04.29.04:50
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01.05.01:33
恋の遺骸 Limerence lost
王城を出てもまだ、重たい色の空からは雪が降っていた。
手指を擦り合わせながら白く煙る息を吹きかけると、アルヴィンは手袋を嵌めた。鼻の頭が冷たい。寝不足からくる頭重感が少しだけ和らぐ。
意匠の施された門の前には訪れた時と変わらず、人々が長蛇の列を作っていた。浅く積もった雪を踏み締め、人の波を掻き分ける。顔馴染みになった門兵に会釈をして門を抜けてしまうと、空中滑車の乗り場までは難なく辿り着くことが出来た。滑車は出たばかりのようで、アルヴィンの他に人は居なかった。コートの内ポケットから手帳を取り出し、ペンを走らせる。
「商売をしよう」と旅の途中に出会った青年に誘われたのは、一節程前のことだ。だが、人を欺くことを生業としてきたアルヴィンは、人からの信頼が得られなければ立ち行かないだろう彼の誘いにすぐには頷けなかった。それでもシャン・ドゥに少しの間だが滞在していたアルヴィンに会う度に、青年は人好きのする綺麗な笑顔で返答を求めてきた。大丈夫、最初から上手く行くなんて私も思っていないさ。そう言われて、毒気を抜かれたというのもある。結局、アルヴィンは青年の掲げたグラスに自分の持つそれを合わせた。
リーゼ・マクシアとエレンピオス間での商いに先だって、双方の許可を取り付ける為にアルヴィンはカン・バルクのガイアスを訪ねた。エレンピオス側にも行かなくてはならないが、従兄にシルフモドキを飛ばしてからまだそう時は経っていない。一度拠点であるシャン・ドゥに戻って青年――ユルゲンスに報告してもいいかも知れない。だが、その前にあちこちを駆け回ってろくに働かなくなった頭と身体をそろそろどうにかするべきなのかも知れない。そんなことを考えて、手帳をしまうアルヴィンの背中に声が掛かった。
「アルヴィンさん」
振り返ると、アルヴィンがそうだったようにガイアスの謁見を望む人の波を掻き分けて、見覚えのある顔が近付いてきた。
「じいさん。出て来て大丈夫なのか」
「何を言っているんです、水臭い」
声を弾ませて、ローエンが言った。
「いや、あんたも居るってのはガイアスに聞いてたし、顔くらいは見せようと思ってたんだぜ。でも、客来てんだろ?」
薄く雪の積もった白髪から視線を外す。滑車はまだ来ない。寒さをまるで感じさせずに隣に並び立つ老人は「来てますよ」と言って肩を竦めた。
「エレンピオス政府要人の方々が」
「……あんた、アホだろ」
「そうは言いますが、この歳になると長時間座っているのはなかなかに辛い」
腰も痛くなってきたのでこうして中休みを挟ませて貰ったのですよ。隣で腰をさするローエンに、アルヴィンは視線だけを投げた。楽しそうに笑うその横顔に、他意はないように見える。食えないじじぃだ、とアルヴィンは頭を掻いた。
「そういえば聞きましたよ」柔らかく皺の刻まれた目元を細めて、ローエンは言った。「商売を始めるそうですね」
耳が早い。アルヴィンは苦笑した。
「ああ。ユルゲンスと」
「成る程。彼はとても良い青年です。貴方のような捻くれた方とも、きっと真摯に向き合ってくれるでしょうね」
全く変わらない笑顔でローエンは言った。それなりに思うところはあったが、どれも事実だったので拳を固めて耐える。シャン・ドゥに向かう道すがら、魔物にでも八つ当たりすることにしよう、とアルヴィンは静かに心に決めた。それに、既に似たようなニュアンスの言葉を投げられている。今更だ。
「ジュードからの返事もそんな感じだったわ」
おや、と言って老人は顎に手を当てた。
少し前に、ジュードの住むイル・ファンに手紙を送った。近況報告が殆どで返事を期待するような内容でもなかったが、そう時を置かず放ったシルフモドキが書簡を足に括り付けて帰還した。そこにはアルヴィンが書いた手紙に対するローエンと似たり寄ったりな意見に添えて、少年自身の近況とイル・ファンで彼の借りる部屋の場所とが綴られていた。源霊匣[オリジン]の医療ジンテクス転用の可能性に関するレポートを提出したところ、新しい研修先の教授の目に止まったらしい。近々、医学校で発表会があるとのことで今はその資料集めに忙しいのだ、と癖のない綺麗な文字で少年の近況は纏められていた。
「連絡を取り合っているのですね」
「あんたにも似たような内容で出したぜ……っつってもその様子じゃ読んでねぇみたいだな」
ご多忙なようで。言って、今度はアルヴィンが肩を竦めれば、老軍師は心持ち眉尻を下げて笑みの色を強めた。
風雪に煙る視界に遠く、ゆるゆると滑車の陰が揺れているのを見留める。ローエンもそろそろ城に戻らなくてはならないだろう。頃合いとしては丁度良い、とアルヴィンは隣に立つ男を伺った。彼も頷く。
「では、私も戻るとしましょう。この寒さ、矢張りじじぃには堪えるようです」
「そうしろよ、じいさん……まぁ、顔が見れて良かったよ」
「おや、貴方の口からそのような殊勝な言葉を聞けるとは。老体に鞭を打ってみるものですね」
髭を撫でながらローエンは言った。だが、途中不意にその柔和な笑みを潜めると、思案深げに視線を彷徨わせる。嫌な予感がした。
端から見れば油断なく鋭い思考を巡らせているかのような立ち姿だが、決して短くはない時間を旅の空の下で共有していたアルヴィンには解ってしまった。これはアルヴィンを含む若者たちへ仕掛ける、老猾な悪戯を企んでいる顔だ。ああ、もう、逃げたい。救いを求めるような心持ちで、アルヴィンは歩みの遅い滑車を恨めしく見やった。その肩に、ローエンが手を置く。
「……アルヴィンさん、少々頼まれごとをして下さいませんか?」
ほら来た。アルヴィンは諦めるように両手を上げ、深々と溜め息を吐いた。だが、そんなアルヴィンの反応も彼は既に予想していたようで、悪戯っぽく片目を瞑ると人差し指を立てて見せる。
「ご安心下さい。今回は貴方が共犯者です」寝不足の頭が笑みを孕んだ提案の意味を咀嚼し終える前に、老軍師は言葉を続けた。「ジュードさんに会いに、イル・ファンまで足を運んでは頂けないでしょうか」
本当に、この老人は性質の悪い悪戯を思い付く。アルヴィンは口の端を吊り上げた。
もつれそうになる足を何とか前に出すことで、辛うじて転倒を避けた。だが、ジュードの二の腕を掴む男の歩みは淀みなく、すぐにまた次の一歩を強制される。もう幾度となく抗議の声を上げていたが、前を行く男の足取りはただただ軽くジュードは半ば引き摺られるようにして歩を進めるしかなかった。
「ね、ねぇ!アルヴィン」
連行するかのような力強さでジュードの二の腕を掴む男の名を呼ぶ。彼は振り向くことすらせずに生返事だけを寄越した。歩みも二の腕を掴む力も一向に緩まず、イル・ファンらしからぬ赤いガス灯に照らされた輪郭から表情は伺い知れない。アルヴィン。もう一度、ジュードは名前を呼んだ。目が熱くなって、鼻の奥が痛かった。泣く。これは泣く。混乱した頭で、ただひたすらにそれだけを思った。そんなジュードの思いが通じたのか、漸く肩越しにだが彼の視線が寄越される。下がった目尻を常よりも更に下げ、薄い唇は弧を描き、歩みを少しも緩めることなくアルヴィンはジュードを見やった。
「どうしたよ、青少年?」
「腕!痛い!」
「そりゃあ、おたくがしゃきしゃき歩かねぇからだろうが」
最後まで言い切る前に笑いが堪えられなくなったらしい彼は、盛大に噴き出すと顔を背けた。腕を掴む力が少し緩んだので逃げ出すチャンスだったのに、目の前で馬鹿笑いする男が心底憎々しく思えてジュードは逆に引き寄せた彼の足を思い切り踏み抜いた。哄笑を悶絶に変えてうずくまる男の背中を、更にもう一つ蹴り飛ばす。二の腕は呆気なく解放されたが、それでもジュードの溜飲は下がらない。
「ほんっと!アルヴィンって信じられない!」
情けない鼻声で叫んだ。
二旬前、源霊匣の研究を発表した際、酷く批判されたジュードは確かにそれなりに落ち込んではいた。それでも、すぐに理解は得られないだろうと覚悟はしていたので、塞ぎ込む暇はないのだと自身に言い聞かせると気持ちを切り替え、より一層研究に打ち込むことにして立ち直った。何より近況を報せてくれる仲間からの手紙は励みになったし、たまたまイル・ファンに来ていたローエンに胸の内を話したりして、気持ちは随分と楽になっていた。だから、アルヴィンが訪ねて来てくれたことは本当に嬉しかった。手紙にあった彼の商売の話も聞きたかったし、ジュードも話したいことが沢山あった。そんな彼が外へ行こうと言い出したなら断る理由はない。アルヴィンの提案をジュードは二つ返事で受け入れると部屋を出た。彼に誘われたことが単純に嬉しかった。だが、前を歩くアルヴィンにジュードが行く先を訪ねると、思いも寄らない言葉を返された。
「最低だよ、もう……何で娼館なんて!アルヴィンの馬鹿!」
悲鳴のような声でジュードが言うと、いつの間にか復活した男が喉を鳴らす。最悪だ。
「そうむくれんなよジュード君。勤勉なのは確かに美徳だが、度が過ぎるとそれはそれで不健全なんだぜ?」
言いながら、彼の腕が肩へと回される。たまには息抜きも必要だろ。耳元で囁かれ、ジュードは身体を強ばらせた。目頭が熱くなって、血の気が引く。理由は解らない。そして理由も解らないのに何故か理性を総動員して、思い切り良く肘を引いた。今度は蛙の潰れたような声が耳元でして、ジュードは漸く肩の力を抜く。
「……おたく、今もろに狙っただろ」
濡れた石畳に腹をさするようにしてしゃがんだアルヴィンが見上げてくる。そんな彼に、ジュードは裏返る声で言い放った。
「じ、自業自得だからね!」
「へいへい、っと……だけどマジな話、少しは息抜きしろよ。ローエンだって心配してたんだぜ?」
地面についた裾を気にするように立ち上がりながら、アルヴィンは言った。返す言葉に詰まる。心配を掛けていたという事実を自覚して、申し訳ないような、嬉しいような、そんな擽ったさを感じた。ローエンの気持ちには勿論、ローエンを口実にしてでもわざわざこうして会いに来てくれたアルヴィンに対しても、身の置き所のない気恥ずかしさを覚える。
「ま。そんなわけだからさ。今日は綺麗なお姉さんに優しくしてもらって、ついでに天国見てこいよ。な?」
ジュード君かわいいからきっとちやほやしてくれるぜ、アルヴィンが言い終わるより先に拳を付き出していた。彼に少しでも期待した自分への怒りからだ。だが、それなりの重さで以って 突き出した筈の拳を彼は軽々と受け止めて逆に握り返す。
「ひっでぇの。こっちはそれなりに責任感じてるんだぜ?」
からかうような口調で、彼は言った。反射的に振り払おうとしたが、それすらも予想されていたようでアルヴィンの手は固くジュードを捕らえたまま解けない。
悔しい。易々と拳を受け止められたことも、自分を娼館へ連れて行こうとする彼の無神経さも、何もかもが業腹だ。その上、言うにこと欠きジュードに口付けたその口で責任等と言い出した。指先を絡め合ったその手で拳を包み込み組み敷いたその身体で以って、この酷薄な男は今正に娼館へとジュードを導こうとしている。
「もうやだ!ほんっとやだ!アルヴィンなんて信じられない!僕、未成年だよ?何考えてるんだよ!」
「心外だなー、ジュード君。十五歳っつったら、そりゃあもう男女の夜の駆け引きに興味深々なお年頃じゃねぇの」
「そ、それはアルヴィンの勝手な持論でしょ。世間一般の十五歳皆が皆そうってわけじゃないからね!」
「そうは言ってもなぁ……」
拳を捕らえたまま、アルヴィンは笑みを潜めてジュードを見つめた。眉根を寄せて、溜め息を吐く。嫌な予感しかしない。
「童貞喪失が俺相手とか気の毒過ぎる」
真顔で、アルヴィンは言った。そう目にする機会は多くないが、こうして真面目な顔をすると彼は本当に端正な顔立ちをしている。この局面に置いて思わずそんな感想が脳裏に過ぎる時点で、頭が思考を放棄しようとしているのは明白だった。つまりもう色んな葛藤も辻褄合わせもすっ飛ばして泣いてしまいたい。
「もう……わけわかんないよ」
「だぁいじょうぶだって。いいぞ、女の身体は!柔らかいしいい匂いだし、砂糖菓子みたいなもんだって」
「……そうだよね。それなのに、何でアルヴィンだったんだろ。固いし筋張ってるし、おまけにあの時は有り得ないくらい臭かったのに」
あの時――夜を待つ空の下で、ジュードは確かにアルヴィンに手を伸ばした。何処よりも冷たい場所で、それでも確かな熱と意図で以ってこの男に触れた。その事実に嘘はない。だから責任感じてるっつってるのに。アルヴィンが笑う。なら、あの時の僕の心は何処にあったのだろう。熱を煽りあった男を見つめて、ジュードは思った。
「責任なんて、嘘」首を振って、ジュードは頬を膨らませる。「面白がってるだけじゃない」
嘘だった。本当は気が付いていた。アルヴィンが彼なりに責任を感じていて、ジュードに逃げ道を作ろうとしてくれているのだと分かっていた。けれど、ジュードはそのことに気が付かないふりをして彼の不器用な譲歩を嘘にした。理由は自分でもよく分からない。
バレたか、とアルヴィンは唇を不透明な笑みの形に歪めて肩を竦める。自分の気持ちの在り様だけでなく、目の前の男すら持て余す事実にジュードは疲れた。だから、溜め息を吐くとまた肩に腕を回されても、今度は抵抗しなかった。
ただ、腕を引かれながら仰いだ空に雨雲の間から覗く月を見つけてふと、あの薄紅の空の下でジュードに暴かれた男は何を考えていたのだろうか、と今更のように思った。
赤いガス灯に浮かび上がる看板をくぐり、娼館の裏口の扉を開ける頃、また雨が降り出した。往生際悪く嫌がる子供を連れ歩くのが面倒で、途中から小脇に抱えるようにして引きずってきたので腕が少し痺れている。荷物を下ろす要領で勝手口から放り投げると、積んであった小麦粉の袋に肩をぶつけながらそれでも彼は綺麗な受け身をとってみせた。
「はー……おっもたかった」
扉を後ろ手に閉めながらアルヴィンは言った。表通りから差し込んでいた僅かばかりの光も遮られると、暗く湿気った部屋の中に雨音が響き始めた。アルコールと麝香の混ざった匂いがする。暗い闇のような中にあっても、恨めしそうにアルヴィンを見上げる子供の瞳はいやにぎらついて見えた。手を伸ばして引き起こしてやる。
「ほらよ。行こうぜ、マティス先生?綺麗なおねえさま方がお待ちだ」
肩を組んで促すと、ジュードは何か言いたそうに口を開いた。縋るような琥珀色の瞳が心地良い。だが、アルヴィンは彼の先に続く言葉を導くことはせず、首を傾けた。頬に柔らかな黒髪が触れる。判ったよ、もう。真意を飲み込んで誂えた上辺の言葉を、アルヴィンは喉を鳴らして笑った。
通用路を抜けると、衝立を隔てたサロンの裏手側に出た。昼の間に話を通しておいた女を見つけて名前を呼ぶ。この娼館のメトレスだ。胸元の大きく開いた赤いドレスの女は、豊かな黒髪を揺らしてアルヴィンの方へと近付いてきた。
「待ってたわ。その子ね、昼間話していたのは」
ヘイゼルの瞳を柔らかく細めると、女は視線をアルヴィンからジュードへと移した。流石にアルヴィンの影に隠れるように、という程ではなかったものの、明らかに逃げ腰のジュードは蠱惑的な彼女の視線に絡め取られて肩を大きく揺らした。ミラやプレザで耐性もついただろうに、矢張り本職を前にするとこんなものか、とアルヴィンは子供を生温い目で見守る。大丈夫よ、そんなに緊張しないで。ジュードに微笑みかけるメトレスが小さく首を傾けると、香水の匂いが鼻腔を突いた。
「貴方達、いらっしゃい」
優雅な所作でジュードの手を取り、女が呼び掛けたカーテンの奥からまた別の着飾った女達が現れる。いよいよ逃げ場のなくなった子供がうっすらと涙すら浮かべて見つめてきたが、いくら可愛らしいとはいえ同性と見つめ合う趣味はなかったので、アルヴィンは早々に現れた顔見知りの女の腰を抱き寄せてその頬にキスをした。
「久しぶりね、アルヴィン。あんなによく来てくれてたのに、急に音沙汰がなくなるんだもの」
「ちょっと野暮用でね。イル・ファンを離れてたんだ」
「あら。綺麗な女の人と歩いてるところを見た、っていう娘が居るのよ?」
亜麻色の髪を揺らして、しなだれかかる女が悪戯っぽく微笑む。彼女が言っているのはプレザのことだな、とアルヴィンは思った。
「情報が早いな。でも、別れたよ。ふられちまってね」
ほらやっぱり、と花が咲いたように無邪気に女が笑う。他の花も艶やかに綻んで、そんな中よくよく見知った子供だけが雨に濡れて打ち捨てられた花弁のように沈んでいた。
「いい加減アルヴィンから離れなさい。坊やが戸惑ってるじゃない」
メトレスが手を叩きながら女達を促すまで、ジュードの視線はアルヴィンに注がれたままだった。離れて行く女のこめかみにまた一つ口付けを落としてから子供を見やると、頬を紅潮させて思い切り顔を逸らされた。怒っているようだ。思えば彼はアルヴィンのやることなすことことごとくに、大なり小なり腹を立てている。今もそうだ。いつも怒ってばかりで本当に可愛いな、とアルヴィンは思った。
「さぁ、どの娘がお好みかしら?何なら、別の娘を呼んできてもいいわ」
呼ばれた女達が順々に前へ歩み出ては、ジュードに自己紹介をしていく。その度に、可哀想な子供は少しずつ後退りをしてとうとう壁際にまで追い詰められてしまった。楽しい。声にならない声でジュードがアルヴィンの名前を呼んだ。
「おいおい。こんな美女に囲まれて、野郎の名前呼んでんじゃねぇよ」
「そ、そうじゃなくて!」
ふくよかな子供の唇が「助けて」と動く。アルヴィンは返事の代わりに笑顔を返すと、メトレスに向き直った。
「ご指名しても?」
「あら。慣習を知らないわけではないでしょう」
言いながら、それでもメトレスはすらりとしなやかな腕をごく自然な所作でアルヴィンに絡ませてきた。
「花代は持つ。それなら文句ないだろ?」
ブルネットに口付けながらアルヴィンが囁くと、仕方がないわねと女主人は微笑んだ。
「ほら、おたくもとっとと選べよ。あんまり美女を待たせるもんじゃないぜ?」
壁際に追い詰められた子供にそう言って笑いかけると、つり上がり気味の双眸が剣呑な色を帯びて細められる。腹の底が冷えていく感じがした。あんな視線を向けられたのはハ・ミルで彼らに銃口向けて以来かも知れない。あれは相当怒っているな、とアルヴィンは笑みの色を深くしながら思った。
やがて少年の視線は逸らされて、身を取り巻く女達へと向けられた。明るい茶色に、亜麻色、ダークブラウンを結い上げた女に一瞬目を留めた後、結局鮮やかな赤い癖毛の女の名前を呼んだ。ミラといい、プレザといい、大人しそうな容姿に反して、この子供は派手な美人が好みのようだった。アルヴィンが頭の後ろで腕を組んで口笛を吹くと、きつく睨まれた。
「そんな目で見るなよ青少年」
「それはアルヴィンが……ッ」
声を荒げる子供の傍らで、赤毛の女の華奢な肩が小さく跳ねた。思わず、言葉を途切れさせたジュードの隙を見逃さなかった。メトレスの腰に手を回して背を向けると、もう一方の手を振りながら肩越しに子供を見やる。
「じゃ、お互い楽しもうぜ?」
背中に勢いの削がれた罵声を浴びせかけられながら、アルヴィンはその場を後にした。
メトレスに案内されて個室に入ると、部屋の中央に置かれたテーブル脇のソファに座った。大きく取られた窓から見たイル・ファンの街並みは、雨に塗れている。窓を眺めるアルヴィンから離れたメトレスが、ボトルに手を伸ばしながら声を掛けた。
「何か飲む?それとも……」
「いや、今日はアルコールはいいよ」
「あら、珍しい」
「今日の俺はあくまで付き添い。保護者なの」
だからお茶だけちょーだい。窓を伝う水滴が斑に陰を作る様子を眺めながら、アルヴィンは言った。呆れた、私を指名しておいて何もしないで帰るつもりなのね。メトレスは笑った。
「あの子、とても怒っていたわ」
紅茶を用意する音を響かせながら、女主人が囀る。雨音を追いながら、そうだな、と言ってアルヴィンは頷いた。
「見ての通り絵に描いたような優等生さ。だからまぁ、多少腹に据えかねることがあっても女の子相手に癇癪は起こさないだろうよ」
その代わり、後で自分はぼこぼこにされるかも知れない。欠伸を噛み殺しながらアルヴィンは思った。カン・バルクでローエンに会ってから向こう、あまり寝ていなかった。あの時から既に若干の寝不足を自覚し始めていたアルヴィンは、本当はガイアスへの謁見が済んだら次の予定まで少しゆっくりするつもりだったのにな、と眠気から来る頭痛を誤魔化すようにこめかみを強く抑えた。
距離を置いて女主人が隣に座ると、ソファが少し沈む。それから、紅茶の匂いが漂って来た。
「乗り気じゃないのね。あの子が気になる?」
「そんなことはないさ。楽しんでるよ」
選んだ言葉に、嘘はない。あの旅が終わりに差し掛かり、埋めようのない溝を越えてアルヴィンに手を伸ばした子供が、その実喪失の執行猶予を経て未来への模索を始めて以来柔和な面差しを殺し続けている事実は確かに気掛かりだった。それが今日のジュードはことある毎に赤くなったり青くなったり、涙を湛えて見上げてきたりと本当によく表情が変わる。だから、子供から奪ってしまったものを少しでも返すことが出来たような錯覚に、アルヴィンは気を良くした。睡眠時間を削ってイル・ファンへ急いだ甲斐があった、と心の底からの自己満足に浸れる程度には楽しかった。
「どうかしらね。彼、失望していたでしょうに」耳に届いた不穏な声に、紅茶に伸ばし掛けた手を止める。「貴方のことが好きなのよ。可哀想」
伸ばした腕はそのままに、ぎこちなく視線だけをメレトスへと向ける。ブルネットに映える赤い唇が弧を描いた。
「やっとこっちを見たわね、色男」
「いやいやいや、だってそれは」
それはない。言い切れるだけの確執があの子供と自分との間にはあって、好意も信頼も、或いはアルヴィンの作り上げた虚像に対するある種の情景にも似た念も一切、残ってなどいなかった。けれど、そうした一切の虚飾を取り去りかき集めた遺骸だけで今のアルヴィンとジュードは繋がっている。それすらも自分には過ぎたものだという自覚があるだけに、暴力的な熱に浮かされて衝動のままに手を伸ばされたことはあっても、そこに彼女の指摘するような優しい感情が伴っているのだとはとても思えなかった。
「いいから、話を聞きなさい」
「聞いてるよ。どうぞ続けて」
紅茶を手にして肩を竦めながら視線を逸らすと、隣からは盛大な溜め息が聞こえた。
「貴方はただの周旋屋[クルティエ]で、ここの娘たちと遊んだことはない、って教えてあげたら良いのよ」
「……信じねぇよ。それに言っただろ、優等生だって」
買うより売る方が悪い、とあの子供は言うだろう。ミラと同じ眼差しで、アルヴィンを責めるのだろう。
「それはそれで悪かねぇけど……もうちょい余裕がある時にお願いしたいねぇ」
「疲れているのね」
「そりゃあもう」
「ゆっくり休めば良かったのに」
「ほんとにな」
カップに唇を押し当てながらアルヴィンは言った。鼻を突く柑橘類の香りに、僅かだが頭痛が和らぐ。
「……おたくの思うような関係じゃないよ、俺とあいつは。ただ、大きな借りがあるんでね」
それを返すまでは、逃げずに彼らの傍に居ようと思っていた。見届けるまでは、彼らの助けになるのだと決めていた。
「借りなんて返したら終わりじゃない」優雅な所作でソーサーからカップを摘み、メレトスは言った。「大義名分を掲げてでも、傍に居たいと思っているのに、馬鹿ね」
女主人は囀る。頭が痛かった。目蓋が重い。大義名分掲げて縋って縛られて、動けなくなるのは得意なんだ。紅茶を啜りながらアルヴィンはぼそぼそと呟く。
「どうせ返すのなら、恩になさい」
甘く淫らな香りの漂う閉じた家にはいっそ不釣り合いな程、快活に笑ってメレトスは言った。だから違うんだって。アルヴィンは呻いた。けれど、もしも彼らがそれを許してくれるのなら或いは、彼女の言うように傍に居られたら良いな、と思った。
白く華奢な手のひらで包み込むようにジュードの手を取ると、赤毛の女は「また来てね、お医者さま」と言って綺麗に微笑んだ。左頬だけに浮かぶえくぼからぎこちなく視線を外し、彼女の手から解放されたのを見計らうとジュードは素早く後ずさった。その様子を、傍らにブルネットの女主人を伴ったアルヴィンが笑う。
「いいねぇ。反応が初々しいわ」
珍しく含みのない笑顔が余計に腹立たしい。腰を抱いた女主人の口付けを頬に受けて離れると、二言三言を交わしてアルヴィンはジュードへと近付いて来た。
「じゃ、帰るとしますか」
片目を瞑って陽気に彼は言った。ジュードは返事をせずに、赤毛の女の名前を呼んで手を振るとアルヴィンを置いて裏口へと向かう。背中にジュードの名を示す声が掛かったが、振り返らなかった。
外に出ると雨はすっかり止んでいて、千切れた雲が月の光に照らされて輪郭を浮き彫りにしていた。生温い風が頬を撫でる。ジュードはアルヴィンを待たずに濡れた石畳を踏みしめて歩き出した。ややあって、蝶番の軋む音が響きまた名前を呼ぶ声がした。だが、距離を詰めるつもりのない足音は穏やかだ。
「こらこら。歓楽街を一人で歩いちゃ危ないだろ?」
未成年なんだから、と男は続けた。ジュードは足を止める。空に煌々と浮かぶ鋭利な月は、ティポの目を思い起こさせた。毒気が抜かれる。
「最もらしいこと言ってるつもりかも知れないけど、全部上滑りしてるって気付いて」
肩越しに彼を見やって言う。だが、アルヴィンはあどけないとすら形容出来る無邪気な顔で「でも、楽しんだんだろ?」と言った。ジュードは頭を抱えた。
「どうしてわからないの?」
「何が?」
「だ、だから、その……」
言いよどむジュードの頭を抱えた手に、アルヴィンの手が触れた。顔を上げる。何が、と彼は繰り返した。声音は幼子をあやすように穏やかで、かれはこんな声も出せるのかと感心した。だが、続くはずの言葉は喉につっかえて出てこない。彼から漂う彼のものでないにおいに、目眩がする。
「楽しんだのは、アルヴィンの方じゃないか」
気が付いたら言葉にしていた。彼はというと、眉根を寄せるでもなくジュードの言葉を咀嚼するように黙り込んでいる。
努めて丁寧にアルヴィンの手を外しながら、ジュードは赤いガス灯に沈む落ち窪んだ眼孔を見据えた。
「だってそうでしょ?アルヴィンこそ、あの女の人とずっと二人きりで、こんな香水のにおいなんかさせて」
問い詰める。アルヴィンはゆっくりと瞬いて、けれどジュードから視線を外すことはなかった。思いがけず真っ直ぐと向けられる眼差しに、頬が熱くなる。やがて彼は少し困ったように笑いながら「馬鹿だな」と言ってジュードの頭をかき混ぜた。
「今回はお前の付き添い。それに、あそことは昔情報収集させてもらう代わりに周旋屋の真似事してただけのビジネスライクなお付き合いなわけで、青少年が期待するような色っぽい関係は一切なかったよ」
プレザも居たしな。付け加えてから、アルヴィンはジュードの髪を解放した。そな名残を辿るように、自身の髪にジュードは触れた。
「……嘘は、嫌だからね」
「こだわるねぇ」
前科者が笑う。
今一度、ジュードは上目遣いに男を見つめた。器用に片眉を上げて見せ、アルヴィンは首を傾ける。ジュードは奥歯を噛み締めながら俯いた。
「本当に、わからないの?」
先と同じ問いを、ジュードは繰り返した。
見つめる先の濡れた石畳は月光と赤いガス灯を照り返して、鈍く光っている。ただ、アルヴィンの陰の落ちたそこだけが、深い穴のようにぽっかりと昏く蠢いていた。視界から陰を追い出すように、ジュードは堅く目を閉じる。
「……アルヴィンと同じ。彼女とは、その……何もなかった」
それだけ告げると、いやに口の中が乾いていることに気が付いた。こんな時に限って、アルヴィンは何も言わない。だから俯くジュードには、彼の感情が読み取れなかった。観念して顔を上げようとしたジュードの肩に、漸く彼の大きな手が掛けられた頃には、彼の感情の行方どころか自分の感情の在処さえ判らなくなっていた。
ジュード、と低く平坦な声で名前を呼ばれる。目を開く代わりに、唇を強く噛み締めた。そこに、彼の手が触れる。
「血が出るぞ」
優しく言われて、泣きたくなった。顔を上げると、柔らかく微笑むアルヴィンと目が合った。
「大丈夫。緊張するとかえって勃たないもんだ。特に最初は」
だから気にするな。その意味を正しく理解するのにジュードは一拍程の時を有し、気が付けば慈悲深く微笑む男の横っ面を力の限り張り倒していた。流石に石畳に倒れ込むことはなかったが、それでも二歩三歩とよろめいた男は頬を抑えながらも堪えきれないといった様子で噴き出すと夜空に哄笑を響かせた。
「どうしてそうなるんだよ!ア、アルヴィンはいつもいつも、どうして!」
「ど、どうして、って、だって……」
腹を抱えて丸くなる背中をジュードは蹴り飛ばした。男は苦しそうに喘いでいる。
「普通に考えてよ!好きでもない相手と、そんなこと出来るわけないじゃないか!」
震える背中に言葉を浴びせかける。声は悲鳴のように裏返っていた。そして、言ってから色々な意味で後悔した。
息を調えるように、アルヴィンは深く呼吸を繰り返す。口元は手のひらに覆われていたが、笑みの形をしているのは判った。そこに、彼の真意が伴わないことも知れた。衝動的な笑みが引き、理性で作られた笑顔をジュードに向けながらアルヴィンはひとつ大きく息を吸った。
「……ジュード、お前はさ」
しゃがみ込んで、ジュードを見上げて、口を開いて、彼は、首を横に振った。
「いや。何て言うの?説得力ないよ、それ」
気安く、穏やかに笑って、アルヴィンは言った。彼は本当は何と言おうとしたのだろう。一瞬だけ我に返ったジュードの脳裏にそんな思いが過ぎるが、本当に一瞬で終わった。だってそうだろ、俺相手でも盛れるわけだし。朗らかに言って、アルヴィンはジュードにとどめをさした。その瞬間、足と心が同時に折れた。衣服が濡れるのも構わずジュードは石畳に膝を突くと、そのまま頭を抱えた。
「ちょっ、おい!どうした青少年?そんなにショックだったのか?……大丈夫だって。おたくが不能じゃねぇことは、不本意だが俺が身を以って知ってるさ。今回はほら、運が悪かったってだけだ。な?」
あやすように、背中を撫でる彼の手は優しかった。女の香水の残り香に混ざる、アルヴィンのにおいが近い。助け舟を出すかのようにまくし立てる彼の言葉の全てが、今はただ遠く、無為な音として鼓膜を震わせる。
言ってしまった。自覚へと到ってしまった。気が付かずに居られたなら、それはとても平和で幸せなことだっただろうに、と後悔ばかりが渦巻いた。だのに、ただ一度だけ、それでも一度、確かにジュードはこの男に手を伸ばした。かつて憧憬の念を抱き、信頼を寄せ、けれどそのことごとくを手酷く裏切った彼に欲情した。その情動が無惨に打ち捨てられた在りし日の感情に起因するものだとしたならば、確かにそこにはリマレンスという名前が付くのかも知れない。けれど同時に、その浮かれた感情は他でもない彼自身が惨たらしく引き金を引き、殺してしまった。その遺骸に、気が付いてしまった。
「……アルヴィン」
うなだれたまま、それでもジュードは彼の名を呼んだ。背中に触れていた手の動きは止まる。
「何だよ」
応えはすぐに返された。それだけに、迷う。けれど、膝の上で拳を固めて顔を上げる頃には、言うべきことは決まっていた。
上体を起こしたことで一度アルヴィンの手は背中から離れ、少しの間宙をさ迷った後ジュードの肩の上に落ち着いた。息遣いが聞こえそうな程の近い距離で、彼は真っ直ぐにジュードに眼差しを返してくる。キスが出来そうだな、とジュードは思った。
「……アルフレド・ヴィント・スヴェント、さん」
記憶の底を探り、ただ一度だけ聞いた韻を拾い上げる。声は情けなく震えていた。怒られるかも知れない。突き放されるかも知れない。ありとあらゆるネガティブな念が駆け巡った。
二度、三度と目の前の男は瞬く。それから、少し視線を泳がせて、結局眉値を寄せながら赤褐色の瞳にジュードを映した。
「は、はい?」
二度目の応えが返される。その瞳の奥に、ジュードは確かに死を視た。リマレンスの死だ。
逃がさぬよう、肩に置かれた手に自らの手を重ねて捉えながら口を開く。
「貴方が好きです」
祈りにも似た心地で、ジュードは言った。
手指を擦り合わせながら白く煙る息を吹きかけると、アルヴィンは手袋を嵌めた。鼻の頭が冷たい。寝不足からくる頭重感が少しだけ和らぐ。
意匠の施された門の前には訪れた時と変わらず、人々が長蛇の列を作っていた。浅く積もった雪を踏み締め、人の波を掻き分ける。顔馴染みになった門兵に会釈をして門を抜けてしまうと、空中滑車の乗り場までは難なく辿り着くことが出来た。滑車は出たばかりのようで、アルヴィンの他に人は居なかった。コートの内ポケットから手帳を取り出し、ペンを走らせる。
「商売をしよう」と旅の途中に出会った青年に誘われたのは、一節程前のことだ。だが、人を欺くことを生業としてきたアルヴィンは、人からの信頼が得られなければ立ち行かないだろう彼の誘いにすぐには頷けなかった。それでもシャン・ドゥに少しの間だが滞在していたアルヴィンに会う度に、青年は人好きのする綺麗な笑顔で返答を求めてきた。大丈夫、最初から上手く行くなんて私も思っていないさ。そう言われて、毒気を抜かれたというのもある。結局、アルヴィンは青年の掲げたグラスに自分の持つそれを合わせた。
リーゼ・マクシアとエレンピオス間での商いに先だって、双方の許可を取り付ける為にアルヴィンはカン・バルクのガイアスを訪ねた。エレンピオス側にも行かなくてはならないが、従兄にシルフモドキを飛ばしてからまだそう時は経っていない。一度拠点であるシャン・ドゥに戻って青年――ユルゲンスに報告してもいいかも知れない。だが、その前にあちこちを駆け回ってろくに働かなくなった頭と身体をそろそろどうにかするべきなのかも知れない。そんなことを考えて、手帳をしまうアルヴィンの背中に声が掛かった。
「アルヴィンさん」
振り返ると、アルヴィンがそうだったようにガイアスの謁見を望む人の波を掻き分けて、見覚えのある顔が近付いてきた。
「じいさん。出て来て大丈夫なのか」
「何を言っているんです、水臭い」
声を弾ませて、ローエンが言った。
「いや、あんたも居るってのはガイアスに聞いてたし、顔くらいは見せようと思ってたんだぜ。でも、客来てんだろ?」
薄く雪の積もった白髪から視線を外す。滑車はまだ来ない。寒さをまるで感じさせずに隣に並び立つ老人は「来てますよ」と言って肩を竦めた。
「エレンピオス政府要人の方々が」
「……あんた、アホだろ」
「そうは言いますが、この歳になると長時間座っているのはなかなかに辛い」
腰も痛くなってきたのでこうして中休みを挟ませて貰ったのですよ。隣で腰をさするローエンに、アルヴィンは視線だけを投げた。楽しそうに笑うその横顔に、他意はないように見える。食えないじじぃだ、とアルヴィンは頭を掻いた。
「そういえば聞きましたよ」柔らかく皺の刻まれた目元を細めて、ローエンは言った。「商売を始めるそうですね」
耳が早い。アルヴィンは苦笑した。
「ああ。ユルゲンスと」
「成る程。彼はとても良い青年です。貴方のような捻くれた方とも、きっと真摯に向き合ってくれるでしょうね」
全く変わらない笑顔でローエンは言った。それなりに思うところはあったが、どれも事実だったので拳を固めて耐える。シャン・ドゥに向かう道すがら、魔物にでも八つ当たりすることにしよう、とアルヴィンは静かに心に決めた。それに、既に似たようなニュアンスの言葉を投げられている。今更だ。
「ジュードからの返事もそんな感じだったわ」
おや、と言って老人は顎に手を当てた。
少し前に、ジュードの住むイル・ファンに手紙を送った。近況報告が殆どで返事を期待するような内容でもなかったが、そう時を置かず放ったシルフモドキが書簡を足に括り付けて帰還した。そこにはアルヴィンが書いた手紙に対するローエンと似たり寄ったりな意見に添えて、少年自身の近況とイル・ファンで彼の借りる部屋の場所とが綴られていた。源霊匣[オリジン]の医療ジンテクス転用の可能性に関するレポートを提出したところ、新しい研修先の教授の目に止まったらしい。近々、医学校で発表会があるとのことで今はその資料集めに忙しいのだ、と癖のない綺麗な文字で少年の近況は纏められていた。
「連絡を取り合っているのですね」
「あんたにも似たような内容で出したぜ……っつってもその様子じゃ読んでねぇみたいだな」
ご多忙なようで。言って、今度はアルヴィンが肩を竦めれば、老軍師は心持ち眉尻を下げて笑みの色を強めた。
風雪に煙る視界に遠く、ゆるゆると滑車の陰が揺れているのを見留める。ローエンもそろそろ城に戻らなくてはならないだろう。頃合いとしては丁度良い、とアルヴィンは隣に立つ男を伺った。彼も頷く。
「では、私も戻るとしましょう。この寒さ、矢張りじじぃには堪えるようです」
「そうしろよ、じいさん……まぁ、顔が見れて良かったよ」
「おや、貴方の口からそのような殊勝な言葉を聞けるとは。老体に鞭を打ってみるものですね」
髭を撫でながらローエンは言った。だが、途中不意にその柔和な笑みを潜めると、思案深げに視線を彷徨わせる。嫌な予感がした。
端から見れば油断なく鋭い思考を巡らせているかのような立ち姿だが、決して短くはない時間を旅の空の下で共有していたアルヴィンには解ってしまった。これはアルヴィンを含む若者たちへ仕掛ける、老猾な悪戯を企んでいる顔だ。ああ、もう、逃げたい。救いを求めるような心持ちで、アルヴィンは歩みの遅い滑車を恨めしく見やった。その肩に、ローエンが手を置く。
「……アルヴィンさん、少々頼まれごとをして下さいませんか?」
ほら来た。アルヴィンは諦めるように両手を上げ、深々と溜め息を吐いた。だが、そんなアルヴィンの反応も彼は既に予想していたようで、悪戯っぽく片目を瞑ると人差し指を立てて見せる。
「ご安心下さい。今回は貴方が共犯者です」寝不足の頭が笑みを孕んだ提案の意味を咀嚼し終える前に、老軍師は言葉を続けた。「ジュードさんに会いに、イル・ファンまで足を運んでは頂けないでしょうか」
本当に、この老人は性質の悪い悪戯を思い付く。アルヴィンは口の端を吊り上げた。
もつれそうになる足を何とか前に出すことで、辛うじて転倒を避けた。だが、ジュードの二の腕を掴む男の歩みは淀みなく、すぐにまた次の一歩を強制される。もう幾度となく抗議の声を上げていたが、前を行く男の足取りはただただ軽くジュードは半ば引き摺られるようにして歩を進めるしかなかった。
「ね、ねぇ!アルヴィン」
連行するかのような力強さでジュードの二の腕を掴む男の名を呼ぶ。彼は振り向くことすらせずに生返事だけを寄越した。歩みも二の腕を掴む力も一向に緩まず、イル・ファンらしからぬ赤いガス灯に照らされた輪郭から表情は伺い知れない。アルヴィン。もう一度、ジュードは名前を呼んだ。目が熱くなって、鼻の奥が痛かった。泣く。これは泣く。混乱した頭で、ただひたすらにそれだけを思った。そんなジュードの思いが通じたのか、漸く肩越しにだが彼の視線が寄越される。下がった目尻を常よりも更に下げ、薄い唇は弧を描き、歩みを少しも緩めることなくアルヴィンはジュードを見やった。
「どうしたよ、青少年?」
「腕!痛い!」
「そりゃあ、おたくがしゃきしゃき歩かねぇからだろうが」
最後まで言い切る前に笑いが堪えられなくなったらしい彼は、盛大に噴き出すと顔を背けた。腕を掴む力が少し緩んだので逃げ出すチャンスだったのに、目の前で馬鹿笑いする男が心底憎々しく思えてジュードは逆に引き寄せた彼の足を思い切り踏み抜いた。哄笑を悶絶に変えてうずくまる男の背中を、更にもう一つ蹴り飛ばす。二の腕は呆気なく解放されたが、それでもジュードの溜飲は下がらない。
「ほんっと!アルヴィンって信じられない!」
情けない鼻声で叫んだ。
二旬前、源霊匣の研究を発表した際、酷く批判されたジュードは確かにそれなりに落ち込んではいた。それでも、すぐに理解は得られないだろうと覚悟はしていたので、塞ぎ込む暇はないのだと自身に言い聞かせると気持ちを切り替え、より一層研究に打ち込むことにして立ち直った。何より近況を報せてくれる仲間からの手紙は励みになったし、たまたまイル・ファンに来ていたローエンに胸の内を話したりして、気持ちは随分と楽になっていた。だから、アルヴィンが訪ねて来てくれたことは本当に嬉しかった。手紙にあった彼の商売の話も聞きたかったし、ジュードも話したいことが沢山あった。そんな彼が外へ行こうと言い出したなら断る理由はない。アルヴィンの提案をジュードは二つ返事で受け入れると部屋を出た。彼に誘われたことが単純に嬉しかった。だが、前を歩くアルヴィンにジュードが行く先を訪ねると、思いも寄らない言葉を返された。
「最低だよ、もう……何で娼館なんて!アルヴィンの馬鹿!」
悲鳴のような声でジュードが言うと、いつの間にか復活した男が喉を鳴らす。最悪だ。
「そうむくれんなよジュード君。勤勉なのは確かに美徳だが、度が過ぎるとそれはそれで不健全なんだぜ?」
言いながら、彼の腕が肩へと回される。たまには息抜きも必要だろ。耳元で囁かれ、ジュードは身体を強ばらせた。目頭が熱くなって、血の気が引く。理由は解らない。そして理由も解らないのに何故か理性を総動員して、思い切り良く肘を引いた。今度は蛙の潰れたような声が耳元でして、ジュードは漸く肩の力を抜く。
「……おたく、今もろに狙っただろ」
濡れた石畳に腹をさするようにしてしゃがんだアルヴィンが見上げてくる。そんな彼に、ジュードは裏返る声で言い放った。
「じ、自業自得だからね!」
「へいへい、っと……だけどマジな話、少しは息抜きしろよ。ローエンだって心配してたんだぜ?」
地面についた裾を気にするように立ち上がりながら、アルヴィンは言った。返す言葉に詰まる。心配を掛けていたという事実を自覚して、申し訳ないような、嬉しいような、そんな擽ったさを感じた。ローエンの気持ちには勿論、ローエンを口実にしてでもわざわざこうして会いに来てくれたアルヴィンに対しても、身の置き所のない気恥ずかしさを覚える。
「ま。そんなわけだからさ。今日は綺麗なお姉さんに優しくしてもらって、ついでに天国見てこいよ。な?」
ジュード君かわいいからきっとちやほやしてくれるぜ、アルヴィンが言い終わるより先に拳を付き出していた。彼に少しでも期待した自分への怒りからだ。だが、それなりの重さで以って 突き出した筈の拳を彼は軽々と受け止めて逆に握り返す。
「ひっでぇの。こっちはそれなりに責任感じてるんだぜ?」
からかうような口調で、彼は言った。反射的に振り払おうとしたが、それすらも予想されていたようでアルヴィンの手は固くジュードを捕らえたまま解けない。
悔しい。易々と拳を受け止められたことも、自分を娼館へ連れて行こうとする彼の無神経さも、何もかもが業腹だ。その上、言うにこと欠きジュードに口付けたその口で責任等と言い出した。指先を絡め合ったその手で拳を包み込み組み敷いたその身体で以って、この酷薄な男は今正に娼館へとジュードを導こうとしている。
「もうやだ!ほんっとやだ!アルヴィンなんて信じられない!僕、未成年だよ?何考えてるんだよ!」
「心外だなー、ジュード君。十五歳っつったら、そりゃあもう男女の夜の駆け引きに興味深々なお年頃じゃねぇの」
「そ、それはアルヴィンの勝手な持論でしょ。世間一般の十五歳皆が皆そうってわけじゃないからね!」
「そうは言ってもなぁ……」
拳を捕らえたまま、アルヴィンは笑みを潜めてジュードを見つめた。眉根を寄せて、溜め息を吐く。嫌な予感しかしない。
「童貞喪失が俺相手とか気の毒過ぎる」
真顔で、アルヴィンは言った。そう目にする機会は多くないが、こうして真面目な顔をすると彼は本当に端正な顔立ちをしている。この局面に置いて思わずそんな感想が脳裏に過ぎる時点で、頭が思考を放棄しようとしているのは明白だった。つまりもう色んな葛藤も辻褄合わせもすっ飛ばして泣いてしまいたい。
「もう……わけわかんないよ」
「だぁいじょうぶだって。いいぞ、女の身体は!柔らかいしいい匂いだし、砂糖菓子みたいなもんだって」
「……そうだよね。それなのに、何でアルヴィンだったんだろ。固いし筋張ってるし、おまけにあの時は有り得ないくらい臭かったのに」
あの時――夜を待つ空の下で、ジュードは確かにアルヴィンに手を伸ばした。何処よりも冷たい場所で、それでも確かな熱と意図で以ってこの男に触れた。その事実に嘘はない。だから責任感じてるっつってるのに。アルヴィンが笑う。なら、あの時の僕の心は何処にあったのだろう。熱を煽りあった男を見つめて、ジュードは思った。
「責任なんて、嘘」首を振って、ジュードは頬を膨らませる。「面白がってるだけじゃない」
嘘だった。本当は気が付いていた。アルヴィンが彼なりに責任を感じていて、ジュードに逃げ道を作ろうとしてくれているのだと分かっていた。けれど、ジュードはそのことに気が付かないふりをして彼の不器用な譲歩を嘘にした。理由は自分でもよく分からない。
バレたか、とアルヴィンは唇を不透明な笑みの形に歪めて肩を竦める。自分の気持ちの在り様だけでなく、目の前の男すら持て余す事実にジュードは疲れた。だから、溜め息を吐くとまた肩に腕を回されても、今度は抵抗しなかった。
ただ、腕を引かれながら仰いだ空に雨雲の間から覗く月を見つけてふと、あの薄紅の空の下でジュードに暴かれた男は何を考えていたのだろうか、と今更のように思った。
赤いガス灯に浮かび上がる看板をくぐり、娼館の裏口の扉を開ける頃、また雨が降り出した。往生際悪く嫌がる子供を連れ歩くのが面倒で、途中から小脇に抱えるようにして引きずってきたので腕が少し痺れている。荷物を下ろす要領で勝手口から放り投げると、積んであった小麦粉の袋に肩をぶつけながらそれでも彼は綺麗な受け身をとってみせた。
「はー……おっもたかった」
扉を後ろ手に閉めながらアルヴィンは言った。表通りから差し込んでいた僅かばかりの光も遮られると、暗く湿気った部屋の中に雨音が響き始めた。アルコールと麝香の混ざった匂いがする。暗い闇のような中にあっても、恨めしそうにアルヴィンを見上げる子供の瞳はいやにぎらついて見えた。手を伸ばして引き起こしてやる。
「ほらよ。行こうぜ、マティス先生?綺麗なおねえさま方がお待ちだ」
肩を組んで促すと、ジュードは何か言いたそうに口を開いた。縋るような琥珀色の瞳が心地良い。だが、アルヴィンは彼の先に続く言葉を導くことはせず、首を傾けた。頬に柔らかな黒髪が触れる。判ったよ、もう。真意を飲み込んで誂えた上辺の言葉を、アルヴィンは喉を鳴らして笑った。
通用路を抜けると、衝立を隔てたサロンの裏手側に出た。昼の間に話を通しておいた女を見つけて名前を呼ぶ。この娼館のメトレスだ。胸元の大きく開いた赤いドレスの女は、豊かな黒髪を揺らしてアルヴィンの方へと近付いてきた。
「待ってたわ。その子ね、昼間話していたのは」
ヘイゼルの瞳を柔らかく細めると、女は視線をアルヴィンからジュードへと移した。流石にアルヴィンの影に隠れるように、という程ではなかったものの、明らかに逃げ腰のジュードは蠱惑的な彼女の視線に絡め取られて肩を大きく揺らした。ミラやプレザで耐性もついただろうに、矢張り本職を前にするとこんなものか、とアルヴィンは子供を生温い目で見守る。大丈夫よ、そんなに緊張しないで。ジュードに微笑みかけるメトレスが小さく首を傾けると、香水の匂いが鼻腔を突いた。
「貴方達、いらっしゃい」
優雅な所作でジュードの手を取り、女が呼び掛けたカーテンの奥からまた別の着飾った女達が現れる。いよいよ逃げ場のなくなった子供がうっすらと涙すら浮かべて見つめてきたが、いくら可愛らしいとはいえ同性と見つめ合う趣味はなかったので、アルヴィンは早々に現れた顔見知りの女の腰を抱き寄せてその頬にキスをした。
「久しぶりね、アルヴィン。あんなによく来てくれてたのに、急に音沙汰がなくなるんだもの」
「ちょっと野暮用でね。イル・ファンを離れてたんだ」
「あら。綺麗な女の人と歩いてるところを見た、っていう娘が居るのよ?」
亜麻色の髪を揺らして、しなだれかかる女が悪戯っぽく微笑む。彼女が言っているのはプレザのことだな、とアルヴィンは思った。
「情報が早いな。でも、別れたよ。ふられちまってね」
ほらやっぱり、と花が咲いたように無邪気に女が笑う。他の花も艶やかに綻んで、そんな中よくよく見知った子供だけが雨に濡れて打ち捨てられた花弁のように沈んでいた。
「いい加減アルヴィンから離れなさい。坊やが戸惑ってるじゃない」
メトレスが手を叩きながら女達を促すまで、ジュードの視線はアルヴィンに注がれたままだった。離れて行く女のこめかみにまた一つ口付けを落としてから子供を見やると、頬を紅潮させて思い切り顔を逸らされた。怒っているようだ。思えば彼はアルヴィンのやることなすことことごとくに、大なり小なり腹を立てている。今もそうだ。いつも怒ってばかりで本当に可愛いな、とアルヴィンは思った。
「さぁ、どの娘がお好みかしら?何なら、別の娘を呼んできてもいいわ」
呼ばれた女達が順々に前へ歩み出ては、ジュードに自己紹介をしていく。その度に、可哀想な子供は少しずつ後退りをしてとうとう壁際にまで追い詰められてしまった。楽しい。声にならない声でジュードがアルヴィンの名前を呼んだ。
「おいおい。こんな美女に囲まれて、野郎の名前呼んでんじゃねぇよ」
「そ、そうじゃなくて!」
ふくよかな子供の唇が「助けて」と動く。アルヴィンは返事の代わりに笑顔を返すと、メトレスに向き直った。
「ご指名しても?」
「あら。慣習を知らないわけではないでしょう」
言いながら、それでもメトレスはすらりとしなやかな腕をごく自然な所作でアルヴィンに絡ませてきた。
「花代は持つ。それなら文句ないだろ?」
ブルネットに口付けながらアルヴィンが囁くと、仕方がないわねと女主人は微笑んだ。
「ほら、おたくもとっとと選べよ。あんまり美女を待たせるもんじゃないぜ?」
壁際に追い詰められた子供にそう言って笑いかけると、つり上がり気味の双眸が剣呑な色を帯びて細められる。腹の底が冷えていく感じがした。あんな視線を向けられたのはハ・ミルで彼らに銃口向けて以来かも知れない。あれは相当怒っているな、とアルヴィンは笑みの色を深くしながら思った。
やがて少年の視線は逸らされて、身を取り巻く女達へと向けられた。明るい茶色に、亜麻色、ダークブラウンを結い上げた女に一瞬目を留めた後、結局鮮やかな赤い癖毛の女の名前を呼んだ。ミラといい、プレザといい、大人しそうな容姿に反して、この子供は派手な美人が好みのようだった。アルヴィンが頭の後ろで腕を組んで口笛を吹くと、きつく睨まれた。
「そんな目で見るなよ青少年」
「それはアルヴィンが……ッ」
声を荒げる子供の傍らで、赤毛の女の華奢な肩が小さく跳ねた。思わず、言葉を途切れさせたジュードの隙を見逃さなかった。メトレスの腰に手を回して背を向けると、もう一方の手を振りながら肩越しに子供を見やる。
「じゃ、お互い楽しもうぜ?」
背中に勢いの削がれた罵声を浴びせかけられながら、アルヴィンはその場を後にした。
メトレスに案内されて個室に入ると、部屋の中央に置かれたテーブル脇のソファに座った。大きく取られた窓から見たイル・ファンの街並みは、雨に塗れている。窓を眺めるアルヴィンから離れたメトレスが、ボトルに手を伸ばしながら声を掛けた。
「何か飲む?それとも……」
「いや、今日はアルコールはいいよ」
「あら、珍しい」
「今日の俺はあくまで付き添い。保護者なの」
だからお茶だけちょーだい。窓を伝う水滴が斑に陰を作る様子を眺めながら、アルヴィンは言った。呆れた、私を指名しておいて何もしないで帰るつもりなのね。メトレスは笑った。
「あの子、とても怒っていたわ」
紅茶を用意する音を響かせながら、女主人が囀る。雨音を追いながら、そうだな、と言ってアルヴィンは頷いた。
「見ての通り絵に描いたような優等生さ。だからまぁ、多少腹に据えかねることがあっても女の子相手に癇癪は起こさないだろうよ」
その代わり、後で自分はぼこぼこにされるかも知れない。欠伸を噛み殺しながらアルヴィンは思った。カン・バルクでローエンに会ってから向こう、あまり寝ていなかった。あの時から既に若干の寝不足を自覚し始めていたアルヴィンは、本当はガイアスへの謁見が済んだら次の予定まで少しゆっくりするつもりだったのにな、と眠気から来る頭痛を誤魔化すようにこめかみを強く抑えた。
距離を置いて女主人が隣に座ると、ソファが少し沈む。それから、紅茶の匂いが漂って来た。
「乗り気じゃないのね。あの子が気になる?」
「そんなことはないさ。楽しんでるよ」
選んだ言葉に、嘘はない。あの旅が終わりに差し掛かり、埋めようのない溝を越えてアルヴィンに手を伸ばした子供が、その実喪失の執行猶予を経て未来への模索を始めて以来柔和な面差しを殺し続けている事実は確かに気掛かりだった。それが今日のジュードはことある毎に赤くなったり青くなったり、涙を湛えて見上げてきたりと本当によく表情が変わる。だから、子供から奪ってしまったものを少しでも返すことが出来たような錯覚に、アルヴィンは気を良くした。睡眠時間を削ってイル・ファンへ急いだ甲斐があった、と心の底からの自己満足に浸れる程度には楽しかった。
「どうかしらね。彼、失望していたでしょうに」耳に届いた不穏な声に、紅茶に伸ばし掛けた手を止める。「貴方のことが好きなのよ。可哀想」
伸ばした腕はそのままに、ぎこちなく視線だけをメレトスへと向ける。ブルネットに映える赤い唇が弧を描いた。
「やっとこっちを見たわね、色男」
「いやいやいや、だってそれは」
それはない。言い切れるだけの確執があの子供と自分との間にはあって、好意も信頼も、或いはアルヴィンの作り上げた虚像に対するある種の情景にも似た念も一切、残ってなどいなかった。けれど、そうした一切の虚飾を取り去りかき集めた遺骸だけで今のアルヴィンとジュードは繋がっている。それすらも自分には過ぎたものだという自覚があるだけに、暴力的な熱に浮かされて衝動のままに手を伸ばされたことはあっても、そこに彼女の指摘するような優しい感情が伴っているのだとはとても思えなかった。
「いいから、話を聞きなさい」
「聞いてるよ。どうぞ続けて」
紅茶を手にして肩を竦めながら視線を逸らすと、隣からは盛大な溜め息が聞こえた。
「貴方はただの周旋屋[クルティエ]で、ここの娘たちと遊んだことはない、って教えてあげたら良いのよ」
「……信じねぇよ。それに言っただろ、優等生だって」
買うより売る方が悪い、とあの子供は言うだろう。ミラと同じ眼差しで、アルヴィンを責めるのだろう。
「それはそれで悪かねぇけど……もうちょい余裕がある時にお願いしたいねぇ」
「疲れているのね」
「そりゃあもう」
「ゆっくり休めば良かったのに」
「ほんとにな」
カップに唇を押し当てながらアルヴィンは言った。鼻を突く柑橘類の香りに、僅かだが頭痛が和らぐ。
「……おたくの思うような関係じゃないよ、俺とあいつは。ただ、大きな借りがあるんでね」
それを返すまでは、逃げずに彼らの傍に居ようと思っていた。見届けるまでは、彼らの助けになるのだと決めていた。
「借りなんて返したら終わりじゃない」優雅な所作でソーサーからカップを摘み、メレトスは言った。「大義名分を掲げてでも、傍に居たいと思っているのに、馬鹿ね」
女主人は囀る。頭が痛かった。目蓋が重い。大義名分掲げて縋って縛られて、動けなくなるのは得意なんだ。紅茶を啜りながらアルヴィンはぼそぼそと呟く。
「どうせ返すのなら、恩になさい」
甘く淫らな香りの漂う閉じた家にはいっそ不釣り合いな程、快活に笑ってメレトスは言った。だから違うんだって。アルヴィンは呻いた。けれど、もしも彼らがそれを許してくれるのなら或いは、彼女の言うように傍に居られたら良いな、と思った。
白く華奢な手のひらで包み込むようにジュードの手を取ると、赤毛の女は「また来てね、お医者さま」と言って綺麗に微笑んだ。左頬だけに浮かぶえくぼからぎこちなく視線を外し、彼女の手から解放されたのを見計らうとジュードは素早く後ずさった。その様子を、傍らにブルネットの女主人を伴ったアルヴィンが笑う。
「いいねぇ。反応が初々しいわ」
珍しく含みのない笑顔が余計に腹立たしい。腰を抱いた女主人の口付けを頬に受けて離れると、二言三言を交わしてアルヴィンはジュードへと近付いて来た。
「じゃ、帰るとしますか」
片目を瞑って陽気に彼は言った。ジュードは返事をせずに、赤毛の女の名前を呼んで手を振るとアルヴィンを置いて裏口へと向かう。背中にジュードの名を示す声が掛かったが、振り返らなかった。
外に出ると雨はすっかり止んでいて、千切れた雲が月の光に照らされて輪郭を浮き彫りにしていた。生温い風が頬を撫でる。ジュードはアルヴィンを待たずに濡れた石畳を踏みしめて歩き出した。ややあって、蝶番の軋む音が響きまた名前を呼ぶ声がした。だが、距離を詰めるつもりのない足音は穏やかだ。
「こらこら。歓楽街を一人で歩いちゃ危ないだろ?」
未成年なんだから、と男は続けた。ジュードは足を止める。空に煌々と浮かぶ鋭利な月は、ティポの目を思い起こさせた。毒気が抜かれる。
「最もらしいこと言ってるつもりかも知れないけど、全部上滑りしてるって気付いて」
肩越しに彼を見やって言う。だが、アルヴィンはあどけないとすら形容出来る無邪気な顔で「でも、楽しんだんだろ?」と言った。ジュードは頭を抱えた。
「どうしてわからないの?」
「何が?」
「だ、だから、その……」
言いよどむジュードの頭を抱えた手に、アルヴィンの手が触れた。顔を上げる。何が、と彼は繰り返した。声音は幼子をあやすように穏やかで、かれはこんな声も出せるのかと感心した。だが、続くはずの言葉は喉につっかえて出てこない。彼から漂う彼のものでないにおいに、目眩がする。
「楽しんだのは、アルヴィンの方じゃないか」
気が付いたら言葉にしていた。彼はというと、眉根を寄せるでもなくジュードの言葉を咀嚼するように黙り込んでいる。
努めて丁寧にアルヴィンの手を外しながら、ジュードは赤いガス灯に沈む落ち窪んだ眼孔を見据えた。
「だってそうでしょ?アルヴィンこそ、あの女の人とずっと二人きりで、こんな香水のにおいなんかさせて」
問い詰める。アルヴィンはゆっくりと瞬いて、けれどジュードから視線を外すことはなかった。思いがけず真っ直ぐと向けられる眼差しに、頬が熱くなる。やがて彼は少し困ったように笑いながら「馬鹿だな」と言ってジュードの頭をかき混ぜた。
「今回はお前の付き添い。それに、あそことは昔情報収集させてもらう代わりに周旋屋の真似事してただけのビジネスライクなお付き合いなわけで、青少年が期待するような色っぽい関係は一切なかったよ」
プレザも居たしな。付け加えてから、アルヴィンはジュードの髪を解放した。そな名残を辿るように、自身の髪にジュードは触れた。
「……嘘は、嫌だからね」
「こだわるねぇ」
前科者が笑う。
今一度、ジュードは上目遣いに男を見つめた。器用に片眉を上げて見せ、アルヴィンは首を傾ける。ジュードは奥歯を噛み締めながら俯いた。
「本当に、わからないの?」
先と同じ問いを、ジュードは繰り返した。
見つめる先の濡れた石畳は月光と赤いガス灯を照り返して、鈍く光っている。ただ、アルヴィンの陰の落ちたそこだけが、深い穴のようにぽっかりと昏く蠢いていた。視界から陰を追い出すように、ジュードは堅く目を閉じる。
「……アルヴィンと同じ。彼女とは、その……何もなかった」
それだけ告げると、いやに口の中が乾いていることに気が付いた。こんな時に限って、アルヴィンは何も言わない。だから俯くジュードには、彼の感情が読み取れなかった。観念して顔を上げようとしたジュードの肩に、漸く彼の大きな手が掛けられた頃には、彼の感情の行方どころか自分の感情の在処さえ判らなくなっていた。
ジュード、と低く平坦な声で名前を呼ばれる。目を開く代わりに、唇を強く噛み締めた。そこに、彼の手が触れる。
「血が出るぞ」
優しく言われて、泣きたくなった。顔を上げると、柔らかく微笑むアルヴィンと目が合った。
「大丈夫。緊張するとかえって勃たないもんだ。特に最初は」
だから気にするな。その意味を正しく理解するのにジュードは一拍程の時を有し、気が付けば慈悲深く微笑む男の横っ面を力の限り張り倒していた。流石に石畳に倒れ込むことはなかったが、それでも二歩三歩とよろめいた男は頬を抑えながらも堪えきれないといった様子で噴き出すと夜空に哄笑を響かせた。
「どうしてそうなるんだよ!ア、アルヴィンはいつもいつも、どうして!」
「ど、どうして、って、だって……」
腹を抱えて丸くなる背中をジュードは蹴り飛ばした。男は苦しそうに喘いでいる。
「普通に考えてよ!好きでもない相手と、そんなこと出来るわけないじゃないか!」
震える背中に言葉を浴びせかける。声は悲鳴のように裏返っていた。そして、言ってから色々な意味で後悔した。
息を調えるように、アルヴィンは深く呼吸を繰り返す。口元は手のひらに覆われていたが、笑みの形をしているのは判った。そこに、彼の真意が伴わないことも知れた。衝動的な笑みが引き、理性で作られた笑顔をジュードに向けながらアルヴィンはひとつ大きく息を吸った。
「……ジュード、お前はさ」
しゃがみ込んで、ジュードを見上げて、口を開いて、彼は、首を横に振った。
「いや。何て言うの?説得力ないよ、それ」
気安く、穏やかに笑って、アルヴィンは言った。彼は本当は何と言おうとしたのだろう。一瞬だけ我に返ったジュードの脳裏にそんな思いが過ぎるが、本当に一瞬で終わった。だってそうだろ、俺相手でも盛れるわけだし。朗らかに言って、アルヴィンはジュードにとどめをさした。その瞬間、足と心が同時に折れた。衣服が濡れるのも構わずジュードは石畳に膝を突くと、そのまま頭を抱えた。
「ちょっ、おい!どうした青少年?そんなにショックだったのか?……大丈夫だって。おたくが不能じゃねぇことは、不本意だが俺が身を以って知ってるさ。今回はほら、運が悪かったってだけだ。な?」
あやすように、背中を撫でる彼の手は優しかった。女の香水の残り香に混ざる、アルヴィンのにおいが近い。助け舟を出すかのようにまくし立てる彼の言葉の全てが、今はただ遠く、無為な音として鼓膜を震わせる。
言ってしまった。自覚へと到ってしまった。気が付かずに居られたなら、それはとても平和で幸せなことだっただろうに、と後悔ばかりが渦巻いた。だのに、ただ一度だけ、それでも一度、確かにジュードはこの男に手を伸ばした。かつて憧憬の念を抱き、信頼を寄せ、けれどそのことごとくを手酷く裏切った彼に欲情した。その情動が無惨に打ち捨てられた在りし日の感情に起因するものだとしたならば、確かにそこにはリマレンスという名前が付くのかも知れない。けれど同時に、その浮かれた感情は他でもない彼自身が惨たらしく引き金を引き、殺してしまった。その遺骸に、気が付いてしまった。
「……アルヴィン」
うなだれたまま、それでもジュードは彼の名を呼んだ。背中に触れていた手の動きは止まる。
「何だよ」
応えはすぐに返された。それだけに、迷う。けれど、膝の上で拳を固めて顔を上げる頃には、言うべきことは決まっていた。
上体を起こしたことで一度アルヴィンの手は背中から離れ、少しの間宙をさ迷った後ジュードの肩の上に落ち着いた。息遣いが聞こえそうな程の近い距離で、彼は真っ直ぐにジュードに眼差しを返してくる。キスが出来そうだな、とジュードは思った。
「……アルフレド・ヴィント・スヴェント、さん」
記憶の底を探り、ただ一度だけ聞いた韻を拾い上げる。声は情けなく震えていた。怒られるかも知れない。突き放されるかも知れない。ありとあらゆるネガティブな念が駆け巡った。
二度、三度と目の前の男は瞬く。それから、少し視線を泳がせて、結局眉値を寄せながら赤褐色の瞳にジュードを映した。
「は、はい?」
二度目の応えが返される。その瞳の奥に、ジュードは確かに死を視た。リマレンスの死だ。
逃がさぬよう、肩に置かれた手に自らの手を重ねて捉えながら口を開く。
「貴方が好きです」
祈りにも似た心地で、ジュードは言った。
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