04.29.03:44
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11.07.23:39
VINCA
懐かしい。
VINCA
書物にまみれた机の上を一掃する。派手な音をたてて落ちた本は若干の埃を舞い上げたが、彼は気にせず椅子を引き寄せて座った上で、机に組んだ足を乗せた。机を取り囲むようにして乱立する書棚と、シミの浮き出る天上を見上げる。時計の秒針だけが、静寂を許さずにいる。こうしている間にも時は間違いなく進み、ありとあらゆる意味で残された時が少ないのだという事を告げ、急かしている。
そこには、彼以外の何者も存在しなかった。それは大変不幸な事であり、また心身は既に孤独に苛まれて久しい。しかしその不幸も孤独も自覚して尚、哀しみに暮れるには至らぬのであった。同じくらいに肥大した狂気とも言うべき衝動が、その全てを払拭する。その衝動は、半ば強制的にー意図的に自身に植え付けたものであったが予想外に上手くいった。不幸も孤独も、愉悦であるように感じられた。その程度には、彼は狂っていた。ただ時折、気まぐれに酷く辛い気持ちになるのは同時に完全に正気を失ったわけではないという事を痛切に彼に知らしめ、それだけが煩わしい。
確実に、殺してしまえれば良かった。それが出来ないのだと知っても尚、不確か曖昧極まりない不完全な彼に頼る弟が憎くて堪らなかった。何故そうも簡単に自身を投げ出してしまえるのか、その疑問ばかりが頭の片隅を占めている。浅はかな弟は考えもしない。彼に残されたものが、決してそう多くはない事を少しも考えはしない。弟達と同じ程に、その多くは既に失われているー弟達の場合は最初から持たないのだから尚辛いのかも知れない。これ以上、何も失いたくはないという思いにばかり駆られる。同じくらい、何も失わせてなるものか、とも思う。
滅入る気分に見切りをつけ、外套を片手に部屋を出る。思えば昼食もまだだ。自室以上に埃の積もっているであろう台所の扉は固く閉ざされたまま、食事を作る者もいなければ、食事を作ってやる誰かもいない。昨日の晩腹に入れた物を思い出しながら、灰の降りしきる中を歩く。その隣に並んで歩く人影がない事に、彼は未だに慣れる事は出来なかったが、逆に一人でいる事は酷く当たり前で自然な事であるように思えた。
寂れた宿は旅客だけでは経営がままならないのか、最近は酒場の真似事をして付近の住人にも酒と食事の場を提供している。ただ、元々の治安の悪さも手伝ってーそうでなくても誰もこんな灰の中をわざわざ外に出てまで食事をしようとは思わないのだから、繁盛とは程遠いのが現状のようだった。常連の客を喜ぶでもなく、また来たのか、と胡散臭そうな一瞥が店の中年女から向けられる。彼は元々必要最低限の愛想すら持ち合わせていなかったので、そのまま言葉を交わすこともなく空いている席に腰を下ろした。胃の方はとても食事を受け付けられるような状態ではなかったが、皺寄せを恐れて何でも良いので詰め込んでおく事にした。メニューを見るのも煩わしく、弟に散々口煩く言われていた栄養の偏りとやらも無視して、結局昨晩と同じものを頼んだ。
暫くして運ばれてきた野菜屑のスープには、昨日食べた時にはなかった肉が何切れか浮いていた。視線だけで女に問うと厚ぼったい唇から、サービスだよ、と素っ気無く告げられた。それから、その代わりお客さんの知り合いにも宣伝しとくれ、と付け加えて去って行った。肉の浮かんだ野菜屑のスープと共に残された彼はなけなしの食欲に加え、投げ遣りな気分にも似た脱力感に襲われたが、結局スプーンを手に取った。髪が落ちかからないよう利き手ではない方の手で抑えながら髪紐を持って来なかった事を後悔した。それから、昨日も全く同じ事を考えながらスープを啜っていた事を思い出した。薄い肉は紙切れのような歯応えで、ろくに咀嚼もせずに合成酒の入った杯を呷って流し込んだ。喉を通るその感触が、認識を伴うと吐き気がする事を知っていたので、そのまま残りのスープに集中した。
大方を片付けて顔を上げると他のテーブルに着いている二人連れの男の内、一人と目が合った。暫く男は彼を注視していたが、白い毛の所々混じる髭の中に差し込んだアルコールの入ったコップを取り落としそうになるのを連れに指摘され慌てて持ち直した。耳に入って来ていた話の内容から察するに、配偶者に対する愚痴の言い合いだけのようだったので、特に危険も感じずにいたが男のその不審な態度に眉をひそめる。しかしそのまま男を見つめているワケにもいかず視線を逸らしながらも暫く様子を見ることにした。
「-…で、聞いたか?」
相手方の老人が、男に話を振る。興味などまるでない素振りで、彼は空になった杯の半分くらいのところまでアルコールを注いだ。
「今度はまだほんの小さな赤子だって話だ」
また腹を切り裂かれ掻き混ぜられた上で、矢張り心臓だけが持ち去られていたらしい、と悲愴な面持ちで老人が言うのを男は黙って聞いているようだった。彼はアルコールを一気に煽ると、手にした空の杯を手の中で玩びながら続く言葉を待った。心臓は見つからないのか、男が言う。見つかるわけがない。彼は胸中でそう答えた。それから、二人連れに対しての警戒を解いた。
引き裂かれ、心臓を抉られる全ての人々は性別年齢を問わず彼の弟達だった。それは悪夢の再来であり、あるべき終わりへと向かい、止まっていた時が動き出したという何よりの証だった。
帰路に着く頃には厚い雲に覆われた空が薄らぼんやりと明らんでいた。珍しく灰の降らない道を、フードを退けて歩いた。
図体ばかり大きな幼い弟は通い慣れた道すらも外れ、よく逸れた。その度に彼は大声を張り上げて呼ぶべき名を持たない弟を呼んで探した。弟がいなくなる度、弟を呼ぼうと口を開く度、その名を持たない事を辛く感じるのだった。度重なると、とうとう彼は弟の手をひいて歩くようになった。最初は恥ずかしがっていた弟も、終いには自分なりに納得をしたのかー無駄な抵抗だと思い知ったのか大人しく手をひかれるようになった。
六年前、災厄が起きて、彼は弟達と共にその渦中にあった。大人達は競うように生き急ぎ、彼らだけを残していった。残された子供達は寄り添うように生きていた。
弟達は歳の割に聡明で聞き分けがよく、生活をする上で彼の足を引っ張る事は決してなかった。弟達は彼を拠り所とし、また彼も弟達に慰められた。世界は混乱し、荒廃し、彼らの生活はとても楽とは言い難かったが、幸い、彼は養母から薬の扱いの手解きを受けていた為、薬師の真似事をしながら何とか弟達を養う事が出来ていた。機関から声が掛かる事も少なくなかったが、身元が割れる事と、何より弟達と引き離される事を思うと首を縦に振れなかった。それでも、先の事など少しも解かりはしなかったが不安はなかった。それ以上に今日という日を生き抜いていくことに精一杯だったからだ。そしてそれで構わなかった。
その積み重ねとも言える日々が終わりを告げたのは四年前の事だった。弟の一人が忽然と姿を消し、彼は残されたもう一人の弟と二人きりになった。仕事の片手間にも随分と探した。弟を寝かしつけてから、一人探しに行く夜もあった。それでも、消えた弟は見つからなかった。諦めろ、と警告する声が幾度となく内より響き、その度にそれを否定した。彼にはもう、弟達を庇護する以外に、己を保つ術がなかったからだ。誰かがいなくなる度に、自身が損なわれていく気がした。これはお前の罪なのだ、と無くした器官に囁く声がする。灰が降り始め、それが病を伴うと世間で騒がれはじめてからも、彼は弟を探す事をやめなかった。けれど、残された方の弟がそれを許さなかった。結局、拝み倒すように弟に押し切られ、彼の捜索は終わった。
それからは、本当に互いが互いこそを拠り所とし生きてきたように思う。残された弟はそれでも明るさを失わず、彼を慰めた。狂い始めた人も、世界も、何処か自分達とは遠い国の出来事のように、二人は埋めようのない喪失を何とか誤魔化しながら生きていた。灰と並び、世間を騒がせる聖霊も連続殺人も、符合の一致に気付きながら耳を塞ぎ目を閉じた。それを、何故弟が許さなかったのか、それは今でも解からない。ただ、見透かすように弟は彼に死刑宣告をしたのだった。弟は、彼から最後の寄す処を奪い去ろうとしている。そして、そうと知りながらも弟の言葉を承諾したのも、また彼だった。明るく聡明な弟の、凝り固まった暗い闇のような部分に、その願望は起因しているのだろうと思った。
弟が、弟達が何を望み何処へ行こうとしているのか、彼は何となく解かっていた。けれどそれは憶測の域を出ず、だからと言ってどうして自分が弟達の絶望を、和らげてやる事が出来るのか、彼には判らない。弟は己の願望に殉じ、彼に絶望の言葉を投げ付け、逃れられぬ因果を突きつけた。彼はそれを甘受する事に決めた。
そして、もう一人の弟も行方を晦まし、彼はとうとう一人になった。
待つ者のいない家には当然ながら灯りもなく、ささくれ立った床に窓からの光が差し込み陰を落としている。そのまま寝台へ向かい、擦り切れたシーツを捲り潜り込む。灰に塗れた靴を脱いで放ると、眠りに落ちるまではそう時間が掛からなかった。また服を着たままだとか、見えなくても太陽が昇る頃に寝るなだとか、そんな弟の小言が聞こえて来ないのを、自分は寂しいとは思わないのだろうか、とぼんやり思った。
どんなに疲れていても子供の泣き声で目が覚めるのは、長年の習慣だろう。起きてから、介入してきた騒音と起きてしまった自分自身を罵る。窓からは心許ない朝の光が差し込んでいる。寝台に潜ってから大して時間は経っていない。灰も已んだ今、子供が外へ出て遊びたがるのも無理はない。親がそれを許すのも仕方がない。けれど安眠を妨げるのだけは我慢ならない。そうは言ってもわざわざ外へ出て行くだけの気力もなく、横たえた身体を窓から少しでも離し背を向けることでしか抵抗らしい抵抗は出来なかった。
一向に泣き止む気配を見せないその騒音に気をとられ、再度の眠りにつくことは叶わない。口の端に罵り言葉を乗せると、少しだけ逆立った気持ちが落ち着いた気がしたが、矢張り気がしただけだった。
親はどうしたのだ、と毒づく。親でなくてもいい、保護者は何処にいる。
泣いている子供の声と、眠気から拡散した意識の中で、頭にはそればかりが渦を巻き、その悪循環は眠りとは程遠いところへ彼を連れて行こうとしていた。それでも、怒りにも似た何かが、言葉を紡ぐのを止められない。自分ならばあんな風に弟を放っておく事などしないのに、と。あんな風に、一人きりで泣かせたりはしない。それから、ふと思い立つ。弟が彼の前で泣いた事など、ただの一度たりともなかったのだ。怒りも哀しみも憤りも押し込めて、弟はただ傍らで笑っていた。その事実に彼は愕然とした。まだ、ほんの小さな子供なのだったという事を、意識しているようでいて忘れていた。本当は外で泣いているあの子供と、大して変らないのだった。
彼はきつく目を閉じた。外に通じる全ての情報を遮断した。
夢を見た。養母の夢だ。懐かしい家で彼は養母に字の書き取りを教わっている。飲み込みが早いわね、と養母が嬉しそうに笑いながら頭を撫でてくれるのが好きだった。本当は、まるで最初から全て頭の中に在るようではあったのだけれど、養母があまりに無邪気に喜ぶものだから、とうとう真実を告げる事は出来なかった。それを、養母もきっと何処かで解かっていたのだろう。この身体が欠陥だらけの出来損ないだと知り、何となくそれを悟った。それでも、養母の愛情は本物だったと思うし、撫でてくれた手の温もりにも、彼女と過ごした十二年の月日にも、何一つ偽りが付け入る隙はない。
そしてきっと、同じものが確かに彼と弟達との間にもあった。だからこそ思う。どんな事があっても、弟達を一人にするべきではなかった。
まだ日の高い内に彼の目は覚めた。三度目の眠りにつく事はせずに、寝台を抜け出す。水瓶に溜まった水を一口飲んで、それから書庫へ向かった。一冊の本を手に取る。挿絵のない面白みに欠ける字の羅列に目的のものを見つけ、頁を捲る手を止めた。古い占いの、呪術の本。生体より臓腑を引きずり出す禁呪。最初に消えた弟が手にし、読んでいた本だ。それは、予定調和だった。理解し、納得した上で、彼と残された弟はそれを捻じ曲げようとしている。そこに残された弟の、どんな望みがあったとしても、深くは詮索しないでおこうと思う。同じように、先に消えた弟の仕組む予定調和にも出来る事なら手を触れたくはなかった。
足元に無造作に置かれた荷物を拾い、彼は家を出た。鍵はかけなかった。
今日に決めていた。弟が消えてから既に一週間が過ぎている。無闇に探す事はせず、彼は待っていた。けれど弟は帰らなかった。逃げ出したのかもしれないー彼に付き付けた絶望に弟自身耐え切れず逃げ出したのかも知れない。それを、人は弱さと言うのだろう。その弱さを、彼はとても心地の良いものだと思った。
逃げても、逃げても、逃げても、約束は果たされるべきなのだろう。最初の誓いを彼は忘れない。
遠く彼方に陽を掲げる空の下を彼は歩いた。弟を見つけ出す為に、その手段も方法も既に手の内にある。
彼は弟達を愛していた。そのどちらともを言えない。
弟を見つけたら、なるべく苦しませないよう楽に殺してやろう、彼は祈るような気持ちでそう思った。
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