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  • 05/14/17:29

03.04.09:03

ALFRED

 頭上には、幾つもの星が瞬いていた。辺りは暗かったが、夜ではなかった。夜ではなかったが、街は輝く夜の名を冠していた。人通りは少なくはなく、アルヴィンはその隙間を縫うようにして街の東へと急いだ。
 途中、髪を揺らす潮風に歩みを緩めたが、それも一瞬のことだった。海停で船を待つ、その時間すら惜しい。恐らく、アルヴィンの行動に彼らが気付くまでそう多く時を要することはないだろう。或いは、既に気が付いているかも知れない。腕の中の小さな重みを抱き直して、アルヴィンは一層東へと歩を速めた。
 最初は、行方と様子とを探るそれだけが目的だった。故郷から遠く離れたこの地において、叔父の命令は絶対だった。その叔父がアルヴィンに、ジルニトラに乗り合わせたエレンピオス人の集落から姿を消した同郷の医師の捜索を命じたのは変節風の吹く少し前のことだ。調べによると医師ーーディラック・マティスは「マクスウェル」による集落襲撃を経てアルヴィンの属するアルクノアから姿を消した後、リーゼ・マクシア南方の大国ラ・シュガルの首都でこの世界の医療技術を学んでいるのだということが知れた。そうして訪れたイル・ファンでアルヴィンは事前に調べていたディラックの住居へと向かい、そこで一人の女性に会った。長く黒い艶やかな髪の美しい彼女の名はエリン・マティスといい、ディラックの妻であることをつり上がり気味の目尻を微かに下げながら教えてくれた。それでアルヴィンは得心がいった。彼はこのリーゼ・マクシア人と出会い、故郷を捨てる覚悟を決めた。そういうことなのだろう。だからこそ、アルクノアの過激な活動と何より、故郷への未練を断ち切る為にディラックは姿を消した。そんなことは、十一の子供でしかないアルヴィンにも容易に察することが出来た。それだけに、取り繕うことも忘れてただ狼狽した。母のことを思い出したからだ。
「君、大丈夫?」
 リーゼ・マクシア人の女は、急に黙り込んだ不審な子供の顔を心底案じている様子で覗き込んできた。一瞬、仄かに漂う甘く懐かしいようなにおいに、胸を鷲掴みにされたような気がした。
「ごめんなさいね。せっかく訪ねて来てくれたのに、夫はまだ……あら?」
 アルヴィンの顔を覗き込んでいた女が、不意に顔を上げた。つられるようにして、アルヴィンも肩越しに彼女の視線を追った。そこで、目が合う。血の気の失せた男の眼孔は落ち窪み、それでも確かにそこには驚愕と憎悪とをない交ぜにした感情を浮かべて、強く、アルヴィンを睨み付けていた。集落において接点も面識も無いに等しいアルヴィンを、けれど彼は一目で目の前の子供が招かれざるかつての同胞であることを見抜いた。
「ここで、何をしている」
 低く、唸るような声で男は言った。落ち掛かったブラウンの髪の間から、憤怒を宿す眼差しでアルヴィンを射抜いてくる。ジルニトラに居た頃の遠目にも分かる存在の稀薄さは最早見る影もなかった。そこに居るのはただ、今の自分の生活と家族とを守ろうとする男だった。適う筈がない。アルヴィンは思った。
「ここで、何をしているのかと訊いている」
 言いながら、男の手が伸びてきた。アルヴィンは身体を強ばらせる。捕まるわけにはいかない。頭では解っていた。この男はきっとアルヴィンをラ・シュガル兵に引き渡す。そこからアルクノアやエレンピオスの存在が割れるとは思わなかったがそれでも、自分は帰らなくてはならなかった。だのに、身体は鉛のように重く、動かない。
 息をすることすら忘れて、アルヴィンは対峙した男の手を見つめていた。その背後で不意に、泣き声がした。弾かれるようにして、男は顔を上げる。同時に、アルヴィンもまた呪縛から解けたように感覚が戻った。その一瞬の内に、アルヴィンは伸ばされた男の手をかわし、脇をすり抜けて夜の街へと駆け出した。背中に、かつての自分の名前をまるで呪詛のように浴びせかけられながらそれでも、決して振り返ることなくアルヴィンは走り続けた。ただ、あの刹那に割り入った泣き声だけが酷く、耳の奥に残って消えなかった。赤ん坊の声だった。
 翌日、アルヴィンは再びディラック・マティスの家を訪ねた。遠目に、男が小走りで駆けていくのが見えた。急患が出たからだ。ベビーシッターはもう帰してしまったが、夜勤の妻は次の鐘が鳴る頃には帰ってくる。そんな甘えと油断があったのだろう。昨夜のアルヴィンの来訪を憲兵に通報した様子もなく、見くびられたものだな、と夜の街に男の背中が消えたことを見届けるとアルヴィンは口の端を吊り上げた。
 任務とは全く関係なかった。ディラック・マティスは確かにアルクノアを離反したが、彼は組織における重鎮でも、増してや叔父の望む地位にも何ら関わりのあるような人物ではなかった。ただ、叔父はアルクノアのリーダーの座を得る為、その情報を蓄える為、ジルニトラに乗っていたエレンピオス人の消息を離反者も含め把握することを望んだ。だから、アルヴィンの任務はディラックを確認し、また接触した昨夜の時点で終わっていた筈だった。だが、今、アルヴィンの足は確かにディラック・マティスの家へと向いていた。
 扉の前に立ち、呼び鈴を鳴らした。二度鳴らし、次にノックをした。返る声はない。次に、名前を呼んだ。返事はなかった。そこで初めて、アルヴィンはドアノブに手をかけた。当然、扉には鍵が掛かっていた。政府の主要施設でもないリーゼ・マクシア人の異形の力で「育てられた」家の扉に取り付けられた鍵は、随分と原始的な造りのものだ。壊すまでもなく、アルヴィンが今までに培った技能で解錠は容易であるように思えた。だが、アルヴィンは鍵には触れず家の裏手側に回った。来旬から火霊終節[サンドラ]に入るとはいえ、まだ暑い日が続いている。案の定、夜風にカーテンの揺れる窓を見つけた。二階だった。
 柵を踏み台にして窓に手を掛けると、そのまま腕の力だけでよじ登る。取っ掛かりをなくした足が無様に宙をさ迷って、何かを蹴り飛ばした。陶器の割れる音に鉢植えでも倒しただろうか、とアルヴィンは眉根を顰めるがそれ以上気に掛けている余裕はなかった。
 部屋の中に入ると、噎せるような甘いにおいがした。昨日、ディラックの妻から仄かに漂ったのと同じものだ。室内は暗く、窓から差し込む街灯樹の光が陰影を濃く浮き彫りにしていた。隣の部屋から、赤ん坊の泣き声が聞こえていた。
 湿地から吹き込む湿った風に揺れるカーテンが身体に纏わりつく。払いのけながら、アルヴィンは泣き声のする方へと歩を進めた。廊下に出て、隣の部屋に入る。空気が動いた為か、オルゴールメリーが微かに揺れた。その脇を過ぎて、アルヴィンは窓辺のベビーベッドに近付く。泣き声は、間違いなくそこから溢れていた。
 ぬいぐるみに埋もれるようにして、その赤ん坊は寝台に横たわっていた。生え始めの産毛は柔らかかったが、母親譲りの濃い色をしている。涙に濡れた榛色の瞳も、よく似ていた。リーゼ・マクシアの血を色濃く継いでいるのだろう。そこには、異境リーゼ・マクシアに迷い込んだ哀れなエレンピオス人の子供の悲壮さは、微塵も感じられなかった。ただ、覚悟を決めた父親と、愛情深い母親とに慈しまれる子供が、けれど何故か火が着いたような勢いで泣き続けている。その様子を、アルヴィンはただ眺め、見下ろしていた。あやすことも逃げることもせず、ただ、かつて確かに自分が持ち得、そして今無くした全てに包まれるその子供を、無心に、見下ろしていた。丸みを帯び、紅潮した頬を伝い落ち流れる涙を、吹き込む風に揺れる柔らかな産毛を、愛に包まれ赦された子供を、気が付けば柵に手を掛けて、身を乗り出し、見下ろしていた。榛の瞳が、覗き込むアルヴィンの影を捉えた。二度、三度と瞬く内に涙がこぼれることはなくなった。透き通る蜂蜜色の鏡に映る、自分の方が余程酷い顔をしているな、とアルヴィンは思った。
 不意に、赤ん坊は手を伸ばした。何かを掴むようにして、小さな手のひらが宙をさ迷う。何度も、何度も、目の前で弱々しく、辿々しく、赤ん坊の手のひらが翻った。アルヴィンは、少しだけ迷った。けれど、すぐにグローブを外すとさ迷う赤ん坊の手のひらに触れた。温かい、小さな小さな指がアルヴィンの手を強く握り込んだ。そして笑う。愛された赤ん坊が、アルヴィンに笑いかける。アルヴィンは、唇を強く噛み締めた。
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02.16.00:18

悪癖

悪癖 The INCURABLE



 鼓膜に届く水音で目が覚めた。
 カーテンの隙間からは、水に煙る街並みが見える。陽は既に登った後だったが、雨のせいか灯りのない部屋の中は薄暗く沈んでいた。
 身震いを一つして、ジュードは手足を縮こまらせる。剥き出しの肩に触れる空気が冷たい。毛布と上掛けを纏めて引き上げると、頭まで被って視界を閉ざす。何故こんなに寒いのだったか、凍えながらジュードは思考を巡らせた。手は、無意識の内に閉ざされた空間をさ迷う。背を向けた壁際の隙間に、眠りに落ちる前には確かにあった筈の熱が触れない。思い至り、もう一度確かにジュードは目を開けて、上体を起こした。
 薄暗く沈んだ部屋の中、先ず最初に見留めたのは整然と本の並ぶ棚だった。中には学生時代から所有している医学書の他、エレンピオス文字の辞書や黒匣[ジン]に関する専門書、エレンピオスの研究者であるバランから貰った最新の源霊匣[オリジン]の学会で纏められた議事録の写しのファイル等が収まっている。隅の方の数冊が傾いているのは昨夜遅くに来客を迎え入れた為、その隙間に収まる筈の本を戻し忘れたからだ。
 欠伸をしながらジュードは寝台の下に脱ぎ散らかしたままの衣服を足でかき集めた。その中から自分のズボンを見付けて履くと立ち上がって、部屋履きの靴に足を押し込んだ。少し小さくなったその靴を、ジュードは踵を潰して履いている。新しいものを買おう買おうと思ってはいたが日々の忙しさとどうせ外には履いて行かないのだから、という惰性からそのままになっていた。雨音よりも濃い、室内から漂う水の気配がする方へ意識を傾けながら、せっかくの休みだし新しい靴を買いに出掛けるのもいいかも知れない、とジュードは思った。
 自分の物ではない物も含めて、足元に脱いだままの衣服を拾って回りながら洗面所へと向かう。ジュードが間借りしている部屋の中で、最も源霊匣の最先端の技術で溢れかえっている場所だ。決して広くはない仮部屋において、バランから贈られてくる「微精霊の源霊匣の試作品」の取り敢えずの置き場所が洗面所くらいしかなかったからだ。その大半は実用化には程遠いがらくた同然の物ばかりだったが、先節送られてきた自動で衣服を洗う源霊匣はジュードも気に入ってた。リーゼ・マクシアにも似たような機能を持つ物はあったが街灯樹とは異なり付きっきりで精霊に働き掛けないといけない仕組みなので、一度稼働すれば洗い終わるまで目を離していても良いこの源霊匣は実用化に向けて本格的に改良するべきだろうと思っている。問題はジュードもバランも、どちらかというと医療関係の補助機器として源霊匣の研究に着手していた為、ここからどう広げていけば良いのか分からない点だ。そう、ひとしきり舐めたり噛んだりして互いの熱を煽りあった後、気怠げに寝台にうつ伏せた客人の旋毛にそう愚痴を零したのは昨夜眠りに就く前のことで、彼はこの後カラハ・シャールで商談があるのでその時にでも協力者を募ってみる、と欠伸を噛み殺しすと裸の背を向けながら言った。
 抱えた衣類を試作機に放り込む背後で、外に漂う雨よりも一層濃い水の気配が止んだ。スイッチを押そうとしていた手を止めて洗面台に無造作に掛かったタオルにジュードが手を伸ばすのと、浴室のカーテンが引かれるのとは殆ど同時だった。頬に張り付く前髪を掻き上げる男にタオルを手渡す。
「わりぃ。起こしちまったか」
 身体を拭きながら男は問うた。
「ううん。寝過ぎたくらい」
 答えを返すジュードの脇をすり抜けるようにして濡れた腕が伸びるたかと思うと、男は試作機の中から昨夜脱ぎ散らかした自分の衣服だけを引っ張り出した。
「あれ。スカーフは?」
「流石にスカーフはちょっと……っていうか、洗うんだから戻してよ。服なら貸すから」
 いつか着れる日も来るかも知れない、と自身に言い聞かせながらサイズの合わない服を買い置きしていたジュードは、それとなく言葉を濁しながら男の動きを制止した。だが、彼は見つけだした自分の衣服をまだ乾ききらない身体に纏いながら言った。
「いや、明日の昼にはガンダラ要塞に着きたいからな。そろそろ行くわ」
「行く、って……ちょっと待ってよ。だって」
「言っただろ?カラハ・シャールで商談があるんだよ」
 戸惑いの声を上げている間に男はコートとスカーフ以外の、ジュードが昨夜脱がせた衣類を着込んでしまった。
「アルヴィン!」
脇をすり抜けてリビングへと戻ろうとする、その薄情な背中に声を投げる。だが、男の――アルヴィンの歩みを留め置くには至らない。一瞥すらくれずに彼は肩越しに手だけを振って、その背中を扉の奥へと消した。歯噛みして、ジュードはアルヴィンを追い掛ける。
「待ってよ」
 リビングを抜け、寝室に戻るとブーツを掃き終えたアルヴィンがコートに片腕を通したところだった。なに、と動きを止めることのない彼の声が返る。
「ワイバーンで来たなら、カラハ・シャールまで半日掛からないでしょ。何をそんなに急いでるの」
「あのなぁ……いくら何でも雨の中ワイバーンは飛ばさないでしょーよ」
 ワイバーンは置いてくよ。彼はそう言って、皺のよったスカーフを眉根を寄せながら伸ばし始めた。
「じゃあ、雨が止むまで待ってからでも……」
「おいおい。おたくまでバランみたいなこと言い出してくれるなよ。この雨、今旬いっぱいは降るんだぜ?んで、商談は来旬の頭」
 昨夜の名残はすっかり成りを潜めて彼はいつもの風体に戻ると、ジュードの頭を軽く小突いて笑った。
「ミラさまとの約束もいいが、もうちっと源霊匣以外のことも気にかけようぜ?」
「……何で、そこでミラの名前が出るの」
「さぁ?嫉妬かも」
 口の端を吊り上げて、アルヴィンは言う。嘘だ。喉元まで出掛かった言葉を押し止めたのは、彼の唇だった。下唇を小さく吸って離れていく軽い口付けに、ジュードは眉根を寄せる。
「ありゃ。ご不満?」
 喉を鳴らして笑いながら、アルヴィンは言った。
「また、そうやって……」
 言いかけて、けれど今度は自分の意志で紡ぐ筈の言葉をジュードは飲み下した。溜め息を吐いて、頭を振る。
「いいよ、分かった。でも、ごはんくらいは一緒に食べてくれるでしょ。すぐに作るから」
 問いながら、半分は諦めていた。理由は解らない。常の彼であれば妥協点を提案すれば首を縦に振る確信はあった。けれど、何故か、今日の彼は譲らないような、そんな予感が漠然とあった。それが彼のジュードに対する甘えであったのならどんなに良いか、とも思う。だが、そう都合良く簡単な男ではないことを、彼に対してただ盲目的に夢を見ていてはいけないのだということを、ジュードは身を以ってよく知っていた。思い知らされてきた。
 案の定、アルヴィンはジュードの提案に難色を示した。
「たまの休みだろ。朝飯なんてどうにでもなるし、ゆっくりしたら?」
 うっすらと笑みすら浮かべて、彼は言った。ジュードは首を横に振る。
「いいんだ。僕がやりたいだけなんだし。それに、食べてくれる人が居るのって、やっぱり嬉しいものなんだよ」
 これで駄目なら無様に縋ってまでアルヴィンを引き止めるのはやめよう、とジュードは思った。けれど、彼は肩を竦めて困ったように笑いながらそれでも、朝飯だけだからな、と言ってジュードの頭を掻き混ぜた。
 だから、解らなくなる。信じたくなる。騙されたくなる。期待、したくなってしまう。
「すぐ、作るから」
 絞り出すようにそれだけ呟いて、ジュードは彼に背を向けた。


 外に出ると、雨は霙に変わっていた。褪めた寒色の曇天から、頬を叩き付けるように降ってくる。もう一枚羽織ってこれば良かった、と剥き出しの手指を擦り合わせながらジュードは思った。
 薄ら白い視界に、鳶色の背を捉える。アルヴィン。名前を呼ぶと、男は緩慢な所作で肩越しの傾いた視線をジュードへと寄越した。
「別に見送りなんて要らないのに」
 器用に片方だけ、眉を持ち上げてアルヴィンは言った。
「違うよ。僕も外に用事があるからそのついで。……どれだけ自惚れてるのさ」
 追い付いて並び立つと、無防備な脇腹を肘で小突く。アルヴィンは笑いながら、されるがままになっていた。
 嘘は吐いていない。彼とは違う。外に用事があるのは本当で、買い置きの食料が心許ないのも真実だった。ただ、昼も夜もまた彼と二人で食事をして、その献立を二人で考えて、ジュードの新しい靴を二人で選ぶ――あった筈のささやかな希望の数々を言葉にせず飲み下した結果がこれだった。思いがけず零れた自嘲の笑みをどう受け取ったのか、何だよ、と言ってアルヴィンは嬉しそうに微笑む。内緒、とジュードも笑みを濃くしながら返して、アルヴィンの腋の下に指先を差し入れるようにして腕を組んだ。
「くすぐったいんですけど」
「だって寒いんだもん。手袋忘れちゃったし」
 白く吐く息の向こうに、アルヴィンを捉えてジュードは言った。けれど彼は立ち止まってジュードの手を丁寧に解いたあと、自分のはめていた手袋を抜き取って差し出してきた。
「……何でこう、デリカシーに欠けるかなぁ」
「そういうおたくはどんだけ乙女系なのよ」
「これから街を出るアルヴィンに、どれだけ鬼畜なのさ僕」
「わりとそんなもんだろ。ジュード君が俺に優しかったことなんて、ホント数えるくらいしかないしねぇ」
 いつまで経っても受け取ろうとしないジュードに痺れをきらしたのか、彼に手を掴まれて手袋を被せられた。手首に触れる冷たく乾いた彼の掌や、指先の随分と余る温もりの残った手袋の、その温度差に意図せず溜め息が零れる。
「三十路にもなって自分探ししてる駄目な大人に対して、寛大過ぎるくらい寛大だった覚えはあるけどね」
「まだ大台にゃ乗ってねぇよ」
「来節には乗るでしょ」
 アルヴィンが黙り込む。ジュードも、口を噤んだ。来旬の末日には節が変わる。脳裏に過ぎった事実が、続く筈のジュードの言葉を遮った。
「……何か、慌ただしいね。これじゃあセックスしに来ただけみたい」
 赤褐色の視線から逃れるようにして顔を背けながらジュードは言った。
「…………まぁ、結果論だな」
 常のジュードらしからぬ言動に面を食らったのか、少しの間を要してからアルヴィンが呟く。見上げた先には相変わらずの眠たそうな彼の顔があって、何だか無性に業腹だった。
「ねぇ、今、どんな気分?」
「優等生が不良になってんな。新鮮で可愛い」
「そうじゃなくて!」
 思わず、声を荒げると流石のアルヴィンも僅かだが目を見開いた。だが、それ以上に声を荒げたジュードが自分の声に驚いた。
「……そういうんじゃ、なくて」
 漸く弱々しい声をジュードが絞り出した頃には、アルヴィンもすっかり平静に戻っていた。水気を含んで重たくなった髪が一筋、眉の上に張り付いている。
「どうして、アルヴィンはいつもそうなんだろう。嘘吐いて誤魔化して……疲れない?」
 問いながら、手を伸ばして張り付いた彼の前髪を掬った。
「何だ。ジュード君、疲れちゃったの」
「僕じゃないよ」
「もう、おたくには嘘は吐いてねぇよ」
「僕じゃなくて」
 なすがままにされていたアルヴィンが、離れていくジュードの手を取った。唇に寄せて「何?」と続く言葉を促される。
「アルヴィン、どうしちゃったの?何かあったの?僕が、何かしてしまったの?」
 彼の指先を握り返して、ジュードは一息に言った。全ては不安からだった。
 昨夜のことを思い出す。日付の変わってすぐの夜更けに、アルヴィンは訪ねてきた。彼の来訪の予定はなかったが手紙に今度の休みの日について書いていたので、非常識な時間に鳴る呼び鈴を特に警戒することもなくジュードは扉を開けた。暗い廊下を背に立つ男は、最後に会ったときと変わらないように見えた。変わらず、少し疲れているようだった。その姿を見留めた後、言葉を交わしたかは覚えていない。腕を掴んで彼を部屋へと引き入れてしまうと、扉を閉めて唇を塞いだからだ。もしかすると、名前くらいは呼んだかも知れないし呼ばれたかも知れない。口付けながら彼が後ろ手に鍵を閉めるのが見えた。だからジュードはアルヴィンのベルトを外すことに集中することにした。縺れるように寝室に彼を導いて、そこで漸く唇を解放すると「俺、着いたばっかで喉渇いてんだけど」とアルヴィンは言った。この時、聞こえないふりをして寝台に突き飛ばしたのが悪かったのかも知れない。後で水差しを持ってくるから、と耳元で囁いておきながら忘れて寝入ってしまったことが原因かも知れない。それに、コンドームも付け忘れた。中に出してしまっても彼は何も言わなかったが、その所為で怒らせてしまったのかも知れない。
 心当たりだけが渦巻いて、不安で押し潰されそうだった。けれど、今回だけの話でなく、何も言わないアルヴィンのことはずっとジュードの気掛かりだった。もう嘘は言わないと彼は確かに言っていた。結果、嘘だけでなく彼は伝えるべき本当の言葉も噤み続けている。
 遮るもののなくなったアルヴィンの唇は緩やかな弧を描いている。微笑んでいる。そこへ、畳み掛けるようにしてジュードは言葉を連ねた。
「お願いだからアルヴィン。誤魔化さないで。そうして、いつも最後に傷つくのはアルヴィンじゃないか」
 泣きそうだった。けれど、男から漂う笑みの気配は濃くなる一方だった。天気が悪いお陰で人通りが少ないのは助かったな、と鼻を啜りながらジュードは思った。アルヴィンはいつかのようにジュードの言動を指摘するようなことはなく、ただ一つ、目蓋に唇を落としてきた。本当に、人通りが少なくて良かった。
 「アルヴィンは」堪えているのも馬鹿らしいので、感情のままに零してしまうことに決めた。「そうやって、僕のことも殺してしまうの?」
 問うて、彼の顔を見上げて伺い続けるのが辛くて、ジュードは俯く。そのまま、両手の平で顔を覆った。手袋に包まれた手は僅かだが、アルヴィンのにおいがした。濡れた雪の降り積もる音に、喉を鳴らす声が混ざる。
「そうだな。みんな死んだ」
 顔を覆う手に、彼の手が触れた。自分のものではない吐息が、前髪を揺らしている。自惚れてるな、クソガキ。吐息と共に耳の奥へと吹き込まれて、弾かれたように顔を上げたそこでアルヴィンに唇を奪われた。
 彼の悪癖は不治の病だ。きっとジュードも殺される。予言めいた確信に腹の底が重くなるのを感じながら、ジュードはアルヴィンの背中に手を回した。

01.05.01:33

恋の遺骸 Limerence lost

 王城を出てもまだ、重たい色の空からは雪が降っていた。
 手指を擦り合わせながら白く煙る息を吹きかけると、アルヴィンは手袋を嵌めた。鼻の頭が冷たい。寝不足からくる頭重感が少しだけ和らぐ。
 意匠の施された門の前には訪れた時と変わらず、人々が長蛇の列を作っていた。浅く積もった雪を踏み締め、人の波を掻き分ける。顔馴染みになった門兵に会釈をして門を抜けてしまうと、空中滑車の乗り場までは難なく辿り着くことが出来た。滑車は出たばかりのようで、アルヴィンの他に人は居なかった。コートの内ポケットから手帳を取り出し、ペンを走らせる。
 「商売をしよう」と旅の途中に出会った青年に誘われたのは、一節程前のことだ。だが、人を欺くことを生業としてきたアルヴィンは、人からの信頼が得られなければ立ち行かないだろう彼の誘いにすぐには頷けなかった。それでもシャン・ドゥに少しの間だが滞在していたアルヴィンに会う度に、青年は人好きのする綺麗な笑顔で返答を求めてきた。大丈夫、最初から上手く行くなんて私も思っていないさ。そう言われて、毒気を抜かれたというのもある。結局、アルヴィンは青年の掲げたグラスに自分の持つそれを合わせた。
 リーゼ・マクシアとエレンピオス間での商いに先だって、双方の許可を取り付ける為にアルヴィンはカン・バルクのガイアスを訪ねた。エレンピオス側にも行かなくてはならないが、従兄にシルフモドキを飛ばしてからまだそう時は経っていない。一度拠点であるシャン・ドゥに戻って青年――ユルゲンスに報告してもいいかも知れない。だが、その前にあちこちを駆け回ってろくに働かなくなった頭と身体をそろそろどうにかするべきなのかも知れない。そんなことを考えて、手帳をしまうアルヴィンの背中に声が掛かった。
「アルヴィンさん」
 振り返ると、アルヴィンがそうだったようにガイアスの謁見を望む人の波を掻き分けて、見覚えのある顔が近付いてきた。
「じいさん。出て来て大丈夫なのか」
「何を言っているんです、水臭い」
 声を弾ませて、ローエンが言った。
「いや、あんたも居るってのはガイアスに聞いてたし、顔くらいは見せようと思ってたんだぜ。でも、客来てんだろ?」
 薄く雪の積もった白髪から視線を外す。滑車はまだ来ない。寒さをまるで感じさせずに隣に並び立つ老人は「来てますよ」と言って肩を竦めた。
「エレンピオス政府要人の方々が」
「……あんた、アホだろ」
「そうは言いますが、この歳になると長時間座っているのはなかなかに辛い」
 腰も痛くなってきたのでこうして中休みを挟ませて貰ったのですよ。隣で腰をさするローエンに、アルヴィンは視線だけを投げた。楽しそうに笑うその横顔に、他意はないように見える。食えないじじぃだ、とアルヴィンは頭を掻いた。
 「そういえば聞きましたよ」柔らかく皺の刻まれた目元を細めて、ローエンは言った。「商売を始めるそうですね」
 耳が早い。アルヴィンは苦笑した。
「ああ。ユルゲンスと」
「成る程。彼はとても良い青年です。貴方のような捻くれた方とも、きっと真摯に向き合ってくれるでしょうね」
 全く変わらない笑顔でローエンは言った。それなりに思うところはあったが、どれも事実だったので拳を固めて耐える。シャン・ドゥに向かう道すがら、魔物にでも八つ当たりすることにしよう、とアルヴィンは静かに心に決めた。それに、既に似たようなニュアンスの言葉を投げられている。今更だ。
「ジュードからの返事もそんな感じだったわ」
 おや、と言って老人は顎に手を当てた。
 少し前に、ジュードの住むイル・ファンに手紙を送った。近況報告が殆どで返事を期待するような内容でもなかったが、そう時を置かず放ったシルフモドキが書簡を足に括り付けて帰還した。そこにはアルヴィンが書いた手紙に対するローエンと似たり寄ったりな意見に添えて、少年自身の近況とイル・ファンで彼の借りる部屋の場所とが綴られていた。源霊匣[オリジン]の医療ジンテクス転用の可能性に関するレポートを提出したところ、新しい研修先の教授の目に止まったらしい。近々、医学校で発表会があるとのことで今はその資料集めに忙しいのだ、と癖のない綺麗な文字で少年の近況は纏められていた。
「連絡を取り合っているのですね」
「あんたにも似たような内容で出したぜ……っつってもその様子じゃ読んでねぇみたいだな」
 ご多忙なようで。言って、今度はアルヴィンが肩を竦めれば、老軍師は心持ち眉尻を下げて笑みの色を強めた。
 風雪に煙る視界に遠く、ゆるゆると滑車の陰が揺れているのを見留める。ローエンもそろそろ城に戻らなくてはならないだろう。頃合いとしては丁度良い、とアルヴィンは隣に立つ男を伺った。彼も頷く。
「では、私も戻るとしましょう。この寒さ、矢張りじじぃには堪えるようです」
「そうしろよ、じいさん……まぁ、顔が見れて良かったよ」
「おや、貴方の口からそのような殊勝な言葉を聞けるとは。老体に鞭を打ってみるものですね」
 髭を撫でながらローエンは言った。だが、途中不意にその柔和な笑みを潜めると、思案深げに視線を彷徨わせる。嫌な予感がした。
 端から見れば油断なく鋭い思考を巡らせているかのような立ち姿だが、決して短くはない時間を旅の空の下で共有していたアルヴィンには解ってしまった。これはアルヴィンを含む若者たちへ仕掛ける、老猾な悪戯を企んでいる顔だ。ああ、もう、逃げたい。救いを求めるような心持ちで、アルヴィンは歩みの遅い滑車を恨めしく見やった。その肩に、ローエンが手を置く。
「……アルヴィンさん、少々頼まれごとをして下さいませんか?」
 ほら来た。アルヴィンは諦めるように両手を上げ、深々と溜め息を吐いた。だが、そんなアルヴィンの反応も彼は既に予想していたようで、悪戯っぽく片目を瞑ると人差し指を立てて見せる。
 「ご安心下さい。今回は貴方が共犯者です」寝不足の頭が笑みを孕んだ提案の意味を咀嚼し終える前に、老軍師は言葉を続けた。「ジュードさんに会いに、イル・ファンまで足を運んでは頂けないでしょうか」
 本当に、この老人は性質の悪い悪戯を思い付く。アルヴィンは口の端を吊り上げた。


 もつれそうになる足を何とか前に出すことで、辛うじて転倒を避けた。だが、ジュードの二の腕を掴む男の歩みは淀みなく、すぐにまた次の一歩を強制される。もう幾度となく抗議の声を上げていたが、前を行く男の足取りはただただ軽くジュードは半ば引き摺られるようにして歩を進めるしかなかった。
「ね、ねぇ!アルヴィン」
 連行するかのような力強さでジュードの二の腕を掴む男の名を呼ぶ。彼は振り向くことすらせずに生返事だけを寄越した。歩みも二の腕を掴む力も一向に緩まず、イル・ファンらしからぬ赤いガス灯に照らされた輪郭から表情は伺い知れない。アルヴィン。もう一度、ジュードは名前を呼んだ。目が熱くなって、鼻の奥が痛かった。泣く。これは泣く。混乱した頭で、ただひたすらにそれだけを思った。そんなジュードの思いが通じたのか、漸く肩越しにだが彼の視線が寄越される。下がった目尻を常よりも更に下げ、薄い唇は弧を描き、歩みを少しも緩めることなくアルヴィンはジュードを見やった。
「どうしたよ、青少年?」
「腕!痛い!」
「そりゃあ、おたくがしゃきしゃき歩かねぇからだろうが」
 最後まで言い切る前に笑いが堪えられなくなったらしい彼は、盛大に噴き出すと顔を背けた。腕を掴む力が少し緩んだので逃げ出すチャンスだったのに、目の前で馬鹿笑いする男が心底憎々しく思えてジュードは逆に引き寄せた彼の足を思い切り踏み抜いた。哄笑を悶絶に変えてうずくまる男の背中を、更にもう一つ蹴り飛ばす。二の腕は呆気なく解放されたが、それでもジュードの溜飲は下がらない。
「ほんっと!アルヴィンって信じられない!」
 情けない鼻声で叫んだ。
 二旬前、源霊匣の研究を発表した際、酷く批判されたジュードは確かにそれなりに落ち込んではいた。それでも、すぐに理解は得られないだろうと覚悟はしていたので、塞ぎ込む暇はないのだと自身に言い聞かせると気持ちを切り替え、より一層研究に打ち込むことにして立ち直った。何より近況を報せてくれる仲間からの手紙は励みになったし、たまたまイル・ファンに来ていたローエンに胸の内を話したりして、気持ちは随分と楽になっていた。だから、アルヴィンが訪ねて来てくれたことは本当に嬉しかった。手紙にあった彼の商売の話も聞きたかったし、ジュードも話したいことが沢山あった。そんな彼が外へ行こうと言い出したなら断る理由はない。アルヴィンの提案をジュードは二つ返事で受け入れると部屋を出た。彼に誘われたことが単純に嬉しかった。だが、前を歩くアルヴィンにジュードが行く先を訪ねると、思いも寄らない言葉を返された。
「最低だよ、もう……何で娼館なんて!アルヴィンの馬鹿!」
 悲鳴のような声でジュードが言うと、いつの間にか復活した男が喉を鳴らす。最悪だ。
「そうむくれんなよジュード君。勤勉なのは確かに美徳だが、度が過ぎるとそれはそれで不健全なんだぜ?」
 言いながら、彼の腕が肩へと回される。たまには息抜きも必要だろ。耳元で囁かれ、ジュードは身体を強ばらせた。目頭が熱くなって、血の気が引く。理由は解らない。そして理由も解らないのに何故か理性を総動員して、思い切り良く肘を引いた。今度は蛙の潰れたような声が耳元でして、ジュードは漸く肩の力を抜く。
「……おたく、今もろに狙っただろ」
 濡れた石畳に腹をさするようにしてしゃがんだアルヴィンが見上げてくる。そんな彼に、ジュードは裏返る声で言い放った。
「じ、自業自得だからね!」
「へいへい、っと……だけどマジな話、少しは息抜きしろよ。ローエンだって心配してたんだぜ?」
 地面についた裾を気にするように立ち上がりながら、アルヴィンは言った。返す言葉に詰まる。心配を掛けていたという事実を自覚して、申し訳ないような、嬉しいような、そんな擽ったさを感じた。ローエンの気持ちには勿論、ローエンを口実にしてでもわざわざこうして会いに来てくれたアルヴィンに対しても、身の置き所のない気恥ずかしさを覚える。
「ま。そんなわけだからさ。今日は綺麗なお姉さんに優しくしてもらって、ついでに天国見てこいよ。な?」
 ジュード君かわいいからきっとちやほやしてくれるぜ、アルヴィンが言い終わるより先に拳を付き出していた。彼に少しでも期待した自分への怒りからだ。だが、それなりの重さで以って 突き出した筈の拳を彼は軽々と受け止めて逆に握り返す。
「ひっでぇの。こっちはそれなりに責任感じてるんだぜ?」
 からかうような口調で、彼は言った。反射的に振り払おうとしたが、それすらも予想されていたようでアルヴィンの手は固くジュードを捕らえたまま解けない。
 悔しい。易々と拳を受け止められたことも、自分を娼館へ連れて行こうとする彼の無神経さも、何もかもが業腹だ。その上、言うにこと欠きジュードに口付けたその口で責任等と言い出した。指先を絡め合ったその手で拳を包み込み組み敷いたその身体で以って、この酷薄な男は今正に娼館へとジュードを導こうとしている。
「もうやだ!ほんっとやだ!アルヴィンなんて信じられない!僕、未成年だよ?何考えてるんだよ!」
「心外だなー、ジュード君。十五歳っつったら、そりゃあもう男女の夜の駆け引きに興味深々なお年頃じゃねぇの」
「そ、それはアルヴィンの勝手な持論でしょ。世間一般の十五歳皆が皆そうってわけじゃないからね!」
「そうは言ってもなぁ……」
 拳を捕らえたまま、アルヴィンは笑みを潜めてジュードを見つめた。眉根を寄せて、溜め息を吐く。嫌な予感しかしない。
「童貞喪失が俺相手とか気の毒過ぎる」
 真顔で、アルヴィンは言った。そう目にする機会は多くないが、こうして真面目な顔をすると彼は本当に端正な顔立ちをしている。この局面に置いて思わずそんな感想が脳裏に過ぎる時点で、頭が思考を放棄しようとしているのは明白だった。つまりもう色んな葛藤も辻褄合わせもすっ飛ばして泣いてしまいたい。
「もう……わけわかんないよ」
「だぁいじょうぶだって。いいぞ、女の身体は!柔らかいしいい匂いだし、砂糖菓子みたいなもんだって」
「……そうだよね。それなのに、何でアルヴィンだったんだろ。固いし筋張ってるし、おまけにあの時は有り得ないくらい臭かったのに」
 あの時――夜を待つ空の下で、ジュードは確かにアルヴィンに手を伸ばした。何処よりも冷たい場所で、それでも確かな熱と意図で以ってこの男に触れた。その事実に嘘はない。だから責任感じてるっつってるのに。アルヴィンが笑う。なら、あの時の僕の心は何処にあったのだろう。熱を煽りあった男を見つめて、ジュードは思った。
 「責任なんて、嘘」首を振って、ジュードは頬を膨らませる。「面白がってるだけじゃない」
 嘘だった。本当は気が付いていた。アルヴィンが彼なりに責任を感じていて、ジュードに逃げ道を作ろうとしてくれているのだと分かっていた。けれど、ジュードはそのことに気が付かないふりをして彼の不器用な譲歩を嘘にした。理由は自分でもよく分からない。
 バレたか、とアルヴィンは唇を不透明な笑みの形に歪めて肩を竦める。自分の気持ちの在り様だけでなく、目の前の男すら持て余す事実にジュードは疲れた。だから、溜め息を吐くとまた肩に腕を回されても、今度は抵抗しなかった。
 ただ、腕を引かれながら仰いだ空に雨雲の間から覗く月を見つけてふと、あの薄紅の空の下でジュードに暴かれた男は何を考えていたのだろうか、と今更のように思った。


 赤いガス灯に浮かび上がる看板をくぐり、娼館の裏口の扉を開ける頃、また雨が降り出した。往生際悪く嫌がる子供を連れ歩くのが面倒で、途中から小脇に抱えるようにして引きずってきたので腕が少し痺れている。荷物を下ろす要領で勝手口から放り投げると、積んであった小麦粉の袋に肩をぶつけながらそれでも彼は綺麗な受け身をとってみせた。
「はー……おっもたかった」
 扉を後ろ手に閉めながらアルヴィンは言った。表通りから差し込んでいた僅かばかりの光も遮られると、暗く湿気った部屋の中に雨音が響き始めた。アルコールと麝香の混ざった匂いがする。暗い闇のような中にあっても、恨めしそうにアルヴィンを見上げる子供の瞳はいやにぎらついて見えた。手を伸ばして引き起こしてやる。
「ほらよ。行こうぜ、マティス先生?綺麗なおねえさま方がお待ちだ」
 肩を組んで促すと、ジュードは何か言いたそうに口を開いた。縋るような琥珀色の瞳が心地良い。だが、アルヴィンは彼の先に続く言葉を導くことはせず、首を傾けた。頬に柔らかな黒髪が触れる。判ったよ、もう。真意を飲み込んで誂えた上辺の言葉を、アルヴィンは喉を鳴らして笑った。
 通用路を抜けると、衝立を隔てたサロンの裏手側に出た。昼の間に話を通しておいた女を見つけて名前を呼ぶ。この娼館のメトレスだ。胸元の大きく開いた赤いドレスの女は、豊かな黒髪を揺らしてアルヴィンの方へと近付いてきた。
「待ってたわ。その子ね、昼間話していたのは」
 ヘイゼルの瞳を柔らかく細めると、女は視線をアルヴィンからジュードへと移した。流石にアルヴィンの影に隠れるように、という程ではなかったものの、明らかに逃げ腰のジュードは蠱惑的な彼女の視線に絡め取られて肩を大きく揺らした。ミラやプレザで耐性もついただろうに、矢張り本職を前にするとこんなものか、とアルヴィンは子供を生温い目で見守る。大丈夫よ、そんなに緊張しないで。ジュードに微笑みかけるメトレスが小さく首を傾けると、香水の匂いが鼻腔を突いた。
「貴方達、いらっしゃい」
 優雅な所作でジュードの手を取り、女が呼び掛けたカーテンの奥からまた別の着飾った女達が現れる。いよいよ逃げ場のなくなった子供がうっすらと涙すら浮かべて見つめてきたが、いくら可愛らしいとはいえ同性と見つめ合う趣味はなかったので、アルヴィンは早々に現れた顔見知りの女の腰を抱き寄せてその頬にキスをした。
「久しぶりね、アルヴィン。あんなによく来てくれてたのに、急に音沙汰がなくなるんだもの」
「ちょっと野暮用でね。イル・ファンを離れてたんだ」
「あら。綺麗な女の人と歩いてるところを見た、っていう娘が居るのよ?」
 亜麻色の髪を揺らして、しなだれかかる女が悪戯っぽく微笑む。彼女が言っているのはプレザのことだな、とアルヴィンは思った。
「情報が早いな。でも、別れたよ。ふられちまってね」
 ほらやっぱり、と花が咲いたように無邪気に女が笑う。他の花も艶やかに綻んで、そんな中よくよく見知った子供だけが雨に濡れて打ち捨てられた花弁のように沈んでいた。
「いい加減アルヴィンから離れなさい。坊やが戸惑ってるじゃない」
 メトレスが手を叩きながら女達を促すまで、ジュードの視線はアルヴィンに注がれたままだった。離れて行く女のこめかみにまた一つ口付けを落としてから子供を見やると、頬を紅潮させて思い切り顔を逸らされた。怒っているようだ。思えば彼はアルヴィンのやることなすことことごとくに、大なり小なり腹を立てている。今もそうだ。いつも怒ってばかりで本当に可愛いな、とアルヴィンは思った。
「さぁ、どの娘がお好みかしら?何なら、別の娘を呼んできてもいいわ」
 呼ばれた女達が順々に前へ歩み出ては、ジュードに自己紹介をしていく。その度に、可哀想な子供は少しずつ後退りをしてとうとう壁際にまで追い詰められてしまった。楽しい。声にならない声でジュードがアルヴィンの名前を呼んだ。
「おいおい。こんな美女に囲まれて、野郎の名前呼んでんじゃねぇよ」
「そ、そうじゃなくて!」
 ふくよかな子供の唇が「助けて」と動く。アルヴィンは返事の代わりに笑顔を返すと、メトレスに向き直った。
「ご指名しても?」
「あら。慣習を知らないわけではないでしょう」
 言いながら、それでもメトレスはすらりとしなやかな腕をごく自然な所作でアルヴィンに絡ませてきた。
「花代は持つ。それなら文句ないだろ?」
 ブルネットに口付けながらアルヴィンが囁くと、仕方がないわねと女主人は微笑んだ。
「ほら、おたくもとっとと選べよ。あんまり美女を待たせるもんじゃないぜ?」
 壁際に追い詰められた子供にそう言って笑いかけると、つり上がり気味の双眸が剣呑な色を帯びて細められる。腹の底が冷えていく感じがした。あんな視線を向けられたのはハ・ミルで彼らに銃口向けて以来かも知れない。あれは相当怒っているな、とアルヴィンは笑みの色を深くしながら思った。
 やがて少年の視線は逸らされて、身を取り巻く女達へと向けられた。明るい茶色に、亜麻色、ダークブラウンを結い上げた女に一瞬目を留めた後、結局鮮やかな赤い癖毛の女の名前を呼んだ。ミラといい、プレザといい、大人しそうな容姿に反して、この子供は派手な美人が好みのようだった。アルヴィンが頭の後ろで腕を組んで口笛を吹くと、きつく睨まれた。
「そんな目で見るなよ青少年」
「それはアルヴィンが……ッ」
 声を荒げる子供の傍らで、赤毛の女の華奢な肩が小さく跳ねた。思わず、言葉を途切れさせたジュードの隙を見逃さなかった。メトレスの腰に手を回して背を向けると、もう一方の手を振りながら肩越しに子供を見やる。
「じゃ、お互い楽しもうぜ?」
 背中に勢いの削がれた罵声を浴びせかけられながら、アルヴィンはその場を後にした。
 メトレスに案内されて個室に入ると、部屋の中央に置かれたテーブル脇のソファに座った。大きく取られた窓から見たイル・ファンの街並みは、雨に塗れている。窓を眺めるアルヴィンから離れたメトレスが、ボトルに手を伸ばしながら声を掛けた。
「何か飲む?それとも……」
「いや、今日はアルコールはいいよ」
「あら、珍しい」
「今日の俺はあくまで付き添い。保護者なの」
 だからお茶だけちょーだい。窓を伝う水滴が斑に陰を作る様子を眺めながら、アルヴィンは言った。呆れた、私を指名しておいて何もしないで帰るつもりなのね。メトレスは笑った。
「あの子、とても怒っていたわ」
 紅茶を用意する音を響かせながら、女主人が囀る。雨音を追いながら、そうだな、と言ってアルヴィンは頷いた。
「見ての通り絵に描いたような優等生さ。だからまぁ、多少腹に据えかねることがあっても女の子相手に癇癪は起こさないだろうよ」
 その代わり、後で自分はぼこぼこにされるかも知れない。欠伸を噛み殺しながらアルヴィンは思った。カン・バルクでローエンに会ってから向こう、あまり寝ていなかった。あの時から既に若干の寝不足を自覚し始めていたアルヴィンは、本当はガイアスへの謁見が済んだら次の予定まで少しゆっくりするつもりだったのにな、と眠気から来る頭痛を誤魔化すようにこめかみを強く抑えた。
 距離を置いて女主人が隣に座ると、ソファが少し沈む。それから、紅茶の匂いが漂って来た。
「乗り気じゃないのね。あの子が気になる?」
「そんなことはないさ。楽しんでるよ」
 選んだ言葉に、嘘はない。あの旅が終わりに差し掛かり、埋めようのない溝を越えてアルヴィンに手を伸ばした子供が、その実喪失の執行猶予を経て未来への模索を始めて以来柔和な面差しを殺し続けている事実は確かに気掛かりだった。それが今日のジュードはことある毎に赤くなったり青くなったり、涙を湛えて見上げてきたりと本当によく表情が変わる。だから、子供から奪ってしまったものを少しでも返すことが出来たような錯覚に、アルヴィンは気を良くした。睡眠時間を削ってイル・ファンへ急いだ甲斐があった、と心の底からの自己満足に浸れる程度には楽しかった。
 「どうかしらね。彼、失望していたでしょうに」耳に届いた不穏な声に、紅茶に伸ばし掛けた手を止める。「貴方のことが好きなのよ。可哀想」
 伸ばした腕はそのままに、ぎこちなく視線だけをメレトスへと向ける。ブルネットに映える赤い唇が弧を描いた。
「やっとこっちを見たわね、色男」
「いやいやいや、だってそれは」
 それはない。言い切れるだけの確執があの子供と自分との間にはあって、好意も信頼も、或いはアルヴィンの作り上げた虚像に対するある種の情景にも似た念も一切、残ってなどいなかった。けれど、そうした一切の虚飾を取り去りかき集めた遺骸だけで今のアルヴィンとジュードは繋がっている。それすらも自分には過ぎたものだという自覚があるだけに、暴力的な熱に浮かされて衝動のままに手を伸ばされたことはあっても、そこに彼女の指摘するような優しい感情が伴っているのだとはとても思えなかった。
「いいから、話を聞きなさい」
「聞いてるよ。どうぞ続けて」
 紅茶を手にして肩を竦めながら視線を逸らすと、隣からは盛大な溜め息が聞こえた。
「貴方はただの周旋屋[クルティエ]で、ここの娘たちと遊んだことはない、って教えてあげたら良いのよ」
「……信じねぇよ。それに言っただろ、優等生だって」
 買うより売る方が悪い、とあの子供は言うだろう。ミラと同じ眼差しで、アルヴィンを責めるのだろう。
「それはそれで悪かねぇけど……もうちょい余裕がある時にお願いしたいねぇ」
「疲れているのね」
「そりゃあもう」
「ゆっくり休めば良かったのに」
「ほんとにな」
 カップに唇を押し当てながらアルヴィンは言った。鼻を突く柑橘類の香りに、僅かだが頭痛が和らぐ。
「……おたくの思うような関係じゃないよ、俺とあいつは。ただ、大きな借りがあるんでね」
 それを返すまでは、逃げずに彼らの傍に居ようと思っていた。見届けるまでは、彼らの助けになるのだと決めていた。
 「借りなんて返したら終わりじゃない」優雅な所作でソーサーからカップを摘み、メレトスは言った。「大義名分を掲げてでも、傍に居たいと思っているのに、馬鹿ね」
 女主人は囀る。頭が痛かった。目蓋が重い。大義名分掲げて縋って縛られて、動けなくなるのは得意なんだ。紅茶を啜りながらアルヴィンはぼそぼそと呟く。
「どうせ返すのなら、恩になさい」
 甘く淫らな香りの漂う閉じた家にはいっそ不釣り合いな程、快活に笑ってメレトスは言った。だから違うんだって。アルヴィンは呻いた。けれど、もしも彼らがそれを許してくれるのなら或いは、彼女の言うように傍に居られたら良いな、と思った。


 白く華奢な手のひらで包み込むようにジュードの手を取ると、赤毛の女は「また来てね、お医者さま」と言って綺麗に微笑んだ。左頬だけに浮かぶえくぼからぎこちなく視線を外し、彼女の手から解放されたのを見計らうとジュードは素早く後ずさった。その様子を、傍らにブルネットの女主人を伴ったアルヴィンが笑う。
「いいねぇ。反応が初々しいわ」
 珍しく含みのない笑顔が余計に腹立たしい。腰を抱いた女主人の口付けを頬に受けて離れると、二言三言を交わしてアルヴィンはジュードへと近付いて来た。
「じゃ、帰るとしますか」
 片目を瞑って陽気に彼は言った。ジュードは返事をせずに、赤毛の女の名前を呼んで手を振るとアルヴィンを置いて裏口へと向かう。背中にジュードの名を示す声が掛かったが、振り返らなかった。
 外に出ると雨はすっかり止んでいて、千切れた雲が月の光に照らされて輪郭を浮き彫りにしていた。生温い風が頬を撫でる。ジュードはアルヴィンを待たずに濡れた石畳を踏みしめて歩き出した。ややあって、蝶番の軋む音が響きまた名前を呼ぶ声がした。だが、距離を詰めるつもりのない足音は穏やかだ。
「こらこら。歓楽街を一人で歩いちゃ危ないだろ?」
 未成年なんだから、と男は続けた。ジュードは足を止める。空に煌々と浮かぶ鋭利な月は、ティポの目を思い起こさせた。毒気が抜かれる。
「最もらしいこと言ってるつもりかも知れないけど、全部上滑りしてるって気付いて」
 肩越しに彼を見やって言う。だが、アルヴィンはあどけないとすら形容出来る無邪気な顔で「でも、楽しんだんだろ?」と言った。ジュードは頭を抱えた。
「どうしてわからないの?」
「何が?」
「だ、だから、その……」
 言いよどむジュードの頭を抱えた手に、アルヴィンの手が触れた。顔を上げる。何が、と彼は繰り返した。声音は幼子をあやすように穏やかで、かれはこんな声も出せるのかと感心した。だが、続くはずの言葉は喉につっかえて出てこない。彼から漂う彼のものでないにおいに、目眩がする。
「楽しんだのは、アルヴィンの方じゃないか」
 気が付いたら言葉にしていた。彼はというと、眉根を寄せるでもなくジュードの言葉を咀嚼するように黙り込んでいる。
 努めて丁寧にアルヴィンの手を外しながら、ジュードは赤いガス灯に沈む落ち窪んだ眼孔を見据えた。
「だってそうでしょ?アルヴィンこそ、あの女の人とずっと二人きりで、こんな香水のにおいなんかさせて」
 問い詰める。アルヴィンはゆっくりと瞬いて、けれどジュードから視線を外すことはなかった。思いがけず真っ直ぐと向けられる眼差しに、頬が熱くなる。やがて彼は少し困ったように笑いながら「馬鹿だな」と言ってジュードの頭をかき混ぜた。
「今回はお前の付き添い。それに、あそことは昔情報収集させてもらう代わりに周旋屋の真似事してただけのビジネスライクなお付き合いなわけで、青少年が期待するような色っぽい関係は一切なかったよ」
 プレザも居たしな。付け加えてから、アルヴィンはジュードの髪を解放した。そな名残を辿るように、自身の髪にジュードは触れた。
「……嘘は、嫌だからね」
「こだわるねぇ」
 前科者が笑う。
 今一度、ジュードは上目遣いに男を見つめた。器用に片眉を上げて見せ、アルヴィンは首を傾ける。ジュードは奥歯を噛み締めながら俯いた。
「本当に、わからないの?」
 先と同じ問いを、ジュードは繰り返した。
 見つめる先の濡れた石畳は月光と赤いガス灯を照り返して、鈍く光っている。ただ、アルヴィンの陰の落ちたそこだけが、深い穴のようにぽっかりと昏く蠢いていた。視界から陰を追い出すように、ジュードは堅く目を閉じる。
「……アルヴィンと同じ。彼女とは、その……何もなかった」
 それだけ告げると、いやに口の中が乾いていることに気が付いた。こんな時に限って、アルヴィンは何も言わない。だから俯くジュードには、彼の感情が読み取れなかった。観念して顔を上げようとしたジュードの肩に、漸く彼の大きな手が掛けられた頃には、彼の感情の行方どころか自分の感情の在処さえ判らなくなっていた。
 ジュード、と低く平坦な声で名前を呼ばれる。目を開く代わりに、唇を強く噛み締めた。そこに、彼の手が触れる。
「血が出るぞ」
 優しく言われて、泣きたくなった。顔を上げると、柔らかく微笑むアルヴィンと目が合った。
「大丈夫。緊張するとかえって勃たないもんだ。特に最初は」
 だから気にするな。その意味を正しく理解するのにジュードは一拍程の時を有し、気が付けば慈悲深く微笑む男の横っ面を力の限り張り倒していた。流石に石畳に倒れ込むことはなかったが、それでも二歩三歩とよろめいた男は頬を抑えながらも堪えきれないといった様子で噴き出すと夜空に哄笑を響かせた。
「どうしてそうなるんだよ!ア、アルヴィンはいつもいつも、どうして!」
「ど、どうして、って、だって……」
 腹を抱えて丸くなる背中をジュードは蹴り飛ばした。男は苦しそうに喘いでいる。
「普通に考えてよ!好きでもない相手と、そんなこと出来るわけないじゃないか!」
 震える背中に言葉を浴びせかける。声は悲鳴のように裏返っていた。そして、言ってから色々な意味で後悔した。
 息を調えるように、アルヴィンは深く呼吸を繰り返す。口元は手のひらに覆われていたが、笑みの形をしているのは判った。そこに、彼の真意が伴わないことも知れた。衝動的な笑みが引き、理性で作られた笑顔をジュードに向けながらアルヴィンはひとつ大きく息を吸った。
「……ジュード、お前はさ」
 しゃがみ込んで、ジュードを見上げて、口を開いて、彼は、首を横に振った。
「いや。何て言うの?説得力ないよ、それ」
 気安く、穏やかに笑って、アルヴィンは言った。彼は本当は何と言おうとしたのだろう。一瞬だけ我に返ったジュードの脳裏にそんな思いが過ぎるが、本当に一瞬で終わった。だってそうだろ、俺相手でも盛れるわけだし。朗らかに言って、アルヴィンはジュードにとどめをさした。その瞬間、足と心が同時に折れた。衣服が濡れるのも構わずジュードは石畳に膝を突くと、そのまま頭を抱えた。
「ちょっ、おい!どうした青少年?そんなにショックだったのか?……大丈夫だって。おたくが不能じゃねぇことは、不本意だが俺が身を以って知ってるさ。今回はほら、運が悪かったってだけだ。な?」
 あやすように、背中を撫でる彼の手は優しかった。女の香水の残り香に混ざる、アルヴィンのにおいが近い。助け舟を出すかのようにまくし立てる彼の言葉の全てが、今はただ遠く、無為な音として鼓膜を震わせる。
 言ってしまった。自覚へと到ってしまった。気が付かずに居られたなら、それはとても平和で幸せなことだっただろうに、と後悔ばかりが渦巻いた。だのに、ただ一度だけ、それでも一度、確かにジュードはこの男に手を伸ばした。かつて憧憬の念を抱き、信頼を寄せ、けれどそのことごとくを手酷く裏切った彼に欲情した。その情動が無惨に打ち捨てられた在りし日の感情に起因するものだとしたならば、確かにそこにはリマレンスという名前が付くのかも知れない。けれど同時に、その浮かれた感情は他でもない彼自身が惨たらしく引き金を引き、殺してしまった。その遺骸に、気が付いてしまった。
「……アルヴィン」
 うなだれたまま、それでもジュードは彼の名を呼んだ。背中に触れていた手の動きは止まる。
「何だよ」
 応えはすぐに返された。それだけに、迷う。けれど、膝の上で拳を固めて顔を上げる頃には、言うべきことは決まっていた。
 上体を起こしたことで一度アルヴィンの手は背中から離れ、少しの間宙をさ迷った後ジュードの肩の上に落ち着いた。息遣いが聞こえそうな程の近い距離で、彼は真っ直ぐにジュードに眼差しを返してくる。キスが出来そうだな、とジュードは思った。
「……アルフレド・ヴィント・スヴェント、さん」
 記憶の底を探り、ただ一度だけ聞いた韻を拾い上げる。声は情けなく震えていた。怒られるかも知れない。突き放されるかも知れない。ありとあらゆるネガティブな念が駆け巡った。
 二度、三度と目の前の男は瞬く。それから、少し視線を泳がせて、結局眉値を寄せながら赤褐色の瞳にジュードを映した。
「は、はい?」
 二度目の応えが返される。その瞳の奥に、ジュードは確かに死を視た。リマレンスの死だ。
 逃がさぬよう、肩に置かれた手に自らの手を重ねて捉えながら口を開く。
「貴方が好きです」
 祈りにも似た心地で、ジュードは言った。

11.30.09:31

鳥をまつひと4

 耳鳴りを縫うように、口付けを繰り返す。頬にも、閉じた目蓋の上にも、唇を落とした。辺りには凶暴な風が吹いている。頭が痛い。視界は不鮮明で、彼の表情すらろくに判らない。ただ、手のひらに感じる彼の温度や、唇に触れる肌は酷く冷たく乾いていた。
 恐らく、アルヴィンは何か言っていたのだと思う。説得めいた言葉を、彼にしては真摯にジュードに伝えてくれようとしていたように思う。ただ、気の触れた風が煩くて、その一切は耳に届かなかった。そうして抵抗をしなかったのはきっとジュードの身体を思いやってのことで、混濁する意識の中でいやに鋭くなった本能が彼の後ろめたさを嗅ぎ分け付け込んだ。
「おたく、これは絶対後悔するぜ?だって完璧にこりゃ、」
 先に続く言葉を遮る為に、唇を塞ぐ。情動というより、理性がそうさせた。
「ここに来て暗黙のルールを一方的に破るなんて、アルヴィンって意外と無粋なんだ」
 吐息の掛かる距離で息も絶え絶えに吐き捨てる。アルヴィンは苦虫を潰したような何とも言えない顔をしてジュードを思いきり抱き締めてきた。
 死臭の中で何事かを喚き立てる冷たい身体を抱きながら、ジュードは考える。彼と自分の在り方の、有り様の差違を思う。行動の理由を他者に求め、責任の矛先を逸らし続けたという点においては、業腹ではあるが彼と自分とが似通った性質の鬱屈を抱いているとジュードは自覚していた。腹立たしいついでに認めたくない話だが、彼が言うところの「お人好し」や「お節介」を以ってしか、ジュードが自分自身の輪郭を保てなかったのも事実だ。そうすることでしか、他者と関われなかった。だから他者に理由を求めないミラやガイアスの姿勢に惹かれ、そう在りたいと願うようになった。それならば、と思う。ならば、今ジュードが組み敷くこの冷え切った身体もまた、同じものに焦がれたに違いない。
「かわいそうだね、アルヴィン」
 首筋から耳の裏に掛けて鼻先を埋めながらジュードは言った。輪郭を保つだけの自己に由来する理由が、彼にはまだないと思ったからだ。その事実がとても可哀想だった。屍肉が膚から溶け出すように、彼も己を保てなくなるのではないだろうか、と思うと悲しくなった。けれどそんなジュードの憐れみを余所に、アルヴィンは薄い唇を深く濃い笑みの形に吊り上げて見せる。見くびるなよジュード君、と言って彼が口の端に噛みついた。
 肉を割り、性器で臓物を抉る感触というのは奇妙な感覚だった。張り詰めた性器を引き絞られる経験はジュードにとって全く未知の感覚で、蠢く熱が先程彼が引きずり出していた臓腑と同質のものであると思うと不思議な気持ちになる。だが、言ってみればそれだけの行為でしかなく、ジュードとアルヴィンに異性或いは同性間に芽生える倒錯的な情愛が果たしてあったのか、それは判らない。ならば衝動だったのかと問われれば、恐らくジュードは肯定する。性交と言うよりは自慰に近く、ある種の酩酊状態にあったジュードがたまたま手を伸ばしたそこに居たのが彼だった。
 制止する手をアルヴィンが途中で下ろした理由にまで、ジュードの気は回らない。後になって思えばいくら体術に秀でたジュードであっても、体格差も力の差もある彼を文字通り力ずくでどうにかするのは不可能だった筈だ。だが、その時は情動に任せて、目の前の肉をどうにかすることにただただ夢中だったジュードは、アルヴィンの中にあっただろう葛藤や諦念といった機微には気が付かずにいた。
 ただ、ふと、身体を揺り動かし己の快楽を辿る中で、理性のような、情動以外の何かが意識を掠めることがあった。何だろう、と風と自身の乱れた呼吸音を煩わしく思いながら顔を上げると、そこには組み敷いた男がある一点を見つめたまま浅く息をしていた。律動を止め、ジュードも視線を同じ方へ向ける。そして、目が合った。
 虚ろに濁った死者の落ち窪んだ眼球が、傾いた日差しの中で奇妙に浮き上がっている。蝿が頬に止まったかと思うと、眼孔に潜り込んで行くのが見えた。
「……アルヴィン、って……見られると、興奮するの?」
 純粋に疑問に思って問うと、彼は弾かれたようにジュードを見上げた。その表情は酷く驚いているようで、少し幼く見えた。
「お前、そういうの何処で覚えてくんの?」
 質問したのはジュードの方だというのに的外れな答えどころか、逆に問われる。それが気に入らなくて抗議の声を上げようとしたが、アルヴィンに抱き寄せられて唇を啄まれてしまった。触れるだけのささやかな口付けの後、身体を離すことなく抱き込められる。中途半端な状態で性器が圧迫された上に動きを再開することも出来ずとても辛かった。けれど、耳元で「ジュードはあったかいな」とアルヴィンが囁くものだから、文句の一つも言えなくなる。すると彼はジュードの沈黙をどう受け取ったのか、肩を揺らして笑った。
「いいからさっさとイっちまえよ。いい加減、背中痛ぇわ」
 身体を離すと彼はもういつもの調子に戻っていた。こんな時くらい泣けばいいのに、と思いながらジュードは律動を再開した。

 夢の中で、ジュードは鍋の蓋を開けた。窓からはシャン・ドゥの柔らかい陽射しが差し込んでいる。手元の片手鍋には桃のコンポートが綺麗な飴色をして収まっていた。すぐに、それがパイのフィリングであることに思い当たる。
 こんな夢の中で、自分がピーチパイを作ろうとしているのだと気付いて可笑しな気持ちになった。どうせ、彼はまた嘘を吐いて吐き戻す。それが分かっているから夢の中でしか彼に気を回すことが出来ない、そんな臆病風に吹かれる自分が惨めに思えたからだ。
 深層においてはこんなにも明確に答えが提示されている。自分は、彼を許したかった。彼に優しくしたかった。それだけだった。
 アルヴィンがジュードの知らないところで誰かを傷付け続けたことや、多くの裏切り、レイアに向けて引き金を絞った事実は、罪は確かに消えない。例え彼の罪を誰も知らない場所へ逃げたとしても、他でもない彼自身が犯した罪を決して忘れない。だからこそ彼は、とうとう旅の終わりまで罪悪感に苛まれ続けた。これからも、彼は罪と共に生きていくしかない。
 演技上での自己主張らしい自己主張の少ない彼の嗜好はジュードには殆ど知れなかった。そんな中、数少ない本当のアルヴィンーーアルフレド・ヴィント・スヴェントに由来する情報にピーチパイが好物である、というものがある。我ながら分かり易く単純だ、とジュードは自分の夢に呆れた。
 羽音がして、手元の鍋から灯り取りの窓へと視線を移す。そこには一羽のシルフモドキが止まっていた。瞬時に彼の母親の手紙だ、とジュードは思った。それならアルヴィンを呼ばなくてはならない。彼はきっと急いで返事を書くだろうと、そう踵を返しかけてジュードは動きを止めた。
 鳥は、相変わらず窓辺に止まっている。ジュードが見つめていると、小さく首を傾げた。鍋の火は点いたままだ。止めなくてはならない。せっかくのコンポートが焦げてしまう。けれど同時に頭の中の冷静な部分がどうせこれは夢なのだから、とジュードに囁いた。そこに、別な声が被る。その声をなぞるように、ジュードは呟いた。
「誰が何処で待っているの」
 肩越しに振り返る。改めて、黄昏に沈むこの夢は何処なのだろう、と考える。いつもの宿屋の一室とは少し違う気がした。だが、知っている。台所の向こうにはリビングがあって、そこではピーチパイが焼き上がるのを待っている人が居る。これは、そんな幸せな夢だった。

 彼の真意は、相変わらず不透明だ。「母親の為」という最優先事項を欠いた今、判断基準を測ることはますます難しくなった。居場所を無くしたアルヴィンに声を掛けたのは確かにジュードだが、それは彼を独りにしたくなかっただけだ。だからきっと居心地が悪いことこの上ないだろうジュードたちの傍にいつまでも留まりはせず、また持ち前の奔放さでふらりと姿を消すーーそんな予感はあった。だが、そんな予感に反してアルヴィンはジュードたちと行動を共にし続けた。
 結局、旅が終わっても彼の真意は遂に知れることはなく、ジュードは言うべき言葉や示すべき行動を見失ったままでいる。或いは、彼に対して抱いていた感情の在処も解らないままだ。信頼を裏切られ、憎悪を植え付けられ、失意と嫌悪を覚えた。だのに、とうとう諦念を以って彼という存在を黙殺することだけは出来なかった。その理由が分からない。自分自身に対しても、両親に対しても、友人に対しても、ずっとそうやって生きてきた筈なのにあの男だけは諦められなかった。

 一度目はエリーゼの為に作った。旅慣れない内気な彼女に、優しい味を食べさせたくて選んだのがピーチパイだった。フィリングは缶詰めの桃で簡単に済ませてしまったがエリーゼはとても喜んでくれた。だから今度作る時はフィリングから作ろう、とジュードは思った。エリーゼも一緒に作りたい、と言ってくれたので約束をした。アルヴィンは出掛けていて、その時は居なかったように記憶している。大方アルクノアか、取り引きをしたというア・ジュールの参謀と連絡を取り合っていたのだろう、と今にして思う。シャン・ドゥで彼の好物がピーチパイであることを知る前の出来事だ。
 二度目は、エレンピオスでアルヴィンの従兄が住むアパートの台所を借りて作った。約束通り、エリーゼと一緒に水と塩を加えた小麦粉にバターを挟んで伸ばして生地を作り、フィリングも桃を煮詰めるところから始めた。途中で少しバターが溶けてしまったがそれでも初めてにしてはよく出来た、とエリーゼと二人で手を合わせて喜んだ。ローエンの淹れてくれた紅茶と共に舌鼓を打ちながら、ミラはいつも通り一口食べて「美味しい」と顔を綻ばせ、後は口を開く間も惜しいといった様子で黙々と手を動かしていた。今度作る時は私も呼んでよ、と言うレイアをティポがからかう。その様子を楽しそうに笑って見ているエリーゼの隣で、ピーチパイをアルヴィンも突っついていた。ジュードの視線に気が付いて顔を上げた彼は、控え目に微笑みながら「美味いよ」と言った。だから、返す言葉をなくした。隣に居たエリーゼが、嬉しそうに「本当ですか?」とアルヴィンに訊く。彼女がこのタイミングで約束のピーチパイ作りを提案したのは、アルヴィンを思ってのことだと薄々気付いていたジュードは息が詰まる思いでいた。恐らく、アルヴィンもエリーゼの優しさに気付いていたのだと思う。彼女の頭を撫でながら、同じ言葉を繰り返したからだ。その後、一人トイレに籠もって嘔吐を繰り返す扉の向こうの彼を、ジュードは責めることが出来なかった。彼の嘘を、咎めることが出来なかった。

 鳥の羽音に覚醒を促された。肌寒さに身震いを一つして、うつ伏せの身体を起こす。肩からアルヴィンのコートがずり落ちた。
 目蓋が腫れている気がする。もしかすると、顔全体が浮腫んでいるのかも知れない。頭の痛みは相変わらずで、胃も酷く重たかった。
 朝靄に霞む一帯をジュードは見渡した。雲海は黄金色に輝いていて、空は美しい薔薇色をしている。
 また、羽音がした。白い息を吐きながら振り返る。舞い降りた鳥が、肉を啄んでいた。翼を広げれば二メートルにもなりそうな大きな黒い鳥で、首から頭に掛けての毛が異様に少ない奇妙な風体をしていた。その鳥が、無数に、腐肉を奪い合って群がっていた。黒い羽が舞い散る傍ら、母親の頭を無造作に掴み立ち尽くすアルヴィンをジュードは見留める。声を掛けようかーー逡巡するよりも先に、彼は頭を地面の上に置いて頭皮を剥ぎ取り始めた。長く伸ばし、適当な大きさに切り分けると鳥の群がる中心へと放り入れる。それから、残った頭蓋を石で砕き始めた。
 朝の冷たい空気を鈍く硬質な音が震わせる。不思議とその音に嫌悪感のようなものはなく、ジュードは頬杖を突いてツァンパと砕いた骨を丸める男をぼんやりと眺めていた。コートもスカーフも取り払った彼はいつもより薄着である筈なのに、身体を動かしている所為なのか特に寒そうには見えない。眠りに落ちる前に煽りあった熱の名残も感じさせず、アルヴィンは淡々と母親の最後の一欠けさえも丸めきり鳥に託した。
 欠伸を噛み殺し、目を擦る。アルヴィンが花と砂利を踏みつけながら近付いてきた。おはよう、と掛けた声は掠れていて彼はまた露骨に眉根を強く寄せた。だが、溜め息一つの間にその表情は何処か困ったような笑みにすり替わる。
「おはよう、ジュード君」
「うん。……鳥、来たんだ」
 訪ねると、彼は水筒の水で手を濯ぎながら気のない相槌を返した。
「何とかな。これで帰れるぜ」
 頭の後ろで腕を組むと、空を仰ぎながらアルヴィンは言った。疲労は勿論だが、実際ずっと死体を弄くり回していたアルヴィンは酷い臭いがする。だからジュードは、先ず身体を流すべきだよね、と言って笑った。
「お前なぁ……」
「だって臭いんだもん、アルヴィン」
「……そんなこと言って、俺に負ぶわれて帰んなきゃいけない、って解ってて言ってんのジュード君?」
「うん。八つ当たり」
 腰を下ろしながらアルヴィンは、この野郎、と言ってジュードの頭を小突いた。だが、振られた頭の痛みよりも近くなった腐臭と体温に、ジュードは鳥を眺める姿勢はそのままに身体を強ばらせる。肩が、彼の二の腕辺りに触れていた。寒くないか、と訊かれて頷く。アルヴィンの方を見ることは出来なかった。
「何つーか……圧巻だねぇ」
 固まった子供の真意を汲み損ねた男は、同じように鳥を見やると呟いた。
「……そうだね。凄いね」
 身体を強ばらせたまま、ジュードは言った。彼の、二十年を食い散らす鳥を眺めながら言った。
 指先に、触れるものに気付く。冷たく乾いた彼の手だ。認識するより先に控え目に指先を絡め取られた。だが、力を込めるのはジュードの方が早かったように思う。
 ゆっくりと熱の境界がなくなっていくのを感じながら、鳥を眺める男の横顔に目をやった。彼は地平線に滲む陽の光に、眩しそうに目を細めていた。すぐにまた視線を真正面に戻して鳥を眺めながら、掛ける言葉の代わりに繋いだ手を強く握り直した。喉を鳴らしてアルヴィンが笑う。その肩に頭を預けて、ジュードは隣に座る男にもたれた。
「何か、ピーチパイが食いたいなぁ」
 え、とジュードは顔を上げる。密着していた身体が離れて、その隙間に流れ込む空気が冷たい。だが、指先はまだ絡み合ったままだ。鳥達は肉を奪い合いながら、煩く鳴き立てていた。
「……じゃあ、今度食べに行こうか」
 赤銅色の視線が降りてくる。二度、ゆっくりと瞬いて彼は心底不思議だとでも言うように首を傾げた。
「お前作れよ。腰痛ぇし」
 忌々しげに吐き捨てて、彼は顔を背ける。抜けた主語を頭の中で補完しながら、今度はジュードが首を傾けた。答えは出ない。彼が腰の痛みを主張するように、ジュードの身体もあちこち不調を訴えていたので何だか自分だけが責められているような気がするのは不当だなぁ、と思ったくらいだ。だから、目覚める前の鳥と黄昏の夢から連想された記憶も相俟って、ただ彼の希望を叶えてやるのは癪だった。何か皮肉の一つも返してやろう、そんなことを考えながらジュードは熱を預けたまま鳥を眺める。まだ少し、人型を備えた肉が蠢く黒い鳥達の合間から覗き見えた。
 指先だ。肉がまだ少し残っている。爪が剥がれて、砂利に埋もれる。手の中の絡めた冷たく乾いていた筈の指先が、気が付くと少し汗ばんでいた。痛い程に強く握り締められている。同じ光景を彼も見ている。その事実が、何故だか酷く尊いことであるように感じられてたまらなくなった。
 目を伏せて、俯く。握り締めてくる手の力が緩んで、すり抜けた。すかさず絡め取って握り締めると、隣で身じろぐ気配があった。きっとこの男はまた面倒くさい勘違いをしているに違いない、と思った。けれど、顔を上げることはしない。彼の視線を感じる。だから、ジュードは俯いたまま緩く首を横に振った。
 ごめんな、と声が降る。また、ジュードは首を振った。もう聞いた。もう要らない。言いながら、首を振る。
 「俺が悪かったんだ」鳥の鳴く声と羽音の合間を縫って、男は言った。「全部、俺が悪い」
 もう黙ってしまえばいいのに、とジュードは思った。そうでなければ鳥達が、もっと大きな音を立てて彼の母親を咀嚼すれば良い。断罪を望む声など掻き消されてしまえば良い。
「……そうだよ。こんなとこまで連れてきて」
 顔を上げて呟く。それから、肩に手を掛けて彼の頬に唇を寄せた。
「ついて来いなんて言ってねぇからな、俺は」
 忌々しそうな男の声が降ってきて、ジュードは鼻の頭をかじられる。肩に置いた手を反射的に外して鼻先を抑えた。顔が熱い。
「ついて来るな、とは言われなかったよ。戻れとも、待ってろともアルヴィンは言わなかった」
 手指の間から零すように、ジュードは言った。もう一方の手は、引き留める強さで彼の手を握り込んだままでいる。
 「……ああ。言わなかった」ジュードの手を握り返しながら、アルヴィンが言った。「一緒に来てくれて、ありがとな」
 眉根を寄せて、歯を食いしばった。微笑む彼を直視出来ずに顔を逸らす。馬鹿な男だ、と呆れるばかりで返すべき言葉が見つからなかったからだ。けれど言われたままでいるのがどうにも癪で、結局アルヴィンの唇に噛み付いた。

 鳥が飛び去るのを見届けて、ジュードとアルヴィンは山頂を後にした。幾らかの骨の欠片が風にそよぐ花の合間に残っていたが、ものの見事に人一人分の痕跡は消え去っていた。
 彼の背に負ぶさり下山している間のことはよく覚えていない。頭痛は相変わらずだったが、吐き気は大分収まっていた。ただ、呼吸回数が減ることを避けて浅い眠りが続いた為に、酷く眠たかった。対して、アルヴィンの足取りは驚く程軽かったように思う。けれど常日頃から大剣を片手で振り回し、死体を担いで山を登るようなこの男にとってはジュード一人くらい大した重さに感じないのかも知れない。途中までは何かしらぽつりぽつり会話をしていた記憶がある。これからどうするの、とジュードが訊けば取り敢えず従兄を訪ねると返され、その後のことはまだ考えてないと彼は付け加えた。頬に、柔らかい鳶色の髪を感じながら、ジュードは目を閉じた。
 「いいんじゃない?焦らなくても」鋭利になった感覚で彼の匂いと体温を捉えながら囁く。「迷ってもいいよ……最後には逃げないでくれるって信じてるから」
 少しの間を置いて、彼は溜め息を吐いた。それから、身じろいでジュードを背負い直す。
「そういうお前はどうすんだよ。源霊匣の研究するにしたって、何から取っ掛かるつもりだ?」
 体勢が変わって、アルヴィンの顔がより近くなった。
「そうだね。源霊匣の研究もだけど、ピーチパイの研究もしなきゃ」
 そう呟いた頃の記憶は、殆ど朧気にしか残っていない。源霊匣と同列とは恐れ入るね、と笑みを含んだ声が返される。夢現に揺れる背中の体温が奇妙に懐かしく感じられた。
 そうして次に意識が浮上したときには、ジュードは寝台の上に横たわっていた。異国でありながらも懐かしい薬品の匂いが鼻腔に届く。視線を巡らせれば、ぶら下がる点滴がすぐに目に留まった。その向こう側には開け放された窓があり、祈念布が風に揺れていた。アルヴィンは部屋の中の何処にも居なかった。
「高地肺水腫です」
 開口一番、部屋に入って来た白衣の男は言った。彼はシャン・ドゥの治療院の医師で、ジュードは日付が変わって少しした頃に運び込まれたのだという。真夜中に起こされた所為か医師はぶっきらぼうな口調でジュードの症状を責めた。仕舞には隣りに控えていた看護士の女性が、同情するような微笑みをジュードに向けてきた程だ。
 低酸素症の自覚はあったがここまで状態が悪化していると思っていなかったジュードは、三日間の入院を経て治療院を後にした。見舞いに来てくれたユルゲンスとの会話を思い出しながら、石造りの街並みを歩く。
 突然現れた知人に動揺を隠せずにいるジュードに、ユルゲンスはあの人の良い笑顔で以ってアルヴィンからシルフモドキで連絡を受けたことを教えてくれた。下山の際、船頭に迎えの鳥を飛ばすと同時にアルヴィンは彼にも治療院の手配を頼んでいたらしい。その後シャン・ドゥに着く頃にはすっかり意識のなくなっていたジュードを二人掛かりで治療院へ運び、その際アルヴィンはそれはもう酷く医師からお叱りの言葉を浴びせられたのだという。
「だから、会いたくても会いにこれない彼の代わりにこうして私が出向いたんだよ」
 曇りなく綺麗に微笑みながら、ユルゲンスは言った。だが、アルヴィンが自分の見舞いに来ない理由はそんな可愛らしいものでないとを知っていたジュードは、曖昧に感謝と謝罪の言葉を告げることしか出来ない。アルヴィンとの間にある鬱屈としたもの、確執や溝を上手く説明するのが難しいからだ。ただ、これでまた逃げられてしまった、とジュードはそれを少し残念に思う。ユルゲンスから、遺品の整理はジュードが治療院に運び込まれた次の日には終わったことを知らされたからだ。
 少し時間を取られたが当初の予定通りニア・ケリアへと向かう為、船着場へと向かう。途中、今一度アルヴィンが母親の為に用意した部屋の窓を見上げた。風に揺れる祈念布の間から、窓の縁に鳥が止まっているように見えたが逆光でよく判らなかった。
 暗がりから川岸へと延びる階段を下り、船着場へと向かう途中その背中を見つけた。思わず、ジュードは足を止めた。積み上げられた木箱の一つに腰を下ろして、川を眺めている。厚手のコートを羽織り、ブランド物だというスカーフを締めた男の姿はとてもよく目に馴染んだ。
「アルヴィン」
 名前を呼ぶと、肩越しに彼が振り返り目を細める。服装だけでなく前髪もきちんと撫で上げられていて、すっかりジュードのよく知るアルヴィンだった。ただ、その挙動だけが腑に落ちない。
「……もう行っちゃったかと思ってた」
 歩みを再開しながら、ジュードは言った。腰掛けたままのアルヴィンを見下ろす。
「ありゃ。おたくの中で俺ってばそんなに薄情なわけ?」
「そうは言わないよ。寧ろ情は深いんじゃないかな。逃げ癖があるけどね」
 思わず零れた笑い声と共に言うと、アルヴィンは無言で肩を竦めた。その脇をすり抜けて、船着場へと向かう。その途中、僅かにだが歩調を緩めた。少しだけ迷う。だが、結局振り返ってしまった。アルヴィンはまだその場に座っていて、ジュードの方を見ていた。必然的に目が合って、思わず視線を足元に落とす。怪訝そうな彼の気配を感じて、ジュードはますます言葉を詰まらせた。
 顔を上げると、腰を浮かせて立ち上がりかけたアルヴィンと矢張り目が合う。まだ本調子じゃねぇんじゃねぇの、と彼は呆れた様子で苦笑混じりに言った。
「でも今度は、逃げないでいてくれたんだよね」
 ジュードの身を案じるように延ばしかけたアルヴィンの手が動きを止める。その行き場をなくした手を、すかさず捉えた。「何、それ」と彼は投げ遣りに笑って言った。
「うん。逃げそびれたついでに、今度は僕に付き合ってくれないかな、って話」
「……俺も一緒にニア・ケリアに行けってか?可愛い女の子二人もふっといて、悪い男だなジュード君」
 呆れた、とでも言うようにアルヴィンは喉を鳴らす。茶化さないでよ、とジュードは頬を膨らませた。
「いいんだよ、アルヴィンは。だって、ニア・ケリアに初めて行ったとき一緒だったでしょ」
 右も左も分からない異国での旅の空の下、確かに後悔はあったが強い不安はすぐに消えてなくなった。それはきっと、力強いミラの言葉と眼差しがあったからだ。そして、その隣にはジュードを危機から救ってくれた彼が居た。二人が一緒だったから、ジュードの旅は辛いだけではなかった。三人が一緒だったから、辿り着いたニア・ケリアの空がとても美しく見えた。
「分からない?……同じ思いを共有出来るのが、アルヴィンくらいしか居ないんだよ」
 だから一緒に行こう、とジュードは言った。アルヴィンは笑みをひそめて、視線を流れる川へと向ける。ジュードは、握り返されることのない手を見つめていた。山頂で絡め取った、彼の手の冷たさを思う。手袋越しの体温は遠い。
 不意に、繋いだ手を強く引かれた。虚を突かれたジュードは前のめりに一歩を踏み出して、そこですかさずアルヴィンに引き寄せられる。肩の上に重みと温もりを感じ、彼の吐息が落ち掛かるジュードの前髪に触れた。肩を組まれると、いつもそうだった。
「で、報酬は?」
 悪戯っぽく、彼は笑った。思わずジュードも吹き出して、額をアルヴィンの胸元に押し当てて笑う。
 「急に言われても、お金なんてそんなにないよ」身体を離しながら、ジュードは言った。「でも、そうだね。ピーチパイの材料くらいは買えるんじゃないかな」
 手は、まだ繋いだままでいた。促すように引くと「それで手を打つとしますか」とアルヴィンは言って肩を竦め、空を仰いだ。ジュードが手を引くままに歩き出す。上ばかり見てると危ないな、とジュードは思った。
「あ」
 注意しようとしたところに気の抜けた彼の声がして、思わず立ち止まる。振り返るとアルヴィンは相変わらず空を見上げていた。
「鳥だ」
 彼の視線を追い、ジュードも空を見上げる。矢張りさっきの鳥は見間違いではなかったのだな、と強く握り返された手に口元を綻ばせながら思った。

11.30.09:28

鳥をまつひと3

 空へ向けて真っ直ぐに伸ばされた指先から、羽音を立てて一羽の鳥が飛び去っていく。ジュードは鳥を放った男の背を見るともなしに眺めていた。
 頭痛が少し治まった代わりに、息をする度に胃が重く沈むような感覚を覚える。耳鳴りも酷い上に、無神経な蝿たちが相変わらず耳元を煩わしく飛び交っていた。正確には、座り込むジュードの傍らから漂う死臭に集っている。
 母親の死体を綺麗に麻布の中へと戻してしまうと、アルヴィンは鳥葬の為に山を登る、と言った。近くに在るそう高くない山で、地元の人間なら半日程で登りきってしまえるらしい。シャン・ドゥの住人の多くがその山の山頂で鳥葬を行う。素人だし倍はかかるかな、とアルヴィンは言った。そこで、ジュードが舟の船頭が迎えに来てくれることを伝えると、彼は怪訝そうな眼差しを向けてきたが結局吐息を一つ零しただけだった。それから、彼の鳥ーーシルフモドキに船頭の霊視野を覚えさせてある、と言ってアルヴィンは紙片に筆を滑らせた。
 耳元を飛び交う蝿を追い払うジュードの方へ、鳥を飛ばした男が緩慢な足取りで近付いてきた。辺りは黄昏を孕み始めた空を背にするその表情は、少し判りにくい。
「おたく、マジでついてきちゃうわけ?」
「今更それを訊く?シルフモドキ、飛ばしちゃったのにさ」
「だけどジュード、お前……」
 アルヴィンの紡ぐ言葉を最後まで耳に入れる前に立ち上がる。或いは、アルヴィンが言い淀んだのかも知れない。何にせよ先に続く言葉は容易に予想出来たので、最後まで聞くつもりがなかったのは確かだ。立ち上がった拍子にまた頭の痛みが増した気がして眉根を寄せる。そんなジュードの様子に彼がどんな感情を読み取ったのかは解らない。ただ、ジュードの思惑通り一度は途切れた先の言葉を、アルヴィンが続けることはなかった。
「……誰も居ない川辺で一人で居るなんて僕は嫌だからね、アルヴィン?」
 それ以上に、アルヴィンを独りでなど行かせたくはなかった。ただ、本当のことを言うと彼は良い顔をしないだろうな、とジュードは思った。だから言わなかった。
「それで、山に登ってどうするの?」
 一度、深く息を吸ってからジュードは言った。アルヴィンは何かまだ言いたそうに頭を掻いたが、結局ジュードの足元に屈んだだけだった。
「山頂で死体をバラして、鳥を待つ」
 死臭のする麻布の包みを右肩に軽々と担ぎ上げながら、アルヴィンはジュードの問いに答えた。思わず、彼のコートの裾を引く。
「アルヴィンがやるの?」
「おたくにやらせるわけないでしょーよ」
「そうじゃないでしょ、アルヴィン」
 語気を強めてジュードが言うと、彼は少し怯んだように顎を引いた。だからジュードも思わず引いてしまった彼のコートの裾を離した。
「鳥葬師が捕まらなかったんだ。こればっかりはな……急な話、ってのもあるけど断界殻が消えて霊勢の偏りがなくなった所為か、鳥が読めなくなっちまったとかでことごとく全滅だったんだわ」
「もうそんなに、リーゼ・マクシアに影響が出てるなんて……」
「そ。だからこんな混乱した状態じゃ、アポもない俺の依頼は受けられないってことなんだろ」
 意図的に、であるのかは判らないが彼の声音は随分と明るいものだった。行くんだろ、とジュードの背中を叩いて歩き出す。その後を、少し遅れて小走りに追い掛けながらジュードは問いを重ねた。
「ねぇ、大丈夫なのアルヴィン」
 足がもつれて重い。ほんの少し走っただけなのに、呼気が乱れる。そんなジュードをアルヴィンは足を止めて待っていた。大丈夫じゃねぇのはお前だろ、と言って溜め息を吐かれた。けれど、待っていろとも帰れとも言われなかったので、呼吸を整えながら彼の隣りに並んだ。
「……まぁ、大丈夫なんじゃねぇの。前に人手が必要とかで手伝ったこともあるから、手順や要領も分かってるしな」
 ジュードの息が整ったのを待って、アルヴィンはまた歩き出した。だが、その足取りは先程より幾らも緩慢だ。走るとコケるぞ、と肩越しに言われたので大人しく歩いて彼の背を追う。
「それもアルヴィンが今までやってきたっていう『汚い仕事』のひとつ?」
 そういう意味で訊いたんじゃない、と喉元まで込み上げた言葉をジュードは飲み込む代わりに軽口を叩いた。軽快な笑い声と共に、アルヴィンは肩を揺らす。それから、死体の処理なんて「汚い仕事」の内にも入らないさ、と彼は言った。
 その後も何度か彼の殊更緩やかな足取りに、それでも遅れながらジュードは歩いてついていった。アルヴィンはその都度立ち止まってジュードとの足並みを揃えて水分の補給を促した。差し出された水筒を素直に受け取って喉を潤しながら辺りを見渡すと、薄紅色の空が徐々に彩度を落とし始めていた。木々は益々疎らになり、身体に吹き付ける横殴りの風ばかり随分と強くなったように感じられる。前を歩く男が、そんな風からジュードを庇うように歩いていることにも気がついた。そういえば、旅を始めて間もない頃はよくこんな彼の背中を見ていた気がする。旅慣れないジュードやミラをその背で庇って、彼はいつも数歩先を歩いていた。やがて隣りに並び前線を駆るようになると、寧ろ先陣をきるように戦場を走るジュードの支援が多くなったアルヴィンの背を目にすることは殆どなくなった。
 途中、アルヴィンは何度か肩を揺らして麻布の包みの位置を直した。そう辛そうな様子ではなかったが、長時間一点に重みが架かるのは彼でも負担になるのだろうな、とジュードは思った。
 深い呼吸を心掛けながら歩を進めていると、また一つ男が身じろぎをした。その拍子に麻布の包みが僅かながら解けて、隙間から腕が落ちた。アルヴィンが舌打ちをしながら足を止める。拾おうと振り返る彼を制して、ジュードはその足元に屈んだ。奇妙に柔らかく張りを失った肉が、指の間に入り込んでくる。あまり強く握ると崩れてしまいそうな危うさがあった。慎重に拾い上げると、腐肉と骨の覗く断面からはらはらと小指の爪程の大きさの蛆が零れて落ちた。
「悪いな」
 アルヴィンが手を伸ばしてきた。ジュードは首を横に振る。
「いいよ。また落としちゃうかも知れないし、僕が持つよ」
「……あんま気分のいいもんじゃねぇだろ」
「何言ってるの。僕、医学生なんだよ?」
 ポケットからハンカチを出して、丁寧に彼の母親の腕を包む。少しはみ出たが、これくらいならば問題はないだろうとジュードが満足して頷くと諦めたのか彼は風にかき消されてしまいそうな程小さな声で「好きにすればいいさ」と言って背を向けた。その背中に「好きにするよ。ずっと好きにさせてくれてるくせに」とジュードは声を投げた。
 「……もう少し行くと山小屋があるから、そこで包み直す」心底忌々しそうに彼は告げた。「そうしたら、今日はもう歩かない」
 確かに、辺りはもう随分と暗くなり始めていた。シャン・ドゥの一帯は霊勢の偏りの為に一年を通して夕暮れに包まれていたが、断界殻が解かれたことによってごく僅かな時間だが朝や夜が訪れるようになったらしい。やがてその時間も長くなりリーゼ・マクシア全体の霊勢も安定するだろう、と言っていたのは確かローエンだった。それだけに今までの霊勢の移り変わりは当てにならない。だから、アルヴィンの提案は尤もだ。けれどジュードは何となくそれが気に入らないな、と思った。或いは、後ろめたさのようなものがそこにあったからなのかも知れない。
「……まだ歩けるよ」
 気がついたら口に出していた。当然のことながら、アルヴィンは怪訝そうな視線をジュードに向けた。
「俺が疲れたんだよ」
「嘘。嘘吐き。アルヴィンっていつも嘘ばっか。嘘だよ」
 首を横に振る。頭が痛かった。蝿が煩い。風の音かも知れないがどちらでも構わなかった。耳鳴りがして、吐き気がした。
「……お前、取り敢えず落ち着け。水飲めよ」
「嫌だ。さっき飲んだ」
 彼の母親の腕を抱え込んで、ジュードはその場にうずくまった。俯いてしまったのでアルヴィンの表情は見えなかったが、困っているのは気配で判った。違う。困らせたいわけじゃないんだ。助けになりたいんだ。頼って欲しいんだ。そんな感情がぐるぐると渦巻くけれど、息が苦しくて言葉にならなかった。置いて行かれるかも知れない、と急に奇妙な不安に襲われて泣きたくなった。彼が盛大な溜め息を吐いた所為かも知れない。
「ジュード」
 名前を呼ばれた。顔を上げるよりも、返事をするよりも早く、アルヴィンに腕を掴まれた。そのまま力任せに引かれて、自然と腰が浮いた。彼の母親の腕を落としてはいけない、とジュードが慌てている間に水筒を押し付けられる。少し迷ってから、ジュードは水筒を受け取った。その時、彼のあからさまな安堵の表情を見てしまって何も言えなくなった。空いた手で彼はコートのポケットを探り、飴玉を二つ取り出すとジュードの手に握らせた。
「飲み終わったら行くぞ。歩きながら舐めてな」
 離れ際に、頭を柔らかく一撫でされる。ジュードが水筒の中身を飲み干したのを見届けるとアルヴィンはまたゆっくりとした足取りで歩き出した。言われた通り飴玉を一つ口に放り込んでジュードも後を追った。風が随分と冷たくなってきたように感じられて、彼の巻いてくれたスカーフを巻き直した。まだアルヴィンの匂いがする。腕の中には相変わらず彼の母親の一部があって、それが何故だかとても不思議だった。

 言葉通り、十分程歩いた所に無人の山小屋が建っていた。宿泊を目的にしたような施設ではなく本当に中継地の単なる休憩所といった風体の質素な石造りの小屋だったが、中には毛布やストーブが備え付けられていて外で野宿することを思えば上等だった。かなり暗くなっていたので周囲の様子はよく解らなかったが、吹き付ける風の相変わらずの強さから遮るものが辺りにないことが知れた。アルヴィンはジュードから母親の腕を受け取ると、先に小屋に入って火をおこすように言った。外で包み直すつもりらしい。気を遣われているな、と感じてまた先程の言い知れない不愉快さがこみ上げてきたが、もう彼を嘘吐きと罵る気も起きなかったので大人しく山小屋の中に戻った。
 小さい窓が一つあるだけの小屋の中は外よりも一段と暗く、ジュードは手探りでストーブまでたどり着くと火をおこしに掛かった。幸い空気が乾燥していたこともあって、火はすぐに点いた。部屋の中が暖まり始めたところで、改めて備え付けられている備品を調べる。毛布だけでなく寝袋や缶詰め、茶葉に加えてポータブルストーブなども揃っていた。アルヴィンとは違い山に登ることになるとは思ってもいなかったジュードは、勿論何の準備もしていない。これ以上彼の負担になるわけにはいかなかった。そこまで考えてふと、缶詰めを物色していた手をジュードは止めた。
 負担になっているのは、間違いない。アルヴィンは、ずっとジュードに気を遣っていたように思う。風から身を呈してジュードを庇い、努めて緩やかに歩を進めた。一人だったら、アルヴィンはもう山頂に辿り着いていたかも知れない。だが、決定的な一言を彼は口にしない。或いは、医学生であるジュードが何も言わない為に、ハ・ミルでの出来事を境に彼が患い続けている病がそうさせているのかも知れない。だとしたらそれはそれで業腹なことだ、とジュードは思ったが何にせよここに来て彼の考えが全く読めなくなってしまった。ただ、これまでのアルヴィンの様子から素人判断ながらもジュードの状態を把握しているということは解る。そして、その諸症状への対処も的確に彼は行っていた。それらの結果から察するに、次に彼はきっと山小屋での待機か下山を言い渡すのだろうな、とジュードは思った。歯噛みをする。事実を突きつけられても、断る言葉が思い付かなかったからだ。最悪、アルヴィンも一緒に山を下りると言い出しかねない。それだけは何とか避けなければ、と思うと矢張り自ら彼に申告するのが妥当なところだ。
 豆を煮たスープの缶詰めを二つ手に取ると、ジュードはストーブの近くへと戻った。缶切りで蓋を開けて火に掛けているそこに、アルヴィンが戻ってきた。外気が吹き込んでその温度差に肩を震わせると、彼は慌てて扉を閉めた。
「悪い」
「ううん、平気。外、大分寒い?」
「だな。やっぱ今日はこれ以上はキツいって」
 両手を擦り合わせながらストーブの前へとやってきたアルヴィンの為に脇に避ける。彼は火に向かい暫く手のひらをかざした後、手袋を外した。そこでふと気になってジュードは背後を窺った。次いで、周囲を見渡す。隣から「どうしたよ、優等生?」という声が湧き上がったので、そこでやっとジュードはアルヴィンの方を見た。目が合う。
「あれ?……お母さんは?」
「外に置いてきた。あっちのが寒いし」
 言ってから、彼はゆっくりと炎に向き直った。それから火にかけられた缶詰めを見て、これだけじゃ足りねぇかもなぁ、と言った。結局彼は自分の分とジュードが半分程残した缶詰めを平らげて、その後も物足りないと言って携帯食をかじっていた。その際の食欲のないジュードへの言及は特になかった。だからジュードもそれに甘えて、とうとう自分の症状を言い出せなかった。ただ、彼は相変わらず水分の摂取を要求し続け、食後にバター茶を淹れてジュードに渡した。一杯目は良かったが、カップが空になる度に注いできて最終的に体調不良の所為で気持ちが悪いのかバター茶の所為で気持ちが悪いのか判らなくなってしまった。正確な時間は鐘の音が聞こえない場所だったので解らなかったが、ジュードが頻繁に目を擦り始めるとアルヴィンに眠るよう促された。
「アルヴィンはまだ寝ないの?」
「いや、俺ももう寝みぃわ流石に。でもその前に荷造りだけ済ませちまうから、おたくは先に横になれば?」
 アルヴィンに毛布を手渡される。少しカビ臭い。
 酷く身体が怠いのは確かだったので、言われた通り横になると胃の中がかき回されて喉元までさっき食べたスープがせり上がってくる気がした。息を詰めてやり過ごすと、手足を縮こまらせて毛布にくるまる。すると何だか急に不安になった。思わず、口を開く。
「置いて行かないでね、アルヴィン」
 言ってから、後悔した。後悔してから、今更だと思った。彼に言おうと一度は決めた筈なのに、馬鹿な話だと自身にほとほと呆れた。けれど、ゆっくりと振り向いたアルヴィンの顔を見たらそうした諸々はすぐに消え失せた。浮かんだ表情こそ乏しかったが、彼は酷く驚いているように見えたからだ。だからジュードは、矢張り彼は足手まといの自分を残して黙って行ってしまうつもりだったのだろうな、と思って少し悲しくなった。置いていかないで、とジュードは繰り返した。独りにならないで、と祈るような心地で呟いた。それらの言葉に彼が返した答えをジュードは知らない。答えを待つより先に、意識が深く沈んでしまったからだ。
 眠りは浅く、ジュードは目を覚ました。その都度アルヴィンの姿を探そうとして視線を巡らせようとするのだが、姿を捉えるより先に手のひらで視界を覆われてしまう。夜明け前なんだからまだ寝てろ、と囁いてカップに注がれた水をジュードに飲ませた。何度目かの覚醒で空が明るんできたことが知れ、状態を起こそうとしたらむせた。咳き込んでいると、横になってるのが辛かったらもたれてろ、とアルヴィンは言ってジュードを背中から毛布ごと抱え込んだ。
「ちゃんと、寝てる?」
 重たくなる目蓋を押し止めながら、ジュードは訊ねた。寝てるさ、と耳元で声がする。背後からジュードを抱きすくめる彼が、額を肩に押し当ててきた。
「ちゃんと寝てるから、お前も寝ろ」 嘘吐き、と呟いてジュードは笑う。それからアルヴィンに体重を預けて目蓋を閉じた。彼の体温を追う。その後は意識が浮上することも夢を視ることもなかった。

 寒さで覚醒した。だが、目蓋は重くなかなか開かない。それでも、頬に感じる外気が冷たくて身震いする。そこで、ジュードは一息に目を開けた。
 アルヴィンが居ない。
 壁にもたれたまま小屋の中を見渡す。昨晩使用した機材は既にしまわれていた。寝る前に荷物をまとめる、と言っていたのでそのとき一緒に片付けたのかも知れない。
 一瞬、矢張り置き去りにされたのだろうか、と脳裏に浮かんだ。だが、すぐに否定する。根拠のようなものはなかったが、今一度ジュードは彼を疑うようなことをしたくなかった。彼を信じたかった。それに、まだアルヴィンのスカーフはジュードの襟元に巻かれたままだった。
 立ち上がるが、足元は安定しない。昨日より更に状態が悪くなっている。動いたことで頭が痛みを訴えた。咳き込むと、錆の味が口の中に広がった。だが、ジュードは何度か深い呼吸を繰り返すと毛布を肩に引っ掛けて小屋の外に出た。
 朝陽が目に突き刺さる。切り立った崖の向こうに菫色に染まった空の色と、昇る朝陽の光を淡く映し込んだ雲海が広がっていた。昨夜訪れた時には辺りも暗くなっていたので判らなかったが、かなりの高さまで登ったようだった。
 傍らを見ると丁寧にまとめられた麻布の包みが目に留まる。だから、まだ彼が近くに居るのだという確信が得られて安心した。
 風が強く、毛布が浚われないようにと抑えながらジュードは山小屋の周りを歩いた。何か意味があるのか、ところどころに奇妙な紋様の描かれた石を積み上げた塚が立ち並んでいる。丁度小屋の陰になるところに井戸があって、まだ新しい水を汲んだ後が残っていた。改めて辺りを見渡すと、空に向けて片腕を高く突き出したアルヴィンを見つけた。鳥の羽ばたく音がする。シルフモドキだ。黄金色に輝き菫色の滲む雲海へと消えるその姿を見届けると彼が振り返った。すぐに目が合う。アルヴィンは少し驚いた様子で目を見開いたが、それもほんの一瞬のことで低く唸るような声でジュードの名前を呼んだ。
「お前……起きたのか」
「寒くて目が覚めたんだよ」
 彼は黙って手指をジュードの額に寄せた。長く外に居たのか、手袋を外したその指先はかさついて冷え切っていた。指は額からこめかみへと滑り、そのまま頬に手のひらを添えた彼は、熱いな、とだけ言った。或いは、続く言葉があったのかも知れない。ただ、先にジュードが口を開いた。
「シルフモドキってこんな高度まで来られるんだね」
 彼はすぐに答えなかった。逡巡は、ジュードの投げた問い掛けに対するものではないと知れた。けれど、結局アルヴィンは小さく顎を引いて「そうだな」と言った。
「風の精霊術で気圧を制御してるみたいだから、こんくらいはな」
「そうなんだ。……えっと、それで?今の、船頭のお爺さんから?」
「ああ。また鳥を飛ばして連絡寄越せってさ」
 言いながらアルヴィンはジュードの頭をかき混ぜて、それから背中をそっと押した。
「戻ろうぜ。ずっと外に居たから寒ぃ」
「出発は?」
「……飯食ってから」
 促されるままに山小屋に戻ると、彼はバター茶を淹れながら何を食べるかジュードに訊いた。食欲がなかったジュードは何と答えるべきか、と言葉に詰まったがアルヴィンが「食べたくなけりゃ食わなくていい」と言ったので頷いた。ジュードがアルヴィンの淹れたバター茶を飲んでいると、彼も面倒だったのか携帯していた皮袋から粉を掬い取るとバター茶と混ぜて練り合わせそれを食べるだけに済ませた。見慣れない食べ物をジュードが不思議そうに見ているとア・ジュール原産の麦を轢いたツァンパという粉で、シャン・ドゥでは一般的な携帯食なのだと教えてくれた。
 出発前、少し腹が下った。眩暈は酷く、風の音よりも耳鳴りの方が大きい。だが、それらの不調をアルヴィンに伝えることはせずに、山小屋を発った。
 山頂へと続く道の足場は悪かった。ニア・ケリア山道とは異なり、閑散と広がる赤茶けて乾いた大地に小石ばかりが転がっている。土は堅く、靴底を通して足の裏に冷気を感じた。俯いて登るジュードの足元には、緑も陰もない。砂を孕む風に、何度か倒れそうになった。吐き気と眩暈は治まらない。目が霞んで、酷く寒かった。耳鳴りに全ての音を奪われて、そのくせ自分の息遣いばかりがいやに大きく鼓膜に届く。吐息が熱い。自分が確かに歩けているのか、彼について行くことが出来ているのか、不安になってジュードは顔を上げた。岩肌と、見たこともないような青い空とのコントラストが美しい。だが、アルヴィンの姿を見留めることは出来ない。そう思い至った瞬間、足を石に掬われる。倒れる、と身構えるより先に二の腕を強く掴まれた。アルヴィンだった。ジュードの背中側に腕を回して脇の下から押し抱えるように通すと、そのまま歩き出す。
「一人で歩けるよ」
 身じろぐが、体格に見合ったアルヴィンの力は強く、解けない。仕方なく、ジュードは「水が飲みたい」と言った。彼の手が緩むと、その隙に突き飛ばす勢いでアルヴィンの胸元を強く押した。腕は解けたが、振り払った筈の男は麻布の包みを抱えた状態であるにも関わらず僅かにバランスを崩しただけで踏みとどまった。だが、彼を気にかける余裕はジュードにはなかった。アルヴィンから少しでも離れようともつれる足で、二度、三度と踏み出すが結局膝をついてしまう。それでも立ち上がろうとしたそこへ、ジュードの名前を鋭く呼ぶ声がした。何かが落ちる音と、足音を聞きながら、咳き込むジュードは込み上げる胃液に耐えきれず吐いた。視界が涙で滲む。鼻の奥が痛んだ。うずくまるジュードの背中を、駆け寄ったアルヴィンがさすった。
「触らないで!」
 胃液で灼ける喉で、それでもジュードは声を振り絞り叫んだ。一瞬、怯むように背に触れていた体温が離れる。けれどその手はまたすぐにジュードの背中を案ずるようにさすり始めた。その間にも何度かむせて、咳き込んでいるのか吐いているのか判らない。さする彼の手を払いのけようとして暴れると、手首と腕を掴まれた。
「落ち着けって!」
 本当に、その通りだと思った。昨日からーーアルヴィンと再会してから、ずっと何かが可笑しいと思ってはいた。けれど、その理由は分からない。彼の真意も分からない。だから怖かった。ままならない身体と、不透明な彼の意図に、不安ばかりが増していった。
 恐らくはジュードの為に取り出し掛けたのだろう水筒が滲む不鮮明な視界に入り、手を伸ばす。自分の置かれている状態などとっくに知れていた。どうすればいいのかも解っている。アルヴィンの手を煩わせるまでもない。だのに彼は口煩く水を飲むことばかりを要求してくる。そこまで解っているなら、もっと別な最良の対処方法に思い至らない筈がないのにそれを彼は決して言わない。何を考えているのか解らない。どうして欲しいのか解らない。いつも彼はそうだった。大事なことは何一つ打ち明けてくれない。一人で抱え込んで、一人で結論に急いで、一人で追い詰められて、そこから動けなくなる。
 奪い取った水筒は、けれど口元に運ぶことすらかなわなかった。蓋の開いた口から零れた水が、袖口を濡らすが気に留めている余裕はない。血と胃液とが混ざり合った咳を繰り返す。苦しくて、アルヴィンがジュードから水筒を奪い戻したことにも気がつかなかった。手袋に覆われた彼の手が、頬に添えられる。もう一方の手は後頭部に回されて、顔が上向きになると少しだけ呼吸が楽になった。蒼穹を背にしたアルヴィンの顔で視界が埋め尽くされる。そうして息を吸おうとしたそこへ、彼の唇が触れた。一瞬、息苦しさも頭痛も消えたように思う。けれどすぐに口内へと注ぎ込まれた水を飲み下すことに必死になった。一息吐く頃、もう一度同じように唇を塞がれる。胃液で灼ける喉を流れていく水の感触が心地良かった。三度目の唇が降る前に顔を背け、息も絶え絶えにジュードは「もういい。要らない」と言った。頬に添えた手をそのまま背中に回してジュードを抱き込むと、アルヴィンは耳の裏に鼻先を埋めた。
 「ごめんな、ジュード」耳に掛かるアルヴィンの吐息がくすぐったくて、ジュードは思わず肩をすくめる。「ごめん」
 謝罪の言葉を繰り返す男の背に同じように腕を回そうとしたが、ままならない。腕は鉛のように重く、まるで自分のものではないようだった。だから仕方がなく、ジュードはアルヴィンに体重を預けて彼の肩口に頬を寄せた。
「……本当だよ。ファーストキスだったのに。酷いよアルヴィン」
 回された腕に、更に強く力が込められた。縋るような強さだった。彼は「犬にでも噛まれたと思ってくれ」と言った後、もう一度ジュードに謝った。だが、どうしてそんな風に謝罪の言葉を繰り返すのか、ジュードにはその理由が分からない。
 滲む視界は、それでも美しく空の青さを映し込んでいた。瑠璃色の空に、麻布がはためいている。彼の肩越しに見たその光景と、背中に回された腕の温もりとに何だか無性に泣きたくなった。

 不快な羽音に眉をひそめる。耳元で、鼻先で、掠めるように虫が飛び交う。卵を産みつける新たな腐肉を求めている。唇に止まり、鼻の穴の辺りに少しの間留まると、虫は頬の側へと這っていった。重たい腕を持ち上げて顔を擦ると、不快な羽音をたてて虫は飛び去った。
 鼻腔には、甘い匂いが刺さる。まるで何かを包み隠すかのように漂う、濃い香りだ。
 重たい目蓋をゆっくりと押し上げる。霞む視界に、濃い瑠璃色が移り込んだ。忙しなく飛び交う蝿は煩わしかったが、空は美しかった。仰向けに寝転んで、背中に硬く冷たい石を感じながらジュードは蒼穹を見上げていた。
 鼓膜を、風と虫の羽音でない音が揺らす。耳鳴りではない。聞こえた音は布を引き裂く音に似ている気がした。
 初めに視線だけ、次に頭をゆっくりと傾ける。案の定痛むこめかみを抑えて、ジュードは眉をひそめた。傾けた先の視界に乾いた大地が映る。だが、それでもそこかしこには小さく可憐な花々が風に踊っていた。甘い匂いの正体だ。途端、強い風と漂う甘い匂いの中に在って尚、鼻腔を突き刺す異臭が奇妙に意識された。思わず、喘ぐように口で大きく息をする。胸が詰まって反射的に胸元を握り締めたら、手触りの良い彼のスカーフに触れた。小さく咽せると、視界に捉えた異臭の中心に在る男が作業の手を止めて顔を上げた。暗い色をした外套のようなものを羽織った背中越しに目が合う。彼のコートはジュードの身体に掛けられていた。
「大丈夫か?」
 声は風の音にかき消されて届かなかったが、確かにそう動いた彼の唇にジュードは頷いて肯定の意を示した。アルヴィンは薄く微笑むと、また作業に戻った。
 呼吸もままならない程に状態の悪化したジュードに、アルヴィンが水を飲ませてくれたことは覚えている。彼の肩越しに打ち捨てられた麻布の包みを確かに見た。だが、その後の記憶が酷く曖昧だった。まるで夢のような心地の中で、彼に半ば抱えられるようにして歩を進めたような気もする。何となく懐かしい気がするのは、アルヴィンと初めて会った時にも彼の小脇に抱えられたからかも知れない。
 蒼穹を背に、外套を羽織った男が錆びた刃を振り下ろす。うつ伏せにした肉から頭が花の中に落ちた。血は出なかった。衝撃で、閉じられていた目蓋がめくれてアルヴィンによく似た赤褐色の、けれど薄ら白く濁った目が覗いた。だが、男は気にした素振りを見せずに鉈に似た刃を土に突き立てると、今度はナイフを取り出して切断面から背中に向けて切れ込みを入れていった。淡々と、男は手を動かす。そこには何の感情も見て取れない。よく似た光景を故郷でも見たことがあるな、とジュードは思った。
 昔、まだジュードがル・ロンドに居た頃珍しい家畜がレイアの実家が経営する宿に持ち込まれた。それはア・ジュールでは一般的によく食べられるというブウサギで、レイアの父親がその肉を切り分けて見せてくれた。その時彼女の父親が身に付けていたのは外套ではなく前掛けだった気もするが、肉に刃を振り下ろす様が丁度今のアルヴィンに重なる。確か、うつ伏せにするのは内臓が飛び出すのを避ける為だと彼女の父親は言っていた。
 背中の次は足だった。一息に切れ込みを入れて、足の裏を削ぎ取る。血は、矢張り出ない。それでも辺りには花の匂いに混じって、獣じみた脂の臭いが漂っていた。少し距離を置いて眺めているジュードですら、額から脳にかけて突き刺さるような刺激臭を感じる。だが、ナイフを逆手に持った男は淡々と足の指の間にも切り込みを入れて、今度は腕を手に取った。
 以前にも経験があると本人が言っていた通り、彼は実に手際良く肉を解体していく。そこには一切の情どころか、人間性すら感じさせない。
「何か、手伝おうか?」
 死斑の浮いた腕を切り裂き、手指の間に切り込みを入れるアルヴィンにジュードは身体を横たえたまま思わず声を掛けた。片膝を突いて俯いていたアルヴィンが顔を上げる。目尻が少し赤くなっていて、ジュードは声を掛けたことを後悔した。けれど彼はそんなジュードを寧ろ気遣うように「いいから寝てろ」と今度は風の音にかき消されないよう声を張り上げたかと思うと、噎せながらしゃがみ込んだ。すぐに背を向けてしまったので見えなかったが、あれは吐いたな、とジュードは思った。
 青空の下、風にそよぐ花々の中に横たわる腐肉というのは何だか酷く現実味を欠いていて、本来付随すべき嫌悪感や道徳観はまるで遠くに感じる。蝿は相変わらず煩わしかったが、髪を撫でる風は心地良かった。
「……鳥、どう?来そう?」
 緩く、目を閉じてジュードは呟くように問うた。彼に声が届かなくても構わなかった。だが、すぐに明瞭な声音で「わっかんねぇ。全然読めねぇ」と忌々しげな声が返されて、ジュードは笑った。目を開けると、視界に広がるのは雲一つない青い空ばかりで唸るような彼の声にも納得した。
「大丈夫。ミラが連れてきてくれるよ」
 囁くように、ジュードは言う。肉を引き裂く音が一瞬だけ絶えて、それから喉を鳴らす彼の笑い声と共に再開した。
「……どんだけミラ様頼みなのよ」
 楽しそうに、彼は肉の肋を砕きながら言った。溜まっていたガスで、悪臭が深みを増した。鷲掴みにされ引きずり出された内臓は、腐敗が進んでいる所為かところどころが緑や黄色に変色しているのが遠目からでもよく判った。
「いいんじゃない?……それくらいの責任、取っても」
 アルヴィンへの答えとしてではなく、もうここには居ない彼女にジュードは言った。ジュードの気がつかなかった彼の弱さに手を差し伸べた彼女に言った。
「アルヴィンは、ミラが好きだった?」
 空を見上げたまま今度こそ、彼に問う。それから、少し意地の悪い言い方をしてしまったことに気が付いてそれが可笑しくて笑った。現にアルヴィンは閉口したまま、身じろぎ一つしない。空から地上へと視線を落とせば蝿の集る腐肉の溜まり場で、内臓を掻き出す仕草のまま固まっている彼と目が合った。けれどジュードの視線に気が付くと、彼はくしゃりと顔を歪めて笑った。
 「わかんねぇ」言いながら、アルヴィンはまた手を動かし始めた。「分からない。だけど、多分……」
 繰り返された言葉は先と同じ質の答えでしかなかったが、その後に少しだけ続きがあった。その続きもまた途中で絶えてしまったが、ジュードは概ね満足した。そこに彼の嘘がなかったからだ。だから先の言葉を促すこともせず、ただ笑った。けれど彼は不満そうに「ミラを好きなのはおたくの方でしょーよ」とぼやいている。
「……そうだね。僕も、愛してる」
 確かに、彼の言う通り自分は彼女のことが好きなのだろうな、とジュードは思う。だから、そのまま言葉に出した。
 こうして離れた今ですら、彼女を感じ、愛している。その想いを口にしたことも、口にしようと思ったこともなかったが、変わらず彼女を愛している。豊かな小麦色と若草色とが織り成す不思議な色彩の髪や、強い意志を宿した鮮やかなピジョン・ブラッドの眼差しや、淀みない真摯な姿勢、その全てが愛しい。けれど同時に、それらジュードの愛する彼女の像は彼の抱くものとは違うものであるように思えた。或いは、変質してしまった、と言い換えても良い。
「とても、愛してる」
 もう一度強く、ジュードは言った。そうか、と彼は穏やかに返して笑った。
 重たくなる目蓋と息苦しさに耐えながら鳥の影を探してジュードが空を仰いでいると、鼓膜を揺らしていた骨の音が絶えた。砂利を踏み締める足音が近付いてくる。ジュードが視線を巡らせるより先に、蒼穹との間を遮るようにしてアルヴィンが顔を覗き込んできた。
「寝てないよな?」
「……起きてる。大丈夫」
 汚れた外套と手袋を取り払って、アルヴィンはジュードの額に手のひらをあてがった。ずっと身体を動かしていた筈なのに、彼の手はとても冷たかった。
 ジュードの髪を撫でながら、アルヴィンは空を仰いだ。蒼穹が、少しずつ薔薇色に滲み始めている。遮る影はない。寝るなよ、と言って頬を一撫でしアルヴィンの手が遠ざかった。その感触を名残惜しい、と思う前に右腕を引かれる。もう一方の手を浮いた背中に滑らせて、アルヴィンはジュードの上体を引き起こした。頭が痛み、息が詰まった。ひゅう、と喉が鳴って咳き込む。前のめりに丸くなる背中をさすりながら、彼はまたあの冷たい手をジュードの頬に添えた。それから、彼は微かに開いたジュードの唇を割るように親指を差し入れる。歯に、潜り込んだ彼の唇が触れたかと思うと、口内が水で満たされた。ああまたこの男は、と頭の片隅で冷めた声がする。口にしないのは口の中の水を飲み下すのに必死な為だ。お陰で、喉を動かす度に逃げ遅れた彼の上唇が歯に触れる。反射的に甘噛みすると、アルヴィンが慌てたようにジュードの身体を引き剥がしに掛かった。恐らく、彼は何らかの抗議の声を上げようとしたのだろう、と思う。だが、濡れた唇から言葉が紡がれるより先に、ジュードは彼の襟元を強く引いた。今度こそ明確な意図を以ってその唇に噛み付く。彼は何度か逃げるように顎を引き、ジュードの上体を圧しやろうとした。だが、その度にジュードは逃げる唇を追った。やがて諦めたのか大人しくなったアルヴィンの唇を満足がいくまで舐めたり吸ったりした後、漸くジュードは身体を離した。上手く息継ぎが出来なかったので、気が付いたら肩で息をする有り様だった。そんなジュードを、アルヴィンは気遣わしげに眉をひそめて見つめている。
「おいおい、大丈夫かおたく……自分で飲むか?」
 気に入らない、と歯噛みして呼吸も整わない内にジュードはまた男に手を伸ばした。手渡そうとした水筒をすり抜けて手首を掴む。
 「そんな気休め、要らないよ」掴んだ手首を引き寄せてジュードは言った。「こんなどうしようもなく戻れないところに連れてきたのは、アルヴィンなんだから」
 口付けると、彼は困惑も露わに視線をさまよわせる。鼻先が触れ合う距離で吐息を交わすと、まいった、と言ってアルヴィンは目を伏せた。