつかなかった彼の弱さに手を差し伸べた彼女に言った。
「アルヴィンは、ミラが好きだった?」
 空を見上げたまま今度こそ、彼に問う。それから、少し意地の悪い言い方をしてしまったことに気が付いてそれが可笑しくて笑った。現にアルヴィンは閉口したまま、身じろぎ一つしない。空から地上へと視線を落とせば蝿の集る腐肉の溜まり場で、内臓を掻き出す仕草のまま固まっている彼と目が合った。けれどジュードの視線に気が付くと、彼はくしゃりと顔を歪めて笑った。
 「わかんねぇ」言いながら、アルヴィンはまた手を動かし始めた。「分からない。だけど、多分……」
 繰り返された言葉は先と同じ質の答えでしかなかったが、その後に少しだけ続きがあった。その続きもまた途中で絶えてしまったが、ジュードは概ね満足した。そこに彼の嘘がなかったからだ。だから先の言葉を促すこともせず、ただ笑った。けれど彼は不満そうに「ミラを好きなのはおたくの方でしょーよ」とぼやいている。
「……そうだね。僕も、愛してる」
 確かに、彼の言う通り自分は彼女のことが好きなのだろうな、とジュードは思う。だから、そのまま言葉に出した。
 こうして離れた今ですら、彼女を感じ、愛している。その想いを口にしたことも、口にしようと思ったこともなかったが、変わらず彼女を愛している。豊かな小麦色と若草色とが織り成す不思議な色彩の髪や、強い意志を宿した鮮やかなピジョン・ブラッドの眼差しや、淀みない真摯な姿勢、その全てが愛しい。けれど同時に、それらジュードの愛する彼女の像は彼の抱くものとは違うものであるように思えた。或いは、変質してしまった、と言い換えても良い。
「とても、愛してる」
 もう一度強く、ジュードは言った。そうか、と彼は穏やかに返して笑った。
 重たくなる目蓋と息苦しさに耐えながら鳥の影を探してジュードが空を仰いでいると、鼓膜を揺らしていた骨の音が絶えた。砂利を踏み締める足音が近付いてくる。ジュードが視線を巡らせるより先に、蒼穹との間を遮るようにしてアルヴィンが顔を覗き込んできた。
「寝てないよな?」
「……起きてる。大丈夫」
 汚れた外套と手袋を取り払って、アルヴィンはジュードの額に手のひらをあてがった。ずっと身体を動かしていた筈なのに、彼の手はとても冷たかった。
 ジュードの髪を撫でながら、アルヴィンは空を仰いだ。蒼穹が、少しずつ薔薇色に滲み始めている。遮る影はない。寝るなよ、と言って頬を一撫でしアルヴィンの手が遠ざかった。その感触を名残惜しい、と思う前に右腕を引かれる。もう一方の手を浮いた背中に滑らせて、アルヴィンはジュードの上体を引き起こした。頭が痛み、息が詰まった。ひゅう、と喉が鳴って咳き込む。前のめりに丸くなる背中をさすりながら、彼はまたあの冷たい手をジュードの頬に添えた。それから、彼は微かに開いたジュードの唇を割るように親指を差し入れる。歯に、潜り込んだ彼の唇が触れたかと思うと、口内が水で満たされた。ああまたこの男は、と頭の片隅で冷めた声がする。口にしないのは口の中の水を飲み下すのに必死な為だ。お陰で、喉を動かす度に逃げ遅れた彼の上唇が歯に触れる。反射的に甘噛みすると、アルヴィンが慌てたようにジュードの身体を引き剥がしに掛かった。恐らく、彼は何らかの抗議の声を上げようとしたのだろう、と思う。だが、濡れた唇から言葉が紡がれるより先に、ジュードは彼の襟元を強く引いた。今度こそ明確な意図を以ってその唇に噛み付く。彼は何度か逃げるように顎を引き、ジュードの上体を圧しやろうとした。だが、その度にジュードは逃げる唇を追った。やがて諦めたのか大人しくなったアルヴィンの唇を満足がいくまで舐めたり吸ったりした後、漸くジュードは身体を離した。上手く息継ぎが出来なかったので、気が付いたら肩で息をする有り様だった。そんなジュードを、アルヴィンは気遣わしげに眉をひそめて見つめている。
「おいおい、大丈夫かおたく……自分で飲むか?」
 気に入らない、と歯噛みして呼吸も整わない内にジュードはまた男に手を伸ばした。手渡そうとした水筒をすり抜けて手首を掴む。
 「そんな気休め、要らないよ」掴んだ手首を引き寄せてジュードは言った。「こんなどうしようもなく戻れないところに連れてきたのは、アルヴィンなんだから」
 口付けると、彼は困惑も露わに視線をさまよわせる。鼻先が触れ合う距離で吐息を交わすと、まいった、と言ってアルヴィンは目を伏せた。
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