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  • 04/29/05:00

11.30.09:31

鳥をまつひと4

 耳鳴りを縫うように、口付けを繰り返す。頬にも、閉じた目蓋の上にも、唇を落とした。辺りには凶暴な風が吹いている。頭が痛い。視界は不鮮明で、彼の表情すらろくに判らない。ただ、手のひらに感じる彼の温度や、唇に触れる肌は酷く冷たく乾いていた。
 恐らく、アルヴィンは何か言っていたのだと思う。説得めいた言葉を、彼にしては真摯にジュードに伝えてくれようとしていたように思う。ただ、気の触れた風が煩くて、その一切は耳に届かなかった。そうして抵抗をしなかったのはきっとジュードの身体を思いやってのことで、混濁する意識の中でいやに鋭くなった本能が彼の後ろめたさを嗅ぎ分け付け込んだ。
「おたく、これは絶対後悔するぜ?だって完璧にこりゃ、」
 先に続く言葉を遮る為に、唇を塞ぐ。情動というより、理性がそうさせた。
「ここに来て暗黙のルールを一方的に破るなんて、アルヴィンって意外と無粋なんだ」
 吐息の掛かる距離で息も絶え絶えに吐き捨てる。アルヴィンは苦虫を潰したような何とも言えない顔をしてジュードを思いきり抱き締めてきた。
 死臭の中で何事かを喚き立てる冷たい身体を抱きながら、ジュードは考える。彼と自分の在り方の、有り様の差違を思う。行動の理由を他者に求め、責任の矛先を逸らし続けたという点においては、業腹ではあるが彼と自分とが似通った性質の鬱屈を抱いているとジュードは自覚していた。腹立たしいついでに認めたくない話だが、彼が言うところの「お人好し」や「お節介」を以ってしか、ジュードが自分自身の輪郭を保てなかったのも事実だ。そうすることでしか、他者と関われなかった。だから他者に理由を求めないミラやガイアスの姿勢に惹かれ、そう在りたいと願うようになった。それならば、と思う。ならば、今ジュードが組み敷くこの冷え切った身体もまた、同じものに焦がれたに違いない。
「かわいそうだね、アルヴィン」
 首筋から耳の裏に掛けて鼻先を埋めながらジュードは言った。輪郭を保つだけの自己に由来する理由が、彼にはまだないと思ったからだ。その事実がとても可哀想だった。屍肉が膚から溶け出すように、彼も己を保てなくなるのではないだろうか、と思うと悲しくなった。けれどそんなジュードの憐れみを余所に、アルヴィンは薄い唇を深く濃い笑みの形に吊り上げて見せる。見くびるなよジュード君、と言って彼が口の端に噛みついた。
 肉を割り、性器で臓物を抉る感触というのは奇妙な感覚だった。張り詰めた性器を引き絞られる経験はジュードにとって全く未知の感覚で、蠢く熱が先程彼が引きずり出していた臓腑と同質のものであると思うと不思議な気持ちになる。だが、言ってみればそれだけの行為でしかなく、ジュードとアルヴィンに異性或いは同性間に芽生える倒錯的な情愛が果たしてあったのか、それは判らない。ならば衝動だったのかと問われれば、恐らくジュードは肯定する。性交と言うよりは自慰に近く、ある種の酩酊状態にあったジュードがたまたま手を伸ばしたそこに居たのが彼だった。
 制止する手をアルヴィンが途中で下ろした理由にまで、ジュードの気は回らない。後になって思えばいくら体術に秀でたジュードであっても、体格差も力の差もある彼を文字通り力ずくでどうにかするのは不可能だった筈だ。だが、その時は情動に任せて、目の前の肉をどうにかすることにただただ夢中だったジュードは、アルヴィンの中にあっただろう葛藤や諦念といった機微には気が付かずにいた。
 ただ、ふと、身体を揺り動かし己の快楽を辿る中で、理性のような、情動以外の何かが意識を掠めることがあった。何だろう、と風と自身の乱れた呼吸音を煩わしく思いながら顔を上げると、そこには組み敷いた男がある一点を見つめたまま浅く息をしていた。律動を止め、ジュードも視線を同じ方へ向ける。そして、目が合った。
 虚ろに濁った死者の落ち窪んだ眼球が、傾いた日差しの中で奇妙に浮き上がっている。蝿が頬に止まったかと思うと、眼孔に潜り込んで行くのが見えた。
「……アルヴィン、って……見られると、興奮するの?」
 純粋に疑問に思って問うと、彼は弾かれたようにジュードを見上げた。その表情は酷く驚いているようで、少し幼く見えた。
「お前、そういうの何処で覚えてくんの?」
 質問したのはジュードの方だというのに的外れな答えどころか、逆に問われる。それが気に入らなくて抗議の声を上げようとしたが、アルヴィンに抱き寄せられて唇を啄まれてしまった。触れるだけのささやかな口付けの後、身体を離すことなく抱き込められる。中途半端な状態で性器が圧迫された上に動きを再開することも出来ずとても辛かった。けれど、耳元で「ジュードはあったかいな」とアルヴィンが囁くものだから、文句の一つも言えなくなる。すると彼はジュードの沈黙をどう受け取ったのか、肩を揺らして笑った。
「いいからさっさとイっちまえよ。いい加減、背中痛ぇわ」
 身体を離すと彼はもういつもの調子に戻っていた。こんな時くらい泣けばいいのに、と思いながらジュードは律動を再開した。

 夢の中で、ジュードは鍋の蓋を開けた。窓からはシャン・ドゥの柔らかい陽射しが差し込んでいる。手元の片手鍋には桃のコンポートが綺麗な飴色をして収まっていた。すぐに、それがパイのフィリングであることに思い当たる。
 こんな夢の中で、自分がピーチパイを作ろうとしているのだと気付いて可笑しな気持ちになった。どうせ、彼はまた嘘を吐いて吐き戻す。それが分かっているから夢の中でしか彼に気を回すことが出来ない、そんな臆病風に吹かれる自分が惨めに思えたからだ。
 深層においてはこんなにも明確に答えが提示されている。自分は、彼を許したかった。彼に優しくしたかった。それだけだった。
 アルヴィンがジュードの知らないところで誰かを傷付け続けたことや、多くの裏切り、レイアに向けて引き金を絞った事実は、罪は確かに消えない。例え彼の罪を誰も知らない場所へ逃げたとしても、他でもない彼自身が犯した罪を決して忘れない。だからこそ彼は、とうとう旅の終わりまで罪悪感に苛まれ続けた。これからも、彼は罪と共に生きていくしかない。
 演技上での自己主張らしい自己主張の少ない彼の嗜好はジュードには殆ど知れなかった。そんな中、数少ない本当のアルヴィンーーアルフレド・ヴィント・スヴェントに由来する情報にピーチパイが好物である、というものがある。我ながら分かり易く単純だ、とジュードは自分の夢に呆れた。
 羽音がして、手元の鍋から灯り取りの窓へと視線を移す。そこには一羽のシルフモドキが止まっていた。瞬時に彼の母親の手紙だ、とジュードは思った。それならアルヴィンを呼ばなくてはならない。彼はきっと急いで返事を書くだろうと、そう踵を返しかけてジュードは動きを止めた。
 鳥は、相変わらず窓辺に止まっている。ジュードが見つめていると、小さく首を傾げた。鍋の火は点いたままだ。止めなくてはならない。せっかくのコンポートが焦げてしまう。けれど同時に頭の中の冷静な部分がどうせこれは夢なのだから、とジュードに囁いた。そこに、別な声が被る。その声をなぞるように、ジュードは呟いた。
「誰が何処で待っているの」
 肩越しに振り返る。改めて、黄昏に沈むこの夢は何処なのだろう、と考える。いつもの宿屋の一室とは少し違う気がした。だが、知っている。台所の向こうにはリビングがあって、そこではピーチパイが焼き上がるのを待っている人が居る。これは、そんな幸せな夢だった。

 彼の真意は、相変わらず不透明だ。「母親の為」という最優先事項を欠いた今、判断基準を測ることはますます難しくなった。居場所を無くしたアルヴィンに声を掛けたのは確かにジュードだが、それは彼を独りにしたくなかっただけだ。だからきっと居心地が悪いことこの上ないだろうジュードたちの傍にいつまでも留まりはせず、また持ち前の奔放さでふらりと姿を消すーーそんな予感はあった。だが、そんな予感に反してアルヴィンはジュードたちと行動を共にし続けた。
 結局、旅が終わっても彼の真意は遂に知れることはなく、ジュードは言うべき言葉や示すべき行動を見失ったままでいる。或いは、彼に対して抱いていた感情の在処も解らないままだ。信頼を裏切られ、憎悪を植え付けられ、失意と嫌悪を覚えた。だのに、とうとう諦念を以って彼という存在を黙殺することだけは出来なかった。その理由が分からない。自分自身に対しても、両親に対しても、友人に対しても、ずっとそうやって生きてきた筈なのにあの男だけは諦められなかった。

 一度目はエリーゼの為に作った。旅慣れない内気な彼女に、優しい味を食べさせたくて選んだのがピーチパイだった。フィリングは缶詰めの桃で簡単に済ませてしまったがエリーゼはとても喜んでくれた。だから今度作る時はフィリングから作ろう、とジュードは思った。エリーゼも一緒に作りたい、と言ってくれたので約束をした。アルヴィンは出掛けていて、その時は居なかったように記憶している。大方アルクノアか、取り引きをしたというア・ジュールの参謀と連絡を取り合っていたのだろう、と今にして思う。シャン・ドゥで彼の好物がピーチパイであることを知る前の出来事だ。
 二度目は、エレンピオスでアルヴィンの従兄が住むアパートの台所を借りて作った。約束通り、エリーゼと一緒に水と塩を加えた小麦粉にバターを挟んで伸ばして生地を作り、フィリングも桃を煮詰めるところから始めた。途中で少しバターが溶けてしまったがそれでも初めてにしてはよく出来た、とエリーゼと二人で手を合わせて喜んだ。ローエンの淹れてくれた紅茶と共に舌鼓を打ちながら、ミラはいつも通り一口食べて「美味しい」と顔を綻ばせ、後は口を開く間も惜しいといった様子で黙々と手を動かしていた。今度作る時は私も呼んでよ、と言うレイアをティポがからかう。その様子を楽しそうに笑って見ているエリーゼの隣で、ピーチパイをアルヴィンも突っついていた。ジュードの視線に気が付いて顔を上げた彼は、控え目に微笑みながら「美味いよ」と言った。だから、返す言葉をなくした。隣に居たエリーゼが、嬉しそうに「本当ですか?」とアルヴィンに訊く。彼女がこのタイミングで約束のピーチパイ作りを提案したのは、アルヴィンを思ってのことだと薄々気付いていたジュードは息が詰まる思いでいた。恐らく、アルヴィンもエリーゼの優しさに気付いていたのだと思う。彼女の頭を撫でながら、同じ言葉を繰り返したからだ。その後、一人トイレに籠もって嘔吐を繰り返す扉の向こうの彼を、ジュードは責めることが出来なかった。彼の嘘を、咎めることが出来なかった。

 鳥の羽音に覚醒を促された。肌寒さに身震いを一つして、うつ伏せの身体を起こす。肩からアルヴィンのコートがずり落ちた。
 目蓋が腫れている気がする。もしかすると、顔全体が浮腫んでいるのかも知れない。頭の痛みは相変わらずで、胃も酷く重たかった。
 朝靄に霞む一帯をジュードは見渡した。雲海は黄金色に輝いていて、空は美しい薔薇色をしている。
 また、羽音がした。白い息を吐きながら振り返る。舞い降りた鳥が、肉を啄んでいた。翼を広げれば二メートルにもなりそうな大きな黒い鳥で、首から頭に掛けての毛が異様に少ない奇妙な風体をしていた。その鳥が、無数に、腐肉を奪い合って群がっていた。黒い羽が舞い散る傍ら、母親の頭を無造作に掴み立ち尽くすアルヴィンをジュードは見留める。声を掛けようかーー逡巡するよりも先に、彼は頭を地面の上に置いて頭皮を剥ぎ取り始めた。長く伸ばし、適当な大きさに切り分けると鳥の群がる中心へと放り入れる。それから、残った頭蓋を石で砕き始めた。
 朝の冷たい空気を鈍く硬質な音が震わせる。不思議とその音に嫌悪感のようなものはなく、ジュードは頬杖を突いてツァンパと砕いた骨を丸める男をぼんやりと眺めていた。コートもスカーフも取り払った彼はいつもより薄着である筈なのに、身体を動かしている所為なのか特に寒そうには見えない。眠りに落ちる前に煽りあった熱の名残も感じさせず、アルヴィンは淡々と母親の最後の一欠けさえも丸めきり鳥に託した。
 欠伸を噛み殺し、目を擦る。アルヴィンが花と砂利を踏みつけながら近付いてきた。おはよう、と掛けた声は掠れていて彼はまた露骨に眉根を強く寄せた。だが、溜め息一つの間にその表情は何処か困ったような笑みにすり替わる。
「おはよう、ジュード君」
「うん。……鳥、来たんだ」
 訪ねると、彼は水筒の水で手を濯ぎながら気のない相槌を返した。
「何とかな。これで帰れるぜ」
 頭の後ろで腕を組むと、空を仰ぎながらアルヴィンは言った。疲労は勿論だが、実際ずっと死体を弄くり回していたアルヴィンは酷い臭いがする。だからジュードは、先ず身体を流すべきだよね、と言って笑った。
「お前なぁ……」
「だって臭いんだもん、アルヴィン」
「……そんなこと言って、俺に負ぶわれて帰んなきゃいけない、って解ってて言ってんのジュード君?」
「うん。八つ当たり」
 腰を下ろしながらアルヴィンは、この野郎、と言ってジュードの頭を小突いた。だが、振られた頭の痛みよりも近くなった腐臭と体温に、ジュードは鳥を眺める姿勢はそのままに身体を強ばらせる。肩が、彼の二の腕辺りに触れていた。寒くないか、と訊かれて頷く。アルヴィンの方を見ることは出来なかった。
「何つーか……圧巻だねぇ」
 固まった子供の真意を汲み損ねた男は、同じように鳥を見やると呟いた。
「……そうだね。凄いね」
 身体を強ばらせたまま、ジュードは言った。彼の、二十年を食い散らす鳥を眺めながら言った。
 指先に、触れるものに気付く。冷たく乾いた彼の手だ。認識するより先に控え目に指先を絡め取られた。だが、力を込めるのはジュードの方が早かったように思う。
 ゆっくりと熱の境界がなくなっていくのを感じながら、鳥を眺める男の横顔に目をやった。彼は地平線に滲む陽の光に、眩しそうに目を細めていた。すぐにまた視線を真正面に戻して鳥を眺めながら、掛ける言葉の代わりに繋いだ手を強く握り直した。喉を鳴らしてアルヴィンが笑う。その肩に頭を預けて、ジュードは隣に座る男にもたれた。
「何か、ピーチパイが食いたいなぁ」
 え、とジュードは顔を上げる。密着していた身体が離れて、その隙間に流れ込む空気が冷たい。だが、指先はまだ絡み合ったままだ。鳥達は肉を奪い合いながら、煩く鳴き立てていた。
「……じゃあ、今度食べに行こうか」
 赤銅色の視線が降りてくる。二度、ゆっくりと瞬いて彼は心底不思議だとでも言うように首を傾げた。
「お前作れよ。腰痛ぇし」
 忌々しげに吐き捨てて、彼は顔を背ける。抜けた主語を頭の中で補完しながら、今度はジュードが首を傾けた。答えは出ない。彼が腰の痛みを主張するように、ジュードの身体もあちこち不調を訴えていたので何だか自分だけが責められているような気がするのは不当だなぁ、と思ったくらいだ。だから、目覚める前の鳥と黄昏の夢から連想された記憶も相俟って、ただ彼の希望を叶えてやるのは癪だった。何か皮肉の一つも返してやろう、そんなことを考えながらジュードは熱を預けたまま鳥を眺める。まだ少し、人型を備えた肉が蠢く黒い鳥達の合間から覗き見えた。
 指先だ。肉がまだ少し残っている。爪が剥がれて、砂利に埋もれる。手の中の絡めた冷たく乾いていた筈の指先が、気が付くと少し汗ばんでいた。痛い程に強く握り締められている。同じ光景を彼も見ている。その事実が、何故だか酷く尊いことであるように感じられてたまらなくなった。
 目を伏せて、俯く。握り締めてくる手の力が緩んで、すり抜けた。すかさず絡め取って握り締めると、隣で身じろぐ気配があった。きっとこの男はまた面倒くさい勘違いをしているに違いない、と思った。けれど、顔を上げることはしない。彼の視線を感じる。だから、ジュードは俯いたまま緩く首を横に振った。
 ごめんな、と声が降る。また、ジュードは首を振った。もう聞いた。もう要らない。言いながら、首を振る。
 「俺が悪かったんだ」鳥の鳴く声と羽音の合間を縫って、男は言った。「全部、俺が悪い」
 もう黙ってしまえばいいのに、とジュードは思った。そうでなければ鳥達が、もっと大きな音を立てて彼の母親を咀嚼すれば良い。断罪を望む声など掻き消されてしまえば良い。
「……そうだよ。こんなとこまで連れてきて」
 顔を上げて呟く。それから、肩に手を掛けて彼の頬に唇を寄せた。
「ついて来いなんて言ってねぇからな、俺は」
 忌々しそうな男の声が降ってきて、ジュードは鼻の頭をかじられる。肩に置いた手を反射的に外して鼻先を抑えた。顔が熱い。
「ついて来るな、とは言われなかったよ。戻れとも、待ってろともアルヴィンは言わなかった」
 手指の間から零すように、ジュードは言った。もう一方の手は、引き留める強さで彼の手を握り込んだままでいる。
 「……ああ。言わなかった」ジュードの手を握り返しながら、アルヴィンが言った。「一緒に来てくれて、ありがとな」
 眉根を寄せて、歯を食いしばった。微笑む彼を直視出来ずに顔を逸らす。馬鹿な男だ、と呆れるばかりで返すべき言葉が見つからなかったからだ。けれど言われたままでいるのがどうにも癪で、結局アルヴィンの唇に噛み付いた。

 鳥が飛び去るのを見届けて、ジュードとアルヴィンは山頂を後にした。幾らかの骨の欠片が風にそよぐ花の合間に残っていたが、ものの見事に人一人分の痕跡は消え去っていた。
 彼の背に負ぶさり下山している間のことはよく覚えていない。頭痛は相変わらずだったが、吐き気は大分収まっていた。ただ、呼吸回数が減ることを避けて浅い眠りが続いた為に、酷く眠たかった。対して、アルヴィンの足取りは驚く程軽かったように思う。けれど常日頃から大剣を片手で振り回し、死体を担いで山を登るようなこの男にとってはジュード一人くらい大した重さに感じないのかも知れない。途中までは何かしらぽつりぽつり会話をしていた記憶がある。これからどうするの、とジュードが訊けば取り敢えず従兄を訪ねると返され、その後のことはまだ考えてないと彼は付け加えた。頬に、柔らかい鳶色の髪を感じながら、ジュードは目を閉じた。
 「いいんじゃない?焦らなくても」鋭利になった感覚で彼の匂いと体温を捉えながら囁く。「迷ってもいいよ……最後には逃げないでくれるって信じてるから」
 少しの間を置いて、彼は溜め息を吐いた。それから、身じろいでジュードを背負い直す。
「そういうお前はどうすんだよ。源霊匣の研究するにしたって、何から取っ掛かるつもりだ?」
 体勢が変わって、アルヴィンの顔がより近くなった。
「そうだね。源霊匣の研究もだけど、ピーチパイの研究もしなきゃ」
 そう呟いた頃の記憶は、殆ど朧気にしか残っていない。源霊匣と同列とは恐れ入るね、と笑みを含んだ声が返される。夢現に揺れる背中の体温が奇妙に懐かしく感じられた。
 そうして次に意識が浮上したときには、ジュードは寝台の上に横たわっていた。異国でありながらも懐かしい薬品の匂いが鼻腔に届く。視線を巡らせれば、ぶら下がる点滴がすぐに目に留まった。その向こう側には開け放された窓があり、祈念布が風に揺れていた。アルヴィンは部屋の中の何処にも居なかった。
「高地肺水腫です」
 開口一番、部屋に入って来た白衣の男は言った。彼はシャン・ドゥの治療院の医師で、ジュードは日付が変わって少しした頃に運び込まれたのだという。真夜中に起こされた所為か医師はぶっきらぼうな口調でジュードの症状を責めた。仕舞には隣りに控えていた看護士の女性が、同情するような微笑みをジュードに向けてきた程だ。
 低酸素症の自覚はあったがここまで状態が悪化していると思っていなかったジュードは、三日間の入院を経て治療院を後にした。見舞いに来てくれたユルゲンスとの会話を思い出しながら、石造りの街並みを歩く。
 突然現れた知人に動揺を隠せずにいるジュードに、ユルゲンスはあの人の良い笑顔で以ってアルヴィンからシルフモドキで連絡を受けたことを教えてくれた。下山の際、船頭に迎えの鳥を飛ばすと同時にアルヴィンは彼にも治療院の手配を頼んでいたらしい。その後シャン・ドゥに着く頃にはすっかり意識のなくなっていたジュードを二人掛かりで治療院へ運び、その際アルヴィンはそれはもう酷く医師からお叱りの言葉を浴びせられたのだという。
「だから、会いたくても会いにこれない彼の代わりにこうして私が出向いたんだよ」
 曇りなく綺麗に微笑みながら、ユルゲンスは言った。だが、アルヴィンが自分の見舞いに来ない理由はそんな可愛らしいものでないとを知っていたジュードは、曖昧に感謝と謝罪の言葉を告げることしか出来ない。アルヴィンとの間にある鬱屈としたもの、確執や溝を上手く説明するのが難しいからだ。ただ、これでまた逃げられてしまった、とジュードはそれを少し残念に思う。ユルゲンスから、遺品の整理はジュードが治療院に運び込まれた次の日には終わったことを知らされたからだ。
 少し時間を取られたが当初の予定通りニア・ケリアへと向かう為、船着場へと向かう。途中、今一度アルヴィンが母親の為に用意した部屋の窓を見上げた。風に揺れる祈念布の間から、窓の縁に鳥が止まっているように見えたが逆光でよく判らなかった。
 暗がりから川岸へと延びる階段を下り、船着場へと向かう途中その背中を見つけた。思わず、ジュードは足を止めた。積み上げられた木箱の一つに腰を下ろして、川を眺めている。厚手のコートを羽織り、ブランド物だというスカーフを締めた男の姿はとてもよく目に馴染んだ。
「アルヴィン」
 名前を呼ぶと、肩越しに彼が振り返り目を細める。服装だけでなく前髪もきちんと撫で上げられていて、すっかりジュードのよく知るアルヴィンだった。ただ、その挙動だけが腑に落ちない。
「……もう行っちゃったかと思ってた」
 歩みを再開しながら、ジュードは言った。腰掛けたままのアルヴィンを見下ろす。
「ありゃ。おたくの中で俺ってばそんなに薄情なわけ?」
「そうは言わないよ。寧ろ情は深いんじゃないかな。逃げ癖があるけどね」
 思わず零れた笑い声と共に言うと、アルヴィンは無言で肩を竦めた。その脇をすり抜けて、船着場へと向かう。その途中、僅かにだが歩調を緩めた。少しだけ迷う。だが、結局振り返ってしまった。アルヴィンはまだその場に座っていて、ジュードの方を見ていた。必然的に目が合って、思わず視線を足元に落とす。怪訝そうな彼の気配を感じて、ジュードはますます言葉を詰まらせた。
 顔を上げると、腰を浮かせて立ち上がりかけたアルヴィンと矢張り目が合う。まだ本調子じゃねぇんじゃねぇの、と彼は呆れた様子で苦笑混じりに言った。
「でも今度は、逃げないでいてくれたんだよね」
 ジュードの身を案じるように延ばしかけたアルヴィンの手が動きを止める。その行き場をなくした手を、すかさず捉えた。「何、それ」と彼は投げ遣りに笑って言った。
「うん。逃げそびれたついでに、今度は僕に付き合ってくれないかな、って話」
「……俺も一緒にニア・ケリアに行けってか?可愛い女の子二人もふっといて、悪い男だなジュード君」
 呆れた、とでも言うようにアルヴィンは喉を鳴らす。茶化さないでよ、とジュードは頬を膨らませた。
「いいんだよ、アルヴィンは。だって、ニア・ケリアに初めて行ったとき一緒だったでしょ」
 右も左も分からない異国での旅の空の下、確かに後悔はあったが強い不安はすぐに消えてなくなった。それはきっと、力強いミラの言葉と眼差しがあったからだ。そして、その隣にはジュードを危機から救ってくれた彼が居た。二人が一緒だったから、ジュードの旅は辛いだけではなかった。三人が一緒だったから、辿り着いたニア・ケリアの空がとても美しく見えた。
「分からない?……同じ思いを共有出来るのが、アルヴィンくらいしか居ないんだよ」
 だから一緒に行こう、とジュードは言った。アルヴィンは笑みをひそめて、視線を流れる川へと向ける。ジュードは、握り返されることのない手を見つめていた。山頂で絡め取った、彼の手の冷たさを思う。手袋越しの体温は遠い。
 不意に、繋いだ手を強く引かれた。虚を突かれたジュードは前のめりに一歩を踏み出して、そこですかさずアルヴィンに引き寄せられる。肩の上に重みと温もりを感じ、彼の吐息が落ち掛かるジュードの前髪に触れた。肩を組まれると、いつもそうだった。
「で、報酬は?」
 悪戯っぽく、彼は笑った。思わずジュードも吹き出して、額をアルヴィンの胸元に押し当てて笑う。
 「急に言われても、お金なんてそんなにないよ」身体を離しながら、ジュードは言った。「でも、そうだね。ピーチパイの材料くらいは買えるんじゃないかな」
 手は、まだ繋いだままでいた。促すように引くと「それで手を打つとしますか」とアルヴィンは言って肩を竦め、空を仰いだ。ジュードが手を引くままに歩き出す。上ばかり見てると危ないな、とジュードは思った。
「あ」
 注意しようとしたところに気の抜けた彼の声がして、思わず立ち止まる。振り返るとアルヴィンは相変わらず空を見上げていた。
「鳥だ」
 彼の視線を追い、ジュードも空を見上げる。矢張りさっきの鳥は見間違いではなかったのだな、と強く握り返された手に口元を綻ばせながら思った。
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