04.29.04:05
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09.29.12:33
LYCORIS
仄蒼く沈んだ世界に、その男は影を落とす。
首の後ろの毛が逆立つ。失った記憶が鳴らすのは警鐘でなく鼓動だ。昏い色をした双眸が緩やかに細められ彼を捉えた。気だるそうに小首を傾け、鼻を鳴らす。
「約束したからな」
男が言った。男の手に短剣が煌めき、迫って来たところで漸く事態を把握した。
LYCORIS
弟が消えた。
最初は、彼はたった独り孤独な存在だった。やがて、孤独な人々が集い彼は独りでなくなった。皆、各々孤独ではあったが、それでも一人ではなくなった。それでも、皆でいたのが三人になり、弟が消えて二人になった。そして、また独りになるのにそう大した時間は掛からなかった。
兄は弟と彼を養う為、日中に薬師の真似事をして収入を得ていた。何処で覚えたのか兄の調薬の腕は評判が良く、彼ら兄弟が日々を食い繋ぐのに困る事は無かった――それこそ、あの兄ならば追剥をしてでも何かしら手に入れて来ただろう、と今になって思う。弟が消えても彼の生活はあまり変らなかったが、兄の生活は大きく変った。だからだ。
彼の世界は毎日の殆どが、家と兄の仕事場との往復で完結していた。あまり出歩くな、とも言われていたので弟がいた頃は毎日じゃんけんをして、どちらが兄の仕事場に行くかを決めていた。兄は夕方には帰ってきて、簡素だが暖かい食事を三人でした。食事の用意は殆ど弟がこなし、代わりに彼は家の中を片付ける事に専念した――驚くべき事に、兄と弟は揃いも揃ってこの手の仕事には全くといっていいほど期待できない。
弟が消えて変ったのは、家事全般が全て彼に回ってきたという、ただそれだけだった。相変わらず兄は朝に起き仕事場へ行く。昼頃に食事を届けても、仕事の片手間に本を読んでいる。そして夕方には帰ってきて、共に食卓を囲むのだった。そうして、明日の準備をしている兄に声を掛けて眠りにつく。彼の生活も、彼の生活の範疇の中の兄も、弟がいなくなる以前とあまり変らない。ただ、夜中にふとした物音で目が覚めたとき、不安に駆られる彼を慰めてくれる手はなかった。その理由はすぐに知れた。彼が寝付いたのを確かめて、兄は弟を探しに行っていた。
彼は気付かないふりをした。弟が心配なのは彼も同じだった。けれど彼は見た目以上に非力な子供で、その事をよく理解していた。兄を手伝うどころか、逆に足を引っ張るのが関の山だ。そう言い聞かせる。兄が彼に何も言わないのなら、彼は気付かないフリをしよう。そうでなくても、彼はどうしたら良いのか判らなかった。自身の抱く、その矛盾した、何処までも保身に走ろうとする焦燥感を持て余していた。兄も弟も同じくらい愛しいのに、同じくらいどちらも憎くてたまらなかった。
兄を止めたかった。弟など見つからなければいい。そうすれば兄の関心は彼だけのものだ。けれど、弟が見つかれば良いと思う。弟が、見つからなくてはいけない。弟の存在は絶対だ。
打算ばかりが独りの夜を支配する。行き着く結論はいつも、何も言わない兄だった。それを良い事に、彼もまた次第に考えるのをやめた。触れなければ良い、そう思った。嫌われたくなかった。そうでなくても、弟に縋る以外彼は兄との繫がりを持てずにいたからだ。――そう、思っていた。否、今もそう思っていることには変わりない。ただ、狂気には似合いの幕引きだとでも嘲るように、空から灰が降った。人が死ぬ。病で、或いは食い殺されて人が死んでいく。肉が狂い、精神が死に、死は肉に属し、狂気は精神に宿る。彼もまたその何かに取り憑かれたように、兄に縋った。もう、弟を探してくれるなと咽び泣いた。その時の己が正気の沙汰であったとは、彼は思わない。世界が壊死していくのと同じに、自身の精神(のようなもの)もまた侵され始めていたのかも知れない。
兄には無く、弟と彼には備わっていた不幸が警告をした。その時になって漸く、その意図に気付いたというのもまた愚かな話ではあったが、故に彼は自身の存在を永遠へと昇華する術を思うに至った。その不幸は他の誰でもない、兄の中で自身の存在を永遠にする。確かに縋る縁もなく、ただ空ろでしかない彼にとってはそれは恐怖を伴いはしたものの、確かに希望でもあった。
喚べば、あの男は何時であろうと彼の声に応えた。灯りの燈らぬ部屋の片隅、明るむ前の地平――いつも男は闇と影とを背負い昏がりから顔を覗かせる。兄には、会うな、とだけ言われている、あの男が笑う。
「やあ子供、大きくなった」
「――寄越せ」
彼は笑む。道化師を模した闇はその言葉に驚き、瞬き、それから少し困ったような顔をして、いいよ、と言った。
その残り香に、兄は眉を顰めた。彼は机の上に無造作に転がしたままの を得意気に指差して見せた。窓から差し込む曖昧な薄光が鈍く を煌めかせた。
「言ったらくれた。……壊したい」
そして は神性と同質であるが故に「神殺し」の力を以てして破壊が可能だということを彼はよく知っていた。
神性は自己保存を何よりも優先する。核は、人の結晶のようなものだ。人の結晶が核のようなものだと言っても良い。概念を体現する本質の結晶は、外部からの介入から遠ざかる性質が在る。特にそこに純然たる宿主の意志もなく、その介入が破壊を目的としたものならば尚の事強い力が働く。だが、それは然したる問題ではない。そこに留めると言う宿主の意志が働けば、何の問題もなくなる。そうなれば後は外部からの介入――「神殺し」だ。
兄は頭の良い男だ。先の彼の言葉で、意図するところは汲み取ってくてたのだろう。その上で顰め面をして、不機嫌そうに見下ろしてくる。こんなにも素晴らしく二つの条件が揃っているのに、兄の顔は晴れない。そしてそんな兄の心境とは裏腹に、彼の顔はその心と同じく晴れ晴れとしていた。
結局、その日兄から明確な返答はなかった。会話もなく食事をし、後片付けを終える頃には兄は自室に籠もった。今兄の頭の中は彼の(言った)ことで支配されている。きっと、居なくなった弟のことだって、今の兄の頭には無い。馬鹿げた嫉妬だと解かっている。弟を喪えば、彼は兄を兄と呼ぶことすら出来なくなる。だがこの方法なら永遠に――そう、例えばかつてあの男が彼にそうしたように、兄が彼を棄てることはなくなるのだ。そして、兄は応える。彼の提案に美しい顔を苦痛に歪めたまま応えるのだろう。恐ろしさを感じないでなかったが、無知であるという幼さにこの時ばかりは感謝する。或いは、幼さを演ずることに没頭する。半端で中途な未完の神性を内包してはいても、それをいつまでも言い訳にし続けるわけにはいかないのだと言うことを、彼はおぼろげながらに理解していた。
日に日に、兄はあの男に似てくる。髪は長く、若くは在ったが、それでもあの男と同じ遺伝子を感じさせる。弟にも、同じものが感ぜられる。そうしてあの男は彼を棄て、弟は去った。厭な符号の一致ばかりが続く。そして、最後には兄が彼を棄てる。兄の意志に関係なく、欠いた神性が――或いは過分に備わった神性が、兄だか彼だかを置き去りに、永遠に袂を別つ。
なれば、置き去り手放すのは己であるが良い。然うして、彼の中では永遠に保たれ、兄の中では永遠に別たれることを望む。
「お前を殺そうか」
次の日、珍しく兄の方が早くに机に着いていて、天井に焦点を向けたまま言った。嵌め殺しになった窓枠の外に、粒子状の灰が溜まっているのを見遣りながら、彼は食卓に並べる料理の構想を練った。
「仕事は?」
「行くよ……行く」熱に浮かされたように、兄が言う。
いつからここに居たのだろう、思って已めた。
長めの前髪が、解れて顔に落ち掛かっている。唇が乾いて罅割れていて、血の気の無い表情は更に顔色を欠いて死人めいている。普段青白いほどであるというのに、今では光源がないことも手伝って土気色をしている。
「飯、作るけど」
言っても返事は返らなかった。溜息を一つ残して台所に向かうと、背中に声が掛かる。
「肉は嫌だ」
頑なな相変わらずの主張に苦笑する。その主張の理由を、彼は知らない。本当は何一つ、兄のことを知らずにいる。
机の上に食事を並べ始めても、兄は相変わらず天井の一点を凝視したままでいた。兄が家事全般に関わらないのはいつものことなので、気にしないふりをしながら、料理を並べる。最後に飲み物を淹れて席に着くと、いただきます、と言って兄は徐に箸を動かし始めた。昨日の会話も、開口一番に発したあの物騒な台詞もまるでなかったかのような、いつもどおりの兄だった。このまま、無かったことにされるんじゃないだろうか――不穏な思いが胸の内を占める。
「食わないのか」
「食べるよ……」
促されるようなかたちで箸を持つ。兄が何を考えているのか解からない。
結局、兄はそのまま仕事に行った。そうして帰ってきてから不意に思い出したように、お前を殺そうか、と少し悪戯っぽく言った。言葉の意味というより真意を計り兼ねて困惑していると、兄は笑った。
「まあ、あの男らしいと言えばあの男らしいな……手の込んだ嫌がらせだ。良い様に使われやがって」
「そんな風に言ったって無駄だ」
「だろうな。それにこの場合、文句を言う相手が違うしな……あの馬鹿が焚き付けたにせよ、最終的にはお前が自分で考えて選んだこと、なんだろう」
兄の物言いが小馬鹿にしているように感じられ、眉を顰めた。すると兄は益々笑みを深くした。それが不可解で不愉快で、けれどその意図を感情を汲み取られてはなるものか、と躍起になる。結局、埋める事の出来ない溝と笑みとで、彼は口を噤むしかなかった。
「甘えるなよ」笑みを顰め、平坦な声で兄は言った。「選んだからには、その言葉に責任を持て」
そんなことは言われるまでもなく判っている――言おうとして、言葉が続かなかった。
「判った……」
「そっか。じゃ、約束な」
彼が思った通りに、兄は美しい顔を歪めながらも提案に応じた。だが表情は忌々しいというよりは、自嘲が色濃く浮かんでいる。そんな顔をさせたいわけではなかったのに、そんな思いが胸を掠めても撤回する言葉を持たない。
愚かだったのだ、と思う。
一ヶ月、未だ定着しない。
一昨日から出た高熱は幾分下がってきて調子が良い。これなら食事の用意くらいは出来るかも知れない。寝台の上で、彼は緩慢な動作で寝返りを打つ。頭に巻いた包帯が縒れて、額に激痛が走った。
一ヶ月、未だ定着しない。
兄は額に埋め込まれた を見て、どっかの馬鹿王子を思い出すなー、などと笑って言った。それから、あいつみたいに縫い合わせるか、とも言っていた。兄の軽口に、それは冗談キツイって、と彼も笑いながら応えた。彼は何も言わない。兄が何も変らないからだ。
そのことを残念に思いながら、心底安堵しているという矛盾。
一ヶ月、未だ定着しない。
横になっていると頭の痛みが増すようで、彼は結局上体を起こした。すると、階下で何か物音がした。兄が帰るにはまだ早い。彼は寝台を降りると脇に立てかけた野太刀を掴み、傾いた階段を駆け下りた。倒壊した足元を注意深く歩きながら扉を目指す。扉は固く閉ざされて、開いた形跡はない。風の音だったのだろうか、と彼が思い始めたその頃に明確な意図を持って二度、扉は叩かれた。彼に気取らせない程に殺された、扉の向こうに居る人物の気配に戦慄する。
「誰、だ……」
額が痛む。じくりじくり、とまるで傷口から蟲が入り込み、頭蓋を食い破って行くような感触だ。
扉の向こうの、気配がほんの少し変化する。笑っている。
「ッ誰だっつってんだろテメェ!」
抜刀し、扉を蹴破ろうと彼は踏み出した。だが、彼が扉に辿り着くよりも早く扉は開かれた。外側から、何の苦もなく扉は開かれて、そこに立つ人物の面影に、彼は。
一ヶ月、未だ定着しない。
空から降る灰と、足元で舞い上がる灰との狭間を彼は走る。気管に入り、それに時折噎せながら、それでも彼は走った。限りなく白色とも言える青みを帯びた灰色の視界の向こうに翻る、黒い背中を追い駆ける。
頭が痛い。額が疼く。頭が酷く痛んだ。眩暈と吐き気が伴って、足が縺れて転びそうになる。その度に、前を行く人影は彼の様子を窺うように歩幅を緩める。
「して……」整わない息と息の間、それでも彼は言葉を紡いだ。「どうして逃げる!」
名前を呼ぼうとして、それ以上言葉が続かないことを歯痒く思う。昔、兄も同じようなことを言っていた気がする。頭が痛くて、歯痒くて、この世には彼の思い通りになるものは何一つない。
とうとう膝が笑い出して、それ以上走り続けることが叶わないのだと知ると、潔く立ち止まった。どうせ何一つ届き掴めやしないのだと、諦めにも似た心地で膝を着いた。俯いた彼の頭上が陰る。汗で張り付く前髪を鬱陶しく感じながら、それでも顔を上げたその先に、兄とまるで同質の遺伝子を感じさせる少年が闇を纏い立っていた。貼り付けた笑顔まで酷く似通っていて、頭痛や眩暈が退くのと同じに、血の気まで退いた。
何故、今、この少年が自分の目の前に現われるに至ったのか、思考に霞が掛かったように何も理解出来ない。
一ヶ月、未だ定着しない。
「久しぶり……兄さん」
少年の言葉に応えるように、額がまた酷く痛んだ。
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