04.29.04:07
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09.29.12:35
No title
無題 No title
20061026banana
「誰にも言わないで下さいね」
今にも消え入りそうなか細い声で告げると、少女はシンハの前から逃げるようにして走り去って行った。走り去る少女の暗い茶色をした長い髪が翻るのを呆然と見送りながら、混乱したままの頭で考える。
少女の名前は知らない。多分、初めて会う。年齢はシンハより下に見えた。学年も違う、性別も違う、シンハと少女との間には何一つ接点はない。
そこまで考えてから二ヶ月前の転入生の話を思い出した。銀色の髪(恐らく聖人の血が混ざっているのだろう)に澄んだ湖のような青い眼をした、線の細い少年だった。騒ぐ女子達よりも余程美少女めいた容姿に、輝かんばかりの笑顔がやたらと印象に残ってはいたがそれだけだった。二ヶ月経った今も相変わらず数人の女子に囲まれ、話をしたこともない。一度それをやっかんだクラスメイトが彼に喧嘩を吹っ掛けていったこともあったが、殴り掛かった瞬間に腕一本取られてその場で回されていた。以来、彼の周りからは益々男子は遠ざかった。今にしてみれば喧嘩を吹っ掛けた男子に対しても殴るよう仕向けるような言葉運びをしていたし、あれは彼なりのデモンストレーションだったのかも知れない。勿論、そんな理由で大勢の前で引っ繰り返された男子には同情せざるえない。
そんな転入生が自己紹介のときに言っていた言葉を思い出す。そうだ、妹が居ると言っていた。
謎の少女の素性を思い当たったことに取り敢えず安堵の息を吐く。
少女は誰にも言うな、と言っていた。それならシンハがこれ以上この場に留まる意味も、たった今二人で駆け抜けた廊下を引き返す意味もないのだろう。
一度だけ、廊下を振り返る。窓から傾いた陽の光が差し込んでいる。追い掛けて来る者は誰も居ない。帰ろう、そう頭の中で呟いてシンハは学校を後にした。
見れば見るほど似ていない兄妹だな、と思った。
次の日学校に着いて(恐らく)彼女の兄を遠巻きに眺めながらそんな感想を抱く。
彼女のことはなるべく考えないようにしていた。少女のことを思い出すと、そのまま出会うことになったきっかけや、彼女が誰にも言うな、と言ったもののことまで思い出してしまうからだ。
そんなことを考えていると彼女の兄と目が合う。ああ、ずっとそっちを見ながら考えごとをしていたから、と思いゆっくりと瞬きをした後視線を逸らした。
休み時間、彼女の兄が珍しく一人で居た。
「一人なんて珍しいな」
「一人で居た方が、声が掛け易いかと思ってね」
女子が敬愛して止まない、極上の微笑みで彼は言った。シンハの中で二ヶ月前の騒ぎがデモンストレーションである線が益々濃厚になった。
「見てただろ、今朝」
「ああ、見てたな」
「何か話したいことでもあるのかなぁ、って」
あの廊下で、少女に会った。昨日は一瞬過ぎて髪が長いことしか印象に残らなかった少女は、浅い緑色の双眸でシンハを見止めた。兄のような誰もが振り返る美貌の持ち主ではなかったが、派手さののない整った顔立ちをしていた。服装は昨日と同じ、同世代の少女らしからない黒のレーザージャケットに黒のタートルネック、そしてジーンズにブーツといった出で立ちだった。だが、昨日の姿と違って衣服は乱れていない。
何と声を掛けて良いのか分からず逡巡していると、少女が口を開いた。
「こんにちは」
抑揚のない、呟くような声だった。
「こ、こんにちは……」
言葉を返すと、沈黙が流れた。平坦な声と同じに感情のこもらない表情で少女は見つめてくるだけだ。傍から見る人間にしてみれば間抜け以外の何者でもないに違いない。
「アーシェ!」
どれくらいそうしていたか分からない。二人の間に流れる沈黙を破る声がした。振り返って、ああ矢張り彼の妹だったのだ、と確信した。
「あれ、シンハ、だよね……アーシェ、シンハのこと知ってるの?」
「全く」
間一髪居れずアーシェと呼ばれた少女は言った。
「!まさか、アーシェのあまりの可愛さに変なことしようとしたとか……」
「するか」
「なっ……シンハ、君アーシェが可愛くないって言うのか!」
「言ってねぇ!ってかウザイ!お前ウザイ!!」
「ああどうしよう、やっぱこんな学校だなんて不特定多数の男女が入り乱れる空間にアーシェを連れてくるべきじゃなかったんだ!今日にでもアシラちゃんと親父殿に話して、アーシェにはきちんと家庭教師をつけて……」
「聞けよ人の話!」
「うるさい黙れ……アーシェに何かあってみろ、生爪剥いで尿道に突っ込んでやる」
取り敢えず黙った。
呪詛のように独り言を呟き続ける同級生から目を逸らすと、当事者でもある彼の妹が視界に入った。無感動な目で少年を見つめている。
(何か話したいことでもあるのかなぁ、って)
(別に、何も)
(誰にも言わないで下さいね)
もし、彼が昨日彼女の身に起きたことを知ったらどう思うのだろう。
彼女の言葉を最初に聞いたとき、そういった事情が話せないような劣悪な家庭環境に在るのだと思った。ワリとそういった家族は少なくない。政府が打ち立てた政策の所為で親は子供を放棄することが出来なくなったし、子供の居ない家は半ば強制的に孤児を押し付けられる。家族仲こそ悪くはないが、現にシンハも両親と血の繋がりはない。
だが彼のこの様子を見ていてもその線は薄そうだ。
「すみません。これが始まると暫らく勝手に喋っているとは思いますが、そっとしておけばその内落ち着きますので」
シンハの視線に気付いたらしく、矢張り感情のこもらない声で少女は言った。
「はぁ」
別にこの場から立ち去っても問題ないような気がしてきた。女子が聞いたら気絶しそうな口汚い罵りを繰り返す彼を眺めながら思った。すると、少女の視線が相変わらず自分に注がれていることに気付き、視線を戻す。
「アッシェンブレーデル」
何の呪文だろう。そういえば少し前にも似たようなことを思った。
「名前です、私の」
「あ……ああ、名前……名前か」
そういえば彼女の兄の名前を聞いた時にも、同じことを思ったのだった。
「ありがとうございました」
「何が」
「昨日のこと、言わないでいてくれたのですね」
感情のこもらない口ぶりではあったが、その時初めて少女の顔に表情らしい表情が浮かんだのをシンハは見逃さなかった。それはすぐに掻き消えてしまったが、矢張り彼の妹だと思った。控え目だが挑戦的に薄い唇は弧を描いていた。
彼ら兄妹との出会いはこんな感じで、後に更にもう一人の兄と出会い……シンハが一人ではとてもツッコミきれないことに気付くのはもう少し後の話。
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