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  • 05/15/20:39

01.05.01:33

恋の遺骸 Limerence lost

 王城を出てもまだ、重たい色の空からは雪が降っていた。
 手指を擦り合わせながら白く煙る息を吹きかけると、アルヴィンは手袋を嵌めた。鼻の頭が冷たい。寝不足からくる頭重感が少しだけ和らぐ。
 意匠の施された門の前には訪れた時と変わらず、人々が長蛇の列を作っていた。浅く積もった雪を踏み締め、人の波を掻き分ける。顔馴染みになった門兵に会釈をして門を抜けてしまうと、空中滑車の乗り場までは難なく辿り着くことが出来た。滑車は出たばかりのようで、アルヴィンの他に人は居なかった。コートの内ポケットから手帳を取り出し、ペンを走らせる。
 「商売をしよう」と旅の途中に出会った青年に誘われたのは、一節程前のことだ。だが、人を欺くことを生業としてきたアルヴィンは、人からの信頼が得られなければ立ち行かないだろう彼の誘いにすぐには頷けなかった。それでもシャン・ドゥに少しの間だが滞在していたアルヴィンに会う度に、青年は人好きのする綺麗な笑顔で返答を求めてきた。大丈夫、最初から上手く行くなんて私も思っていないさ。そう言われて、毒気を抜かれたというのもある。結局、アルヴィンは青年の掲げたグラスに自分の持つそれを合わせた。
 リーゼ・マクシアとエレンピオス間での商いに先だって、双方の許可を取り付ける為にアルヴィンはカン・バルクのガイアスを訪ねた。エレンピオス側にも行かなくてはならないが、従兄にシルフモドキを飛ばしてからまだそう時は経っていない。一度拠点であるシャン・ドゥに戻って青年――ユルゲンスに報告してもいいかも知れない。だが、その前にあちこちを駆け回ってろくに働かなくなった頭と身体をそろそろどうにかするべきなのかも知れない。そんなことを考えて、手帳をしまうアルヴィンの背中に声が掛かった。
「アルヴィンさん」
 振り返ると、アルヴィンがそうだったようにガイアスの謁見を望む人の波を掻き分けて、見覚えのある顔が近付いてきた。
「じいさん。出て来て大丈夫なのか」
「何を言っているんです、水臭い」
 声を弾ませて、ローエンが言った。
「いや、あんたも居るってのはガイアスに聞いてたし、顔くらいは見せようと思ってたんだぜ。でも、客来てんだろ?」
 薄く雪の積もった白髪から視線を外す。滑車はまだ来ない。寒さをまるで感じさせずに隣に並び立つ老人は「来てますよ」と言って肩を竦めた。
「エレンピオス政府要人の方々が」
「……あんた、アホだろ」
「そうは言いますが、この歳になると長時間座っているのはなかなかに辛い」
 腰も痛くなってきたのでこうして中休みを挟ませて貰ったのですよ。隣で腰をさするローエンに、アルヴィンは視線だけを投げた。楽しそうに笑うその横顔に、他意はないように見える。食えないじじぃだ、とアルヴィンは頭を掻いた。
 「そういえば聞きましたよ」柔らかく皺の刻まれた目元を細めて、ローエンは言った。「商売を始めるそうですね」
 耳が早い。アルヴィンは苦笑した。
「ああ。ユルゲンスと」
「成る程。彼はとても良い青年です。貴方のような捻くれた方とも、きっと真摯に向き合ってくれるでしょうね」
 全く変わらない笑顔でローエンは言った。それなりに思うところはあったが、どれも事実だったので拳を固めて耐える。シャン・ドゥに向かう道すがら、魔物にでも八つ当たりすることにしよう、とアルヴィンは静かに心に決めた。それに、既に似たようなニュアンスの言葉を投げられている。今更だ。
「ジュードからの返事もそんな感じだったわ」
 おや、と言って老人は顎に手を当てた。
 少し前に、ジュードの住むイル・ファンに手紙を送った。近況報告が殆どで返事を期待するような内容でもなかったが、そう時を置かず放ったシルフモドキが書簡を足に括り付けて帰還した。そこにはアルヴィンが書いた手紙に対するローエンと似たり寄ったりな意見に添えて、少年自身の近況とイル・ファンで彼の借りる部屋の場所とが綴られていた。源霊匣[オリジン]の医療ジンテクス転用の可能性に関するレポートを提出したところ、新しい研修先の教授の目に止まったらしい。近々、医学校で発表会があるとのことで今はその資料集めに忙しいのだ、と癖のない綺麗な文字で少年の近況は纏められていた。
「連絡を取り合っているのですね」
「あんたにも似たような内容で出したぜ……っつってもその様子じゃ読んでねぇみたいだな」
 ご多忙なようで。言って、今度はアルヴィンが肩を竦めれば、老軍師は心持ち眉尻を下げて笑みの色を強めた。
 風雪に煙る視界に遠く、ゆるゆると滑車の陰が揺れているのを見留める。ローエンもそろそろ城に戻らなくてはならないだろう。頃合いとしては丁度良い、とアルヴィンは隣に立つ男を伺った。彼も頷く。
「では、私も戻るとしましょう。この寒さ、矢張りじじぃには堪えるようです」
「そうしろよ、じいさん……まぁ、顔が見れて良かったよ」
「おや、貴方の口からそのような殊勝な言葉を聞けるとは。老体に鞭を打ってみるものですね」
 髭を撫でながらローエンは言った。だが、途中不意にその柔和な笑みを潜めると、思案深げに視線を彷徨わせる。嫌な予感がした。
 端から見れば油断なく鋭い思考を巡らせているかのような立ち姿だが、決して短くはない時間を旅の空の下で共有していたアルヴィンには解ってしまった。これはアルヴィンを含む若者たちへ仕掛ける、老猾な悪戯を企んでいる顔だ。ああ、もう、逃げたい。救いを求めるような心持ちで、アルヴィンは歩みの遅い滑車を恨めしく見やった。その肩に、ローエンが手を置く。
「……アルヴィンさん、少々頼まれごとをして下さいませんか?」
 ほら来た。アルヴィンは諦めるように両手を上げ、深々と溜め息を吐いた。だが、そんなアルヴィンの反応も彼は既に予想していたようで、悪戯っぽく片目を瞑ると人差し指を立てて見せる。
 「ご安心下さい。今回は貴方が共犯者です」寝不足の頭が笑みを孕んだ提案の意味を咀嚼し終える前に、老軍師は言葉を続けた。「ジュードさんに会いに、イル・ファンまで足を運んでは頂けないでしょうか」
 本当に、この老人は性質の悪い悪戯を思い付く。アルヴィンは口の端を吊り上げた。


 もつれそうになる足を何とか前に出すことで、辛うじて転倒を避けた。だが、ジュードの二の腕を掴む男の歩みは淀みなく、すぐにまた次の一歩を強制される。もう幾度となく抗議の声を上げていたが、前を行く男の足取りはただただ軽くジュードは半ば引き摺られるようにして歩を進めるしかなかった。
「ね、ねぇ!アルヴィン」
 連行するかのような力強さでジュードの二の腕を掴む男の名を呼ぶ。彼は振り向くことすらせずに生返事だけを寄越した。歩みも二の腕を掴む力も一向に緩まず、イル・ファンらしからぬ赤いガス灯に照らされた輪郭から表情は伺い知れない。アルヴィン。もう一度、ジュードは名前を呼んだ。目が熱くなって、鼻の奥が痛かった。泣く。これは泣く。混乱した頭で、ただひたすらにそれだけを思った。そんなジュードの思いが通じたのか、漸く肩越しにだが彼の視線が寄越される。下がった目尻を常よりも更に下げ、薄い唇は弧を描き、歩みを少しも緩めることなくアルヴィンはジュードを見やった。
「どうしたよ、青少年?」
「腕!痛い!」
「そりゃあ、おたくがしゃきしゃき歩かねぇからだろうが」
 最後まで言い切る前に笑いが堪えられなくなったらしい彼は、盛大に噴き出すと顔を背けた。腕を掴む力が少し緩んだので逃げ出すチャンスだったのに、目の前で馬鹿笑いする男が心底憎々しく思えてジュードは逆に引き寄せた彼の足を思い切り踏み抜いた。哄笑を悶絶に変えてうずくまる男の背中を、更にもう一つ蹴り飛ばす。二の腕は呆気なく解放されたが、それでもジュードの溜飲は下がらない。
「ほんっと!アルヴィンって信じられない!」
 情けない鼻声で叫んだ。
 二旬前、源霊匣の研究を発表した際、酷く批判されたジュードは確かにそれなりに落ち込んではいた。それでも、すぐに理解は得られないだろうと覚悟はしていたので、塞ぎ込む暇はないのだと自身に言い聞かせると気持ちを切り替え、より一層研究に打ち込むことにして立ち直った。何より近況を報せてくれる仲間からの手紙は励みになったし、たまたまイル・ファンに来ていたローエンに胸の内を話したりして、気持ちは随分と楽になっていた。だから、アルヴィンが訪ねて来てくれたことは本当に嬉しかった。手紙にあった彼の商売の話も聞きたかったし、ジュードも話したいことが沢山あった。そんな彼が外へ行こうと言い出したなら断る理由はない。アルヴィンの提案をジュードは二つ返事で受け入れると部屋を出た。彼に誘われたことが単純に嬉しかった。だが、前を歩くアルヴィンにジュードが行く先を訪ねると、思いも寄らない言葉を返された。
「最低だよ、もう……何で娼館なんて!アルヴィンの馬鹿!」
 悲鳴のような声でジュードが言うと、いつの間にか復活した男が喉を鳴らす。最悪だ。
「そうむくれんなよジュード君。勤勉なのは確かに美徳だが、度が過ぎるとそれはそれで不健全なんだぜ?」
 言いながら、彼の腕が肩へと回される。たまには息抜きも必要だろ。耳元で囁かれ、ジュードは身体を強ばらせた。目頭が熱くなって、血の気が引く。理由は解らない。そして理由も解らないのに何故か理性を総動員して、思い切り良く肘を引いた。今度は蛙の潰れたような声が耳元でして、ジュードは漸く肩の力を抜く。
「……おたく、今もろに狙っただろ」
 濡れた石畳に腹をさするようにしてしゃがんだアルヴィンが見上げてくる。そんな彼に、ジュードは裏返る声で言い放った。
「じ、自業自得だからね!」
「へいへい、っと……だけどマジな話、少しは息抜きしろよ。ローエンだって心配してたんだぜ?」
 地面についた裾を気にするように立ち上がりながら、アルヴィンは言った。返す言葉に詰まる。心配を掛けていたという事実を自覚して、申し訳ないような、嬉しいような、そんな擽ったさを感じた。ローエンの気持ちには勿論、ローエンを口実にしてでもわざわざこうして会いに来てくれたアルヴィンに対しても、身の置き所のない気恥ずかしさを覚える。
「ま。そんなわけだからさ。今日は綺麗なお姉さんに優しくしてもらって、ついでに天国見てこいよ。な?」
 ジュード君かわいいからきっとちやほやしてくれるぜ、アルヴィンが言い終わるより先に拳を付き出していた。彼に少しでも期待した自分への怒りからだ。だが、それなりの重さで以って 突き出した筈の拳を彼は軽々と受け止めて逆に握り返す。
「ひっでぇの。こっちはそれなりに責任感じてるんだぜ?」
 からかうような口調で、彼は言った。反射的に振り払おうとしたが、それすらも予想されていたようでアルヴィンの手は固くジュードを捕らえたまま解けない。
 悔しい。易々と拳を受け止められたことも、自分を娼館へ連れて行こうとする彼の無神経さも、何もかもが業腹だ。その上、言うにこと欠きジュードに口付けたその口で責任等と言い出した。指先を絡め合ったその手で拳を包み込み組み敷いたその身体で以って、この酷薄な男は今正に娼館へとジュードを導こうとしている。
「もうやだ!ほんっとやだ!アルヴィンなんて信じられない!僕、未成年だよ?何考えてるんだよ!」
「心外だなー、ジュード君。十五歳っつったら、そりゃあもう男女の夜の駆け引きに興味深々なお年頃じゃねぇの」
「そ、それはアルヴィンの勝手な持論でしょ。世間一般の十五歳皆が皆そうってわけじゃないからね!」
「そうは言ってもなぁ……」
 拳を捕らえたまま、アルヴィンは笑みを潜めてジュードを見つめた。眉根を寄せて、溜め息を吐く。嫌な予感しかしない。
「童貞喪失が俺相手とか気の毒過ぎる」
 真顔で、アルヴィンは言った。そう目にする機会は多くないが、こうして真面目な顔をすると彼は本当に端正な顔立ちをしている。この局面に置いて思わずそんな感想が脳裏に過ぎる時点で、頭が思考を放棄しようとしているのは明白だった。つまりもう色んな葛藤も辻褄合わせもすっ飛ばして泣いてしまいたい。
「もう……わけわかんないよ」
「だぁいじょうぶだって。いいぞ、女の身体は!柔らかいしいい匂いだし、砂糖菓子みたいなもんだって」
「……そうだよね。それなのに、何でアルヴィンだったんだろ。固いし筋張ってるし、おまけにあの時は有り得ないくらい臭かったのに」
 あの時――夜を待つ空の下で、ジュードは確かにアルヴィンに手を伸ばした。何処よりも冷たい場所で、それでも確かな熱と意図で以ってこの男に触れた。その事実に嘘はない。だから責任感じてるっつってるのに。アルヴィンが笑う。なら、あの時の僕の心は何処にあったのだろう。熱を煽りあった男を見つめて、ジュードは思った。
 「責任なんて、嘘」首を振って、ジュードは頬を膨らませる。「面白がってるだけじゃない」
 嘘だった。本当は気が付いていた。アルヴィンが彼なりに責任を感じていて、ジュードに逃げ道を作ろうとしてくれているのだと分かっていた。けれど、ジュードはそのことに気が付かないふりをして彼の不器用な譲歩を嘘にした。理由は自分でもよく分からない。
 バレたか、とアルヴィンは唇を不透明な笑みの形に歪めて肩を竦める。自分の気持ちの在り様だけでなく、目の前の男すら持て余す事実にジュードは疲れた。だから、溜め息を吐くとまた肩に腕を回されても、今度は抵抗しなかった。
 ただ、腕を引かれながら仰いだ空に雨雲の間から覗く月を見つけてふと、あの薄紅の空の下でジュードに暴かれた男は何を考えていたのだろうか、と今更のように思った。


 赤いガス灯に浮かび上がる看板をくぐり、娼館の裏口の扉を開ける頃、また雨が降り出した。往生際悪く嫌がる子供を連れ歩くのが面倒で、途中から小脇に抱えるようにして引きずってきたので腕が少し痺れている。荷物を下ろす要領で勝手口から放り投げると、積んであった小麦粉の袋に肩をぶつけながらそれでも彼は綺麗な受け身をとってみせた。
「はー……おっもたかった」
 扉を後ろ手に閉めながらアルヴィンは言った。表通りから差し込んでいた僅かばかりの光も遮られると、暗く湿気った部屋の中に雨音が響き始めた。アルコールと麝香の混ざった匂いがする。暗い闇のような中にあっても、恨めしそうにアルヴィンを見上げる子供の瞳はいやにぎらついて見えた。手を伸ばして引き起こしてやる。
「ほらよ。行こうぜ、マティス先生?綺麗なおねえさま方がお待ちだ」
 肩を組んで促すと、ジュードは何か言いたそうに口を開いた。縋るような琥珀色の瞳が心地良い。だが、アルヴィンは彼の先に続く言葉を導くことはせず、首を傾けた。頬に柔らかな黒髪が触れる。判ったよ、もう。真意を飲み込んで誂えた上辺の言葉を、アルヴィンは喉を鳴らして笑った。
 通用路を抜けると、衝立を隔てたサロンの裏手側に出た。昼の間に話を通しておいた女を見つけて名前を呼ぶ。この娼館のメトレスだ。胸元の大きく開いた赤いドレスの女は、豊かな黒髪を揺らしてアルヴィンの方へと近付いてきた。
「待ってたわ。その子ね、昼間話していたのは」
 ヘイゼルの瞳を柔らかく細めると、女は視線をアルヴィンからジュードへと移した。流石にアルヴィンの影に隠れるように、という程ではなかったものの、明らかに逃げ腰のジュードは蠱惑的な彼女の視線に絡め取られて肩を大きく揺らした。ミラやプレザで耐性もついただろうに、矢張り本職を前にするとこんなものか、とアルヴィンは子供を生温い目で見守る。大丈夫よ、そんなに緊張しないで。ジュードに微笑みかけるメトレスが小さく首を傾けると、香水の匂いが鼻腔を突いた。
「貴方達、いらっしゃい」
 優雅な所作でジュードの手を取り、女が呼び掛けたカーテンの奥からまた別の着飾った女達が現れる。いよいよ逃げ場のなくなった子供がうっすらと涙すら浮かべて見つめてきたが、いくら可愛らしいとはいえ同性と見つめ合う趣味はなかったので、アルヴィンは早々に現れた顔見知りの女の腰を抱き寄せてその頬にキスをした。
「久しぶりね、アルヴィン。あんなによく来てくれてたのに、急に音沙汰がなくなるんだもの」
「ちょっと野暮用でね。イル・ファンを離れてたんだ」
「あら。綺麗な女の人と歩いてるところを見た、っていう娘が居るのよ?」
 亜麻色の髪を揺らして、しなだれかかる女が悪戯っぽく微笑む。彼女が言っているのはプレザのことだな、とアルヴィンは思った。
「情報が早いな。でも、別れたよ。ふられちまってね」
 ほらやっぱり、と花が咲いたように無邪気に女が笑う。他の花も艶やかに綻んで、そんな中よくよく見知った子供だけが雨に濡れて打ち捨てられた花弁のように沈んでいた。
「いい加減アルヴィンから離れなさい。坊やが戸惑ってるじゃない」
 メトレスが手を叩きながら女達を促すまで、ジュードの視線はアルヴィンに注がれたままだった。離れて行く女のこめかみにまた一つ口付けを落としてから子供を見やると、頬を紅潮させて思い切り顔を逸らされた。怒っているようだ。思えば彼はアルヴィンのやることなすことことごとくに、大なり小なり腹を立てている。今もそうだ。いつも怒ってばかりで本当に可愛いな、とアルヴィンは思った。
「さぁ、どの娘がお好みかしら?何なら、別の娘を呼んできてもいいわ」
 呼ばれた女達が順々に前へ歩み出ては、ジュードに自己紹介をしていく。その度に、可哀想な子供は少しずつ後退りをしてとうとう壁際にまで追い詰められてしまった。楽しい。声にならない声でジュードがアルヴィンの名前を呼んだ。
「おいおい。こんな美女に囲まれて、野郎の名前呼んでんじゃねぇよ」
「そ、そうじゃなくて!」
 ふくよかな子供の唇が「助けて」と動く。アルヴィンは返事の代わりに笑顔を返すと、メトレスに向き直った。
「ご指名しても?」
「あら。慣習を知らないわけではないでしょう」
 言いながら、それでもメトレスはすらりとしなやかな腕をごく自然な所作でアルヴィンに絡ませてきた。
「花代は持つ。それなら文句ないだろ?」
 ブルネットに口付けながらアルヴィンが囁くと、仕方がないわねと女主人は微笑んだ。
「ほら、おたくもとっとと選べよ。あんまり美女を待たせるもんじゃないぜ?」
 壁際に追い詰められた子供にそう言って笑いかけると、つり上がり気味の双眸が剣呑な色を帯びて細められる。腹の底が冷えていく感じがした。あんな視線を向けられたのはハ・ミルで彼らに銃口向けて以来かも知れない。あれは相当怒っているな、とアルヴィンは笑みの色を深くしながら思った。
 やがて少年の視線は逸らされて、身を取り巻く女達へと向けられた。明るい茶色に、亜麻色、ダークブラウンを結い上げた女に一瞬目を留めた後、結局鮮やかな赤い癖毛の女の名前を呼んだ。ミラといい、プレザといい、大人しそうな容姿に反して、この子供は派手な美人が好みのようだった。アルヴィンが頭の後ろで腕を組んで口笛を吹くと、きつく睨まれた。
「そんな目で見るなよ青少年」
「それはアルヴィンが……ッ」
 声を荒げる子供の傍らで、赤毛の女の華奢な肩が小さく跳ねた。思わず、言葉を途切れさせたジュードの隙を見逃さなかった。メトレスの腰に手を回して背を向けると、もう一方の手を振りながら肩越しに子供を見やる。
「じゃ、お互い楽しもうぜ?」
 背中に勢いの削がれた罵声を浴びせかけられながら、アルヴィンはその場を後にした。
 メトレスに案内されて個室に入ると、部屋の中央に置かれたテーブル脇のソファに座った。大きく取られた窓から見たイル・ファンの街並みは、雨に塗れている。窓を眺めるアルヴィンから離れたメトレスが、ボトルに手を伸ばしながら声を掛けた。
「何か飲む?それとも……」
「いや、今日はアルコールはいいよ」
「あら、珍しい」
「今日の俺はあくまで付き添い。保護者なの」
 だからお茶だけちょーだい。窓を伝う水滴が斑に陰を作る様子を眺めながら、アルヴィンは言った。呆れた、私を指名しておいて何もしないで帰るつもりなのね。メトレスは笑った。
「あの子、とても怒っていたわ」
 紅茶を用意する音を響かせながら、女主人が囀る。雨音を追いながら、そうだな、と言ってアルヴィンは頷いた。
「見ての通り絵に描いたような優等生さ。だからまぁ、多少腹に据えかねることがあっても女の子相手に癇癪は起こさないだろうよ」
 その代わり、後で自分はぼこぼこにされるかも知れない。欠伸を噛み殺しながらアルヴィンは思った。カン・バルクでローエンに会ってから向こう、あまり寝ていなかった。あの時から既に若干の寝不足を自覚し始めていたアルヴィンは、本当はガイアスへの謁見が済んだら次の予定まで少しゆっくりするつもりだったのにな、と眠気から来る頭痛を誤魔化すようにこめかみを強く抑えた。
 距離を置いて女主人が隣に座ると、ソファが少し沈む。それから、紅茶の匂いが漂って来た。
「乗り気じゃないのね。あの子が気になる?」
「そんなことはないさ。楽しんでるよ」
 選んだ言葉に、嘘はない。あの旅が終わりに差し掛かり、埋めようのない溝を越えてアルヴィンに手を伸ばした子供が、その実喪失の執行猶予を経て未来への模索を始めて以来柔和な面差しを殺し続けている事実は確かに気掛かりだった。それが今日のジュードはことある毎に赤くなったり青くなったり、涙を湛えて見上げてきたりと本当によく表情が変わる。だから、子供から奪ってしまったものを少しでも返すことが出来たような錯覚に、アルヴィンは気を良くした。睡眠時間を削ってイル・ファンへ急いだ甲斐があった、と心の底からの自己満足に浸れる程度には楽しかった。
 「どうかしらね。彼、失望していたでしょうに」耳に届いた不穏な声に、紅茶に伸ばし掛けた手を止める。「貴方のことが好きなのよ。可哀想」
 伸ばした腕はそのままに、ぎこちなく視線だけをメレトスへと向ける。ブルネットに映える赤い唇が弧を描いた。
「やっとこっちを見たわね、色男」
「いやいやいや、だってそれは」
 それはない。言い切れるだけの確執があの子供と自分との間にはあって、好意も信頼も、或いはアルヴィンの作り上げた虚像に対するある種の情景にも似た念も一切、残ってなどいなかった。けれど、そうした一切の虚飾を取り去りかき集めた遺骸だけで今のアルヴィンとジュードは繋がっている。それすらも自分には過ぎたものだという自覚があるだけに、暴力的な熱に浮かされて衝動のままに手を伸ばされたことはあっても、そこに彼女の指摘するような優しい感情が伴っているのだとはとても思えなかった。
「いいから、話を聞きなさい」
「聞いてるよ。どうぞ続けて」
 紅茶を手にして肩を竦めながら視線を逸らすと、隣からは盛大な溜め息が聞こえた。
「貴方はただの周旋屋[クルティエ]で、ここの娘たちと遊んだことはない、って教えてあげたら良いのよ」
「……信じねぇよ。それに言っただろ、優等生だって」
 買うより売る方が悪い、とあの子供は言うだろう。ミラと同じ眼差しで、アルヴィンを責めるのだろう。
「それはそれで悪かねぇけど……もうちょい余裕がある時にお願いしたいねぇ」
「疲れているのね」
「そりゃあもう」
「ゆっくり休めば良かったのに」
「ほんとにな」
 カップに唇を押し当てながらアルヴィンは言った。鼻を突く柑橘類の香りに、僅かだが頭痛が和らぐ。
「……おたくの思うような関係じゃないよ、俺とあいつは。ただ、大きな借りがあるんでね」
 それを返すまでは、逃げずに彼らの傍に居ようと思っていた。見届けるまでは、彼らの助けになるのだと決めていた。
 「借りなんて返したら終わりじゃない」優雅な所作でソーサーからカップを摘み、メレトスは言った。「大義名分を掲げてでも、傍に居たいと思っているのに、馬鹿ね」
 女主人は囀る。頭が痛かった。目蓋が重い。大義名分掲げて縋って縛られて、動けなくなるのは得意なんだ。紅茶を啜りながらアルヴィンはぼそぼそと呟く。
「どうせ返すのなら、恩になさい」
 甘く淫らな香りの漂う閉じた家にはいっそ不釣り合いな程、快活に笑ってメレトスは言った。だから違うんだって。アルヴィンは呻いた。けれど、もしも彼らがそれを許してくれるのなら或いは、彼女の言うように傍に居られたら良いな、と思った。


 白く華奢な手のひらで包み込むようにジュードの手を取ると、赤毛の女は「また来てね、お医者さま」と言って綺麗に微笑んだ。左頬だけに浮かぶえくぼからぎこちなく視線を外し、彼女の手から解放されたのを見計らうとジュードは素早く後ずさった。その様子を、傍らにブルネットの女主人を伴ったアルヴィンが笑う。
「いいねぇ。反応が初々しいわ」
 珍しく含みのない笑顔が余計に腹立たしい。腰を抱いた女主人の口付けを頬に受けて離れると、二言三言を交わしてアルヴィンはジュードへと近付いて来た。
「じゃ、帰るとしますか」
 片目を瞑って陽気に彼は言った。ジュードは返事をせずに、赤毛の女の名前を呼んで手を振るとアルヴィンを置いて裏口へと向かう。背中にジュードの名を示す声が掛かったが、振り返らなかった。
 外に出ると雨はすっかり止んでいて、千切れた雲が月の光に照らされて輪郭を浮き彫りにしていた。生温い風が頬を撫でる。ジュードはアルヴィンを待たずに濡れた石畳を踏みしめて歩き出した。ややあって、蝶番の軋む音が響きまた名前を呼ぶ声がした。だが、距離を詰めるつもりのない足音は穏やかだ。
「こらこら。歓楽街を一人で歩いちゃ危ないだろ?」
 未成年なんだから、と男は続けた。ジュードは足を止める。空に煌々と浮かぶ鋭利な月は、ティポの目を思い起こさせた。毒気が抜かれる。
「最もらしいこと言ってるつもりかも知れないけど、全部上滑りしてるって気付いて」
 肩越しに彼を見やって言う。だが、アルヴィンはあどけないとすら形容出来る無邪気な顔で「でも、楽しんだんだろ?」と言った。ジュードは頭を抱えた。
「どうしてわからないの?」
「何が?」
「だ、だから、その……」
 言いよどむジュードの頭を抱えた手に、アルヴィンの手が触れた。顔を上げる。何が、と彼は繰り返した。声音は幼子をあやすように穏やかで、かれはこんな声も出せるのかと感心した。だが、続くはずの言葉は喉につっかえて出てこない。彼から漂う彼のものでないにおいに、目眩がする。
「楽しんだのは、アルヴィンの方じゃないか」
 気が付いたら言葉にしていた。彼はというと、眉根を寄せるでもなくジュードの言葉を咀嚼するように黙り込んでいる。
 努めて丁寧にアルヴィンの手を外しながら、ジュードは赤いガス灯に沈む落ち窪んだ眼孔を見据えた。
「だってそうでしょ?アルヴィンこそ、あの女の人とずっと二人きりで、こんな香水のにおいなんかさせて」
 問い詰める。アルヴィンはゆっくりと瞬いて、けれどジュードから視線を外すことはなかった。思いがけず真っ直ぐと向けられる眼差しに、頬が熱くなる。やがて彼は少し困ったように笑いながら「馬鹿だな」と言ってジュードの頭をかき混ぜた。
「今回はお前の付き添い。それに、あそことは昔情報収集させてもらう代わりに周旋屋の真似事してただけのビジネスライクなお付き合いなわけで、青少年が期待するような色っぽい関係は一切なかったよ」
 プレザも居たしな。付け加えてから、アルヴィンはジュードの髪を解放した。そな名残を辿るように、自身の髪にジュードは触れた。
「……嘘は、嫌だからね」
「こだわるねぇ」
 前科者が笑う。
 今一度、ジュードは上目遣いに男を見つめた。器用に片眉を上げて見せ、アルヴィンは首を傾ける。ジュードは奥歯を噛み締めながら俯いた。
「本当に、わからないの?」
 先と同じ問いを、ジュードは繰り返した。
 見つめる先の濡れた石畳は月光と赤いガス灯を照り返して、鈍く光っている。ただ、アルヴィンの陰の落ちたそこだけが、深い穴のようにぽっかりと昏く蠢いていた。視界から陰を追い出すように、ジュードは堅く目を閉じる。
「……アルヴィンと同じ。彼女とは、その……何もなかった」
 それだけ告げると、いやに口の中が乾いていることに気が付いた。こんな時に限って、アルヴィンは何も言わない。だから俯くジュードには、彼の感情が読み取れなかった。観念して顔を上げようとしたジュードの肩に、漸く彼の大きな手が掛けられた頃には、彼の感情の行方どころか自分の感情の在処さえ判らなくなっていた。
 ジュード、と低く平坦な声で名前を呼ばれる。目を開く代わりに、唇を強く噛み締めた。そこに、彼の手が触れる。
「血が出るぞ」
 優しく言われて、泣きたくなった。顔を上げると、柔らかく微笑むアルヴィンと目が合った。
「大丈夫。緊張するとかえって勃たないもんだ。特に最初は」
 だから気にするな。その意味を正しく理解するのにジュードは一拍程の時を有し、気が付けば慈悲深く微笑む男の横っ面を力の限り張り倒していた。流石に石畳に倒れ込むことはなかったが、それでも二歩三歩とよろめいた男は頬を抑えながらも堪えきれないといった様子で噴き出すと夜空に哄笑を響かせた。
「どうしてそうなるんだよ!ア、アルヴィンはいつもいつも、どうして!」
「ど、どうして、って、だって……」
 腹を抱えて丸くなる背中をジュードは蹴り飛ばした。男は苦しそうに喘いでいる。
「普通に考えてよ!好きでもない相手と、そんなこと出来るわけないじゃないか!」
 震える背中に言葉を浴びせかける。声は悲鳴のように裏返っていた。そして、言ってから色々な意味で後悔した。
 息を調えるように、アルヴィンは深く呼吸を繰り返す。口元は手のひらに覆われていたが、笑みの形をしているのは判った。そこに、彼の真意が伴わないことも知れた。衝動的な笑みが引き、理性で作られた笑顔をジュードに向けながらアルヴィンはひとつ大きく息を吸った。
「……ジュード、お前はさ」
 しゃがみ込んで、ジュードを見上げて、口を開いて、彼は、首を横に振った。
「いや。何て言うの?説得力ないよ、それ」
 気安く、穏やかに笑って、アルヴィンは言った。彼は本当は何と言おうとしたのだろう。一瞬だけ我に返ったジュードの脳裏にそんな思いが過ぎるが、本当に一瞬で終わった。だってそうだろ、俺相手でも盛れるわけだし。朗らかに言って、アルヴィンはジュードにとどめをさした。その瞬間、足と心が同時に折れた。衣服が濡れるのも構わずジュードは石畳に膝を突くと、そのまま頭を抱えた。
「ちょっ、おい!どうした青少年?そんなにショックだったのか?……大丈夫だって。おたくが不能じゃねぇことは、不本意だが俺が身を以って知ってるさ。今回はほら、運が悪かったってだけだ。な?」
 あやすように、背中を撫でる彼の手は優しかった。女の香水の残り香に混ざる、アルヴィンのにおいが近い。助け舟を出すかのようにまくし立てる彼の言葉の全てが、今はただ遠く、無為な音として鼓膜を震わせる。
 言ってしまった。自覚へと到ってしまった。気が付かずに居られたなら、それはとても平和で幸せなことだっただろうに、と後悔ばかりが渦巻いた。だのに、ただ一度だけ、それでも一度、確かにジュードはこの男に手を伸ばした。かつて憧憬の念を抱き、信頼を寄せ、けれどそのことごとくを手酷く裏切った彼に欲情した。その情動が無惨に打ち捨てられた在りし日の感情に起因するものだとしたならば、確かにそこにはリマレンスという名前が付くのかも知れない。けれど同時に、その浮かれた感情は他でもない彼自身が惨たらしく引き金を引き、殺してしまった。その遺骸に、気が付いてしまった。
「……アルヴィン」
 うなだれたまま、それでもジュードは彼の名を呼んだ。背中に触れていた手の動きは止まる。
「何だよ」
 応えはすぐに返された。それだけに、迷う。けれど、膝の上で拳を固めて顔を上げる頃には、言うべきことは決まっていた。
 上体を起こしたことで一度アルヴィンの手は背中から離れ、少しの間宙をさ迷った後ジュードの肩の上に落ち着いた。息遣いが聞こえそうな程の近い距離で、彼は真っ直ぐにジュードに眼差しを返してくる。キスが出来そうだな、とジュードは思った。
「……アルフレド・ヴィント・スヴェント、さん」
 記憶の底を探り、ただ一度だけ聞いた韻を拾い上げる。声は情けなく震えていた。怒られるかも知れない。突き放されるかも知れない。ありとあらゆるネガティブな念が駆け巡った。
 二度、三度と目の前の男は瞬く。それから、少し視線を泳がせて、結局眉値を寄せながら赤褐色の瞳にジュードを映した。
「は、はい?」
 二度目の応えが返される。その瞳の奥に、ジュードは確かに死を視た。リマレンスの死だ。
 逃がさぬよう、肩に置かれた手に自らの手を重ねて捉えながら口を開く。
「貴方が好きです」
 祈りにも似た心地で、ジュードは言った。
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11.30.09:31

鳥をまつひと4

 耳鳴りを縫うように、口付けを繰り返す。頬にも、閉じた目蓋の上にも、唇を落とした。辺りには凶暴な風が吹いている。頭が痛い。視界は不鮮明で、彼の表情すらろくに判らない。ただ、手のひらに感じる彼の温度や、唇に触れる肌は酷く冷たく乾いていた。
 恐らく、アルヴィンは何か言っていたのだと思う。説得めいた言葉を、彼にしては真摯にジュードに伝えてくれようとしていたように思う。ただ、気の触れた風が煩くて、その一切は耳に届かなかった。そうして抵抗をしなかったのはきっとジュードの身体を思いやってのことで、混濁する意識の中でいやに鋭くなった本能が彼の後ろめたさを嗅ぎ分け付け込んだ。
「おたく、これは絶対後悔するぜ?だって完璧にこりゃ、」
 先に続く言葉を遮る為に、唇を塞ぐ。情動というより、理性がそうさせた。
「ここに来て暗黙のルールを一方的に破るなんて、アルヴィンって意外と無粋なんだ」
 吐息の掛かる距離で息も絶え絶えに吐き捨てる。アルヴィンは苦虫を潰したような何とも言えない顔をしてジュードを思いきり抱き締めてきた。
 死臭の中で何事かを喚き立てる冷たい身体を抱きながら、ジュードは考える。彼と自分の在り方の、有り様の差違を思う。行動の理由を他者に求め、責任の矛先を逸らし続けたという点においては、業腹ではあるが彼と自分とが似通った性質の鬱屈を抱いているとジュードは自覚していた。腹立たしいついでに認めたくない話だが、彼が言うところの「お人好し」や「お節介」を以ってしか、ジュードが自分自身の輪郭を保てなかったのも事実だ。そうすることでしか、他者と関われなかった。だから他者に理由を求めないミラやガイアスの姿勢に惹かれ、そう在りたいと願うようになった。それならば、と思う。ならば、今ジュードが組み敷くこの冷え切った身体もまた、同じものに焦がれたに違いない。
「かわいそうだね、アルヴィン」
 首筋から耳の裏に掛けて鼻先を埋めながらジュードは言った。輪郭を保つだけの自己に由来する理由が、彼にはまだないと思ったからだ。その事実がとても可哀想だった。屍肉が膚から溶け出すように、彼も己を保てなくなるのではないだろうか、と思うと悲しくなった。けれどそんなジュードの憐れみを余所に、アルヴィンは薄い唇を深く濃い笑みの形に吊り上げて見せる。見くびるなよジュード君、と言って彼が口の端に噛みついた。
 肉を割り、性器で臓物を抉る感触というのは奇妙な感覚だった。張り詰めた性器を引き絞られる経験はジュードにとって全く未知の感覚で、蠢く熱が先程彼が引きずり出していた臓腑と同質のものであると思うと不思議な気持ちになる。だが、言ってみればそれだけの行為でしかなく、ジュードとアルヴィンに異性或いは同性間に芽生える倒錯的な情愛が果たしてあったのか、それは判らない。ならば衝動だったのかと問われれば、恐らくジュードは肯定する。性交と言うよりは自慰に近く、ある種の酩酊状態にあったジュードがたまたま手を伸ばしたそこに居たのが彼だった。
 制止する手をアルヴィンが途中で下ろした理由にまで、ジュードの気は回らない。後になって思えばいくら体術に秀でたジュードであっても、体格差も力の差もある彼を文字通り力ずくでどうにかするのは不可能だった筈だ。だが、その時は情動に任せて、目の前の肉をどうにかすることにただただ夢中だったジュードは、アルヴィンの中にあっただろう葛藤や諦念といった機微には気が付かずにいた。
 ただ、ふと、身体を揺り動かし己の快楽を辿る中で、理性のような、情動以外の何かが意識を掠めることがあった。何だろう、と風と自身の乱れた呼吸音を煩わしく思いながら顔を上げると、そこには組み敷いた男がある一点を見つめたまま浅く息をしていた。律動を止め、ジュードも視線を同じ方へ向ける。そして、目が合った。
 虚ろに濁った死者の落ち窪んだ眼球が、傾いた日差しの中で奇妙に浮き上がっている。蝿が頬に止まったかと思うと、眼孔に潜り込んで行くのが見えた。
「……アルヴィン、って……見られると、興奮するの?」
 純粋に疑問に思って問うと、彼は弾かれたようにジュードを見上げた。その表情は酷く驚いているようで、少し幼く見えた。
「お前、そういうの何処で覚えてくんの?」
 質問したのはジュードの方だというのに的外れな答えどころか、逆に問われる。それが気に入らなくて抗議の声を上げようとしたが、アルヴィンに抱き寄せられて唇を啄まれてしまった。触れるだけのささやかな口付けの後、身体を離すことなく抱き込められる。中途半端な状態で性器が圧迫された上に動きを再開することも出来ずとても辛かった。けれど、耳元で「ジュードはあったかいな」とアルヴィンが囁くものだから、文句の一つも言えなくなる。すると彼はジュードの沈黙をどう受け取ったのか、肩を揺らして笑った。
「いいからさっさとイっちまえよ。いい加減、背中痛ぇわ」
 身体を離すと彼はもういつもの調子に戻っていた。こんな時くらい泣けばいいのに、と思いながらジュードは律動を再開した。

 夢の中で、ジュードは鍋の蓋を開けた。窓からはシャン・ドゥの柔らかい陽射しが差し込んでいる。手元の片手鍋には桃のコンポートが綺麗な飴色をして収まっていた。すぐに、それがパイのフィリングであることに思い当たる。
 こんな夢の中で、自分がピーチパイを作ろうとしているのだと気付いて可笑しな気持ちになった。どうせ、彼はまた嘘を吐いて吐き戻す。それが分かっているから夢の中でしか彼に気を回すことが出来ない、そんな臆病風に吹かれる自分が惨めに思えたからだ。
 深層においてはこんなにも明確に答えが提示されている。自分は、彼を許したかった。彼に優しくしたかった。それだけだった。
 アルヴィンがジュードの知らないところで誰かを傷付け続けたことや、多くの裏切り、レイアに向けて引き金を絞った事実は、罪は確かに消えない。例え彼の罪を誰も知らない場所へ逃げたとしても、他でもない彼自身が犯した罪を決して忘れない。だからこそ彼は、とうとう旅の終わりまで罪悪感に苛まれ続けた。これからも、彼は罪と共に生きていくしかない。
 演技上での自己主張らしい自己主張の少ない彼の嗜好はジュードには殆ど知れなかった。そんな中、数少ない本当のアルヴィンーーアルフレド・ヴィント・スヴェントに由来する情報にピーチパイが好物である、というものがある。我ながら分かり易く単純だ、とジュードは自分の夢に呆れた。
 羽音がして、手元の鍋から灯り取りの窓へと視線を移す。そこには一羽のシルフモドキが止まっていた。瞬時に彼の母親の手紙だ、とジュードは思った。それならアルヴィンを呼ばなくてはならない。彼はきっと急いで返事を書くだろうと、そう踵を返しかけてジュードは動きを止めた。
 鳥は、相変わらず窓辺に止まっている。ジュードが見つめていると、小さく首を傾げた。鍋の火は点いたままだ。止めなくてはならない。せっかくのコンポートが焦げてしまう。けれど同時に頭の中の冷静な部分がどうせこれは夢なのだから、とジュードに囁いた。そこに、別な声が被る。その声をなぞるように、ジュードは呟いた。
「誰が何処で待っているの」
 肩越しに振り返る。改めて、黄昏に沈むこの夢は何処なのだろう、と考える。いつもの宿屋の一室とは少し違う気がした。だが、知っている。台所の向こうにはリビングがあって、そこではピーチパイが焼き上がるのを待っている人が居る。これは、そんな幸せな夢だった。

 彼の真意は、相変わらず不透明だ。「母親の為」という最優先事項を欠いた今、判断基準を測ることはますます難しくなった。居場所を無くしたアルヴィンに声を掛けたのは確かにジュードだが、それは彼を独りにしたくなかっただけだ。だからきっと居心地が悪いことこの上ないだろうジュードたちの傍にいつまでも留まりはせず、また持ち前の奔放さでふらりと姿を消すーーそんな予感はあった。だが、そんな予感に反してアルヴィンはジュードたちと行動を共にし続けた。
 結局、旅が終わっても彼の真意は遂に知れることはなく、ジュードは言うべき言葉や示すべき行動を見失ったままでいる。或いは、彼に対して抱いていた感情の在処も解らないままだ。信頼を裏切られ、憎悪を植え付けられ、失意と嫌悪を覚えた。だのに、とうとう諦念を以って彼という存在を黙殺することだけは出来なかった。その理由が分からない。自分自身に対しても、両親に対しても、友人に対しても、ずっとそうやって生きてきた筈なのにあの男だけは諦められなかった。

 一度目はエリーゼの為に作った。旅慣れない内気な彼女に、優しい味を食べさせたくて選んだのがピーチパイだった。フィリングは缶詰めの桃で簡単に済ませてしまったがエリーゼはとても喜んでくれた。だから今度作る時はフィリングから作ろう、とジュードは思った。エリーゼも一緒に作りたい、と言ってくれたので約束をした。アルヴィンは出掛けていて、その時は居なかったように記憶している。大方アルクノアか、取り引きをしたというア・ジュールの参謀と連絡を取り合っていたのだろう、と今にして思う。シャン・ドゥで彼の好物がピーチパイであることを知る前の出来事だ。
 二度目は、エレンピオスでアルヴィンの従兄が住むアパートの台所を借りて作った。約束通り、エリーゼと一緒に水と塩を加えた小麦粉にバターを挟んで伸ばして生地を作り、フィリングも桃を煮詰めるところから始めた。途中で少しバターが溶けてしまったがそれでも初めてにしてはよく出来た、とエリーゼと二人で手を合わせて喜んだ。ローエンの淹れてくれた紅茶と共に舌鼓を打ちながら、ミラはいつも通り一口食べて「美味しい」と顔を綻ばせ、後は口を開く間も惜しいといった様子で黙々と手を動かしていた。今度作る時は私も呼んでよ、と言うレイアをティポがからかう。その様子を楽しそうに笑って見ているエリーゼの隣で、ピーチパイをアルヴィンも突っついていた。ジュードの視線に気が付いて顔を上げた彼は、控え目に微笑みながら「美味いよ」と言った。だから、返す言葉をなくした。隣に居たエリーゼが、嬉しそうに「本当ですか?」とアルヴィンに訊く。彼女がこのタイミングで約束のピーチパイ作りを提案したのは、アルヴィンを思ってのことだと薄々気付いていたジュードは息が詰まる思いでいた。恐らく、アルヴィンもエリーゼの優しさに気付いていたのだと思う。彼女の頭を撫でながら、同じ言葉を繰り返したからだ。その後、一人トイレに籠もって嘔吐を繰り返す扉の向こうの彼を、ジュードは責めることが出来なかった。彼の嘘を、咎めることが出来なかった。

 鳥の羽音に覚醒を促された。肌寒さに身震いを一つして、うつ伏せの身体を起こす。肩からアルヴィンのコートがずり落ちた。
 目蓋が腫れている気がする。もしかすると、顔全体が浮腫んでいるのかも知れない。頭の痛みは相変わらずで、胃も酷く重たかった。
 朝靄に霞む一帯をジュードは見渡した。雲海は黄金色に輝いていて、空は美しい薔薇色をしている。
 また、羽音がした。白い息を吐きながら振り返る。舞い降りた鳥が、肉を啄んでいた。翼を広げれば二メートルにもなりそうな大きな黒い鳥で、首から頭に掛けての毛が異様に少ない奇妙な風体をしていた。その鳥が、無数に、腐肉を奪い合って群がっていた。黒い羽が舞い散る傍ら、母親の頭を無造作に掴み立ち尽くすアルヴィンをジュードは見留める。声を掛けようかーー逡巡するよりも先に、彼は頭を地面の上に置いて頭皮を剥ぎ取り始めた。長く伸ばし、適当な大きさに切り分けると鳥の群がる中心へと放り入れる。それから、残った頭蓋を石で砕き始めた。
 朝の冷たい空気を鈍く硬質な音が震わせる。不思議とその音に嫌悪感のようなものはなく、ジュードは頬杖を突いてツァンパと砕いた骨を丸める男をぼんやりと眺めていた。コートもスカーフも取り払った彼はいつもより薄着である筈なのに、身体を動かしている所為なのか特に寒そうには見えない。眠りに落ちる前に煽りあった熱の名残も感じさせず、アルヴィンは淡々と母親の最後の一欠けさえも丸めきり鳥に託した。
 欠伸を噛み殺し、目を擦る。アルヴィンが花と砂利を踏みつけながら近付いてきた。おはよう、と掛けた声は掠れていて彼はまた露骨に眉根を強く寄せた。だが、溜め息一つの間にその表情は何処か困ったような笑みにすり替わる。
「おはよう、ジュード君」
「うん。……鳥、来たんだ」
 訪ねると、彼は水筒の水で手を濯ぎながら気のない相槌を返した。
「何とかな。これで帰れるぜ」
 頭の後ろで腕を組むと、空を仰ぎながらアルヴィンは言った。疲労は勿論だが、実際ずっと死体を弄くり回していたアルヴィンは酷い臭いがする。だからジュードは、先ず身体を流すべきだよね、と言って笑った。
「お前なぁ……」
「だって臭いんだもん、アルヴィン」
「……そんなこと言って、俺に負ぶわれて帰んなきゃいけない、って解ってて言ってんのジュード君?」
「うん。八つ当たり」
 腰を下ろしながらアルヴィンは、この野郎、と言ってジュードの頭を小突いた。だが、振られた頭の痛みよりも近くなった腐臭と体温に、ジュードは鳥を眺める姿勢はそのままに身体を強ばらせる。肩が、彼の二の腕辺りに触れていた。寒くないか、と訊かれて頷く。アルヴィンの方を見ることは出来なかった。
「何つーか……圧巻だねぇ」
 固まった子供の真意を汲み損ねた男は、同じように鳥を見やると呟いた。
「……そうだね。凄いね」
 身体を強ばらせたまま、ジュードは言った。彼の、二十年を食い散らす鳥を眺めながら言った。
 指先に、触れるものに気付く。冷たく乾いた彼の手だ。認識するより先に控え目に指先を絡め取られた。だが、力を込めるのはジュードの方が早かったように思う。
 ゆっくりと熱の境界がなくなっていくのを感じながら、鳥を眺める男の横顔に目をやった。彼は地平線に滲む陽の光に、眩しそうに目を細めていた。すぐにまた視線を真正面に戻して鳥を眺めながら、掛ける言葉の代わりに繋いだ手を強く握り直した。喉を鳴らしてアルヴィンが笑う。その肩に頭を預けて、ジュードは隣に座る男にもたれた。
「何か、ピーチパイが食いたいなぁ」
 え、とジュードは顔を上げる。密着していた身体が離れて、その隙間に流れ込む空気が冷たい。だが、指先はまだ絡み合ったままだ。鳥達は肉を奪い合いながら、煩く鳴き立てていた。
「……じゃあ、今度食べに行こうか」
 赤銅色の視線が降りてくる。二度、ゆっくりと瞬いて彼は心底不思議だとでも言うように首を傾げた。
「お前作れよ。腰痛ぇし」
 忌々しげに吐き捨てて、彼は顔を背ける。抜けた主語を頭の中で補完しながら、今度はジュードが首を傾けた。答えは出ない。彼が腰の痛みを主張するように、ジュードの身体もあちこち不調を訴えていたので何だか自分だけが責められているような気がするのは不当だなぁ、と思ったくらいだ。だから、目覚める前の鳥と黄昏の夢から連想された記憶も相俟って、ただ彼の希望を叶えてやるのは癪だった。何か皮肉の一つも返してやろう、そんなことを考えながらジュードは熱を預けたまま鳥を眺める。まだ少し、人型を備えた肉が蠢く黒い鳥達の合間から覗き見えた。
 指先だ。肉がまだ少し残っている。爪が剥がれて、砂利に埋もれる。手の中の絡めた冷たく乾いていた筈の指先が、気が付くと少し汗ばんでいた。痛い程に強く握り締められている。同じ光景を彼も見ている。その事実が、何故だか酷く尊いことであるように感じられてたまらなくなった。
 目を伏せて、俯く。握り締めてくる手の力が緩んで、すり抜けた。すかさず絡め取って握り締めると、隣で身じろぐ気配があった。きっとこの男はまた面倒くさい勘違いをしているに違いない、と思った。けれど、顔を上げることはしない。彼の視線を感じる。だから、ジュードは俯いたまま緩く首を横に振った。
 ごめんな、と声が降る。また、ジュードは首を振った。もう聞いた。もう要らない。言いながら、首を振る。
 「俺が悪かったんだ」鳥の鳴く声と羽音の合間を縫って、男は言った。「全部、俺が悪い」
 もう黙ってしまえばいいのに、とジュードは思った。そうでなければ鳥達が、もっと大きな音を立てて彼の母親を咀嚼すれば良い。断罪を望む声など掻き消されてしまえば良い。
「……そうだよ。こんなとこまで連れてきて」
 顔を上げて呟く。それから、肩に手を掛けて彼の頬に唇を寄せた。
「ついて来いなんて言ってねぇからな、俺は」
 忌々しそうな男の声が降ってきて、ジュードは鼻の頭をかじられる。肩に置いた手を反射的に外して鼻先を抑えた。顔が熱い。
「ついて来るな、とは言われなかったよ。戻れとも、待ってろともアルヴィンは言わなかった」
 手指の間から零すように、ジュードは言った。もう一方の手は、引き留める強さで彼の手を握り込んだままでいる。
 「……ああ。言わなかった」ジュードの手を握り返しながら、アルヴィンが言った。「一緒に来てくれて、ありがとな」
 眉根を寄せて、歯を食いしばった。微笑む彼を直視出来ずに顔を逸らす。馬鹿な男だ、と呆れるばかりで返すべき言葉が見つからなかったからだ。けれど言われたままでいるのがどうにも癪で、結局アルヴィンの唇に噛み付いた。

 鳥が飛び去るのを見届けて、ジュードとアルヴィンは山頂を後にした。幾らかの骨の欠片が風にそよぐ花の合間に残っていたが、ものの見事に人一人分の痕跡は消え去っていた。
 彼の背に負ぶさり下山している間のことはよく覚えていない。頭痛は相変わらずだったが、吐き気は大分収まっていた。ただ、呼吸回数が減ることを避けて浅い眠りが続いた為に、酷く眠たかった。対して、アルヴィンの足取りは驚く程軽かったように思う。けれど常日頃から大剣を片手で振り回し、死体を担いで山を登るようなこの男にとってはジュード一人くらい大した重さに感じないのかも知れない。途中までは何かしらぽつりぽつり会話をしていた記憶がある。これからどうするの、とジュードが訊けば取り敢えず従兄を訪ねると返され、その後のことはまだ考えてないと彼は付け加えた。頬に、柔らかい鳶色の髪を感じながら、ジュードは目を閉じた。
 「いいんじゃない?焦らなくても」鋭利になった感覚で彼の匂いと体温を捉えながら囁く。「迷ってもいいよ……最後には逃げないでくれるって信じてるから」
 少しの間を置いて、彼は溜め息を吐いた。それから、身じろいでジュードを背負い直す。
「そういうお前はどうすんだよ。源霊匣の研究するにしたって、何から取っ掛かるつもりだ?」
 体勢が変わって、アルヴィンの顔がより近くなった。
「そうだね。源霊匣の研究もだけど、ピーチパイの研究もしなきゃ」
 そう呟いた頃の記憶は、殆ど朧気にしか残っていない。源霊匣と同列とは恐れ入るね、と笑みを含んだ声が返される。夢現に揺れる背中の体温が奇妙に懐かしく感じられた。
 そうして次に意識が浮上したときには、ジュードは寝台の上に横たわっていた。異国でありながらも懐かしい薬品の匂いが鼻腔に届く。視線を巡らせれば、ぶら下がる点滴がすぐに目に留まった。その向こう側には開け放された窓があり、祈念布が風に揺れていた。アルヴィンは部屋の中の何処にも居なかった。
「高地肺水腫です」
 開口一番、部屋に入って来た白衣の男は言った。彼はシャン・ドゥの治療院の医師で、ジュードは日付が変わって少しした頃に運び込まれたのだという。真夜中に起こされた所為か医師はぶっきらぼうな口調でジュードの症状を責めた。仕舞には隣りに控えていた看護士の女性が、同情するような微笑みをジュードに向けてきた程だ。
 低酸素症の自覚はあったがここまで状態が悪化していると思っていなかったジュードは、三日間の入院を経て治療院を後にした。見舞いに来てくれたユルゲンスとの会話を思い出しながら、石造りの街並みを歩く。
 突然現れた知人に動揺を隠せずにいるジュードに、ユルゲンスはあの人の良い笑顔で以ってアルヴィンからシルフモドキで連絡を受けたことを教えてくれた。下山の際、船頭に迎えの鳥を飛ばすと同時にアルヴィンは彼にも治療院の手配を頼んでいたらしい。その後シャン・ドゥに着く頃にはすっかり意識のなくなっていたジュードを二人掛かりで治療院へ運び、その際アルヴィンはそれはもう酷く医師からお叱りの言葉を浴びせられたのだという。
「だから、会いたくても会いにこれない彼の代わりにこうして私が出向いたんだよ」
 曇りなく綺麗に微笑みながら、ユルゲンスは言った。だが、アルヴィンが自分の見舞いに来ない理由はそんな可愛らしいものでないとを知っていたジュードは、曖昧に感謝と謝罪の言葉を告げることしか出来ない。アルヴィンとの間にある鬱屈としたもの、確執や溝を上手く説明するのが難しいからだ。ただ、これでまた逃げられてしまった、とジュードはそれを少し残念に思う。ユルゲンスから、遺品の整理はジュードが治療院に運び込まれた次の日には終わったことを知らされたからだ。
 少し時間を取られたが当初の予定通りニア・ケリアへと向かう為、船着場へと向かう。途中、今一度アルヴィンが母親の為に用意した部屋の窓を見上げた。風に揺れる祈念布の間から、窓の縁に鳥が止まっているように見えたが逆光でよく判らなかった。
 暗がりから川岸へと延びる階段を下り、船着場へと向かう途中その背中を見つけた。思わず、ジュードは足を止めた。積み上げられた木箱の一つに腰を下ろして、川を眺めている。厚手のコートを羽織り、ブランド物だというスカーフを締めた男の姿はとてもよく目に馴染んだ。
「アルヴィン」
 名前を呼ぶと、肩越しに彼が振り返り目を細める。服装だけでなく前髪もきちんと撫で上げられていて、すっかりジュードのよく知るアルヴィンだった。ただ、その挙動だけが腑に落ちない。
「……もう行っちゃったかと思ってた」
 歩みを再開しながら、ジュードは言った。腰掛けたままのアルヴィンを見下ろす。
「ありゃ。おたくの中で俺ってばそんなに薄情なわけ?」
「そうは言わないよ。寧ろ情は深いんじゃないかな。逃げ癖があるけどね」
 思わず零れた笑い声と共に言うと、アルヴィンは無言で肩を竦めた。その脇をすり抜けて、船着場へと向かう。その途中、僅かにだが歩調を緩めた。少しだけ迷う。だが、結局振り返ってしまった。アルヴィンはまだその場に座っていて、ジュードの方を見ていた。必然的に目が合って、思わず視線を足元に落とす。怪訝そうな彼の気配を感じて、ジュードはますます言葉を詰まらせた。
 顔を上げると、腰を浮かせて立ち上がりかけたアルヴィンと矢張り目が合う。まだ本調子じゃねぇんじゃねぇの、と彼は呆れた様子で苦笑混じりに言った。
「でも今度は、逃げないでいてくれたんだよね」
 ジュードの身を案じるように延ばしかけたアルヴィンの手が動きを止める。その行き場をなくした手を、すかさず捉えた。「何、それ」と彼は投げ遣りに笑って言った。
「うん。逃げそびれたついでに、今度は僕に付き合ってくれないかな、って話」
「……俺も一緒にニア・ケリアに行けってか?可愛い女の子二人もふっといて、悪い男だなジュード君」
 呆れた、とでも言うようにアルヴィンは喉を鳴らす。茶化さないでよ、とジュードは頬を膨らませた。
「いいんだよ、アルヴィンは。だって、ニア・ケリアに初めて行ったとき一緒だったでしょ」
 右も左も分からない異国での旅の空の下、確かに後悔はあったが強い不安はすぐに消えてなくなった。それはきっと、力強いミラの言葉と眼差しがあったからだ。そして、その隣にはジュードを危機から救ってくれた彼が居た。二人が一緒だったから、ジュードの旅は辛いだけではなかった。三人が一緒だったから、辿り着いたニア・ケリアの空がとても美しく見えた。
「分からない?……同じ思いを共有出来るのが、アルヴィンくらいしか居ないんだよ」
 だから一緒に行こう、とジュードは言った。アルヴィンは笑みをひそめて、視線を流れる川へと向ける。ジュードは、握り返されることのない手を見つめていた。山頂で絡め取った、彼の手の冷たさを思う。手袋越しの体温は遠い。
 不意に、繋いだ手を強く引かれた。虚を突かれたジュードは前のめりに一歩を踏み出して、そこですかさずアルヴィンに引き寄せられる。肩の上に重みと温もりを感じ、彼の吐息が落ち掛かるジュードの前髪に触れた。肩を組まれると、いつもそうだった。
「で、報酬は?」
 悪戯っぽく、彼は笑った。思わずジュードも吹き出して、額をアルヴィンの胸元に押し当てて笑う。
 「急に言われても、お金なんてそんなにないよ」身体を離しながら、ジュードは言った。「でも、そうだね。ピーチパイの材料くらいは買えるんじゃないかな」
 手は、まだ繋いだままでいた。促すように引くと「それで手を打つとしますか」とアルヴィンは言って肩を竦め、空を仰いだ。ジュードが手を引くままに歩き出す。上ばかり見てると危ないな、とジュードは思った。
「あ」
 注意しようとしたところに気の抜けた彼の声がして、思わず立ち止まる。振り返るとアルヴィンは相変わらず空を見上げていた。
「鳥だ」
 彼の視線を追い、ジュードも空を見上げる。矢張りさっきの鳥は見間違いではなかったのだな、と強く握り返された手に口元を綻ばせながら思った。

11.30.09:28

鳥をまつひと3

 空へ向けて真っ直ぐに伸ばされた指先から、羽音を立てて一羽の鳥が飛び去っていく。ジュードは鳥を放った男の背を見るともなしに眺めていた。
 頭痛が少し治まった代わりに、息をする度に胃が重く沈むような感覚を覚える。耳鳴りも酷い上に、無神経な蝿たちが相変わらず耳元を煩わしく飛び交っていた。正確には、座り込むジュードの傍らから漂う死臭に集っている。
 母親の死体を綺麗に麻布の中へと戻してしまうと、アルヴィンは鳥葬の為に山を登る、と言った。近くに在るそう高くない山で、地元の人間なら半日程で登りきってしまえるらしい。シャン・ドゥの住人の多くがその山の山頂で鳥葬を行う。素人だし倍はかかるかな、とアルヴィンは言った。そこで、ジュードが舟の船頭が迎えに来てくれることを伝えると、彼は怪訝そうな眼差しを向けてきたが結局吐息を一つ零しただけだった。それから、彼の鳥ーーシルフモドキに船頭の霊視野を覚えさせてある、と言ってアルヴィンは紙片に筆を滑らせた。
 耳元を飛び交う蝿を追い払うジュードの方へ、鳥を飛ばした男が緩慢な足取りで近付いてきた。辺りは黄昏を孕み始めた空を背にするその表情は、少し判りにくい。
「おたく、マジでついてきちゃうわけ?」
「今更それを訊く?シルフモドキ、飛ばしちゃったのにさ」
「だけどジュード、お前……」
 アルヴィンの紡ぐ言葉を最後まで耳に入れる前に立ち上がる。或いは、アルヴィンが言い淀んだのかも知れない。何にせよ先に続く言葉は容易に予想出来たので、最後まで聞くつもりがなかったのは確かだ。立ち上がった拍子にまた頭の痛みが増した気がして眉根を寄せる。そんなジュードの様子に彼がどんな感情を読み取ったのかは解らない。ただ、ジュードの思惑通り一度は途切れた先の言葉を、アルヴィンが続けることはなかった。
「……誰も居ない川辺で一人で居るなんて僕は嫌だからね、アルヴィン?」
 それ以上に、アルヴィンを独りでなど行かせたくはなかった。ただ、本当のことを言うと彼は良い顔をしないだろうな、とジュードは思った。だから言わなかった。
「それで、山に登ってどうするの?」
 一度、深く息を吸ってからジュードは言った。アルヴィンは何かまだ言いたそうに頭を掻いたが、結局ジュードの足元に屈んだだけだった。
「山頂で死体をバラして、鳥を待つ」
 死臭のする麻布の包みを右肩に軽々と担ぎ上げながら、アルヴィンはジュードの問いに答えた。思わず、彼のコートの裾を引く。
「アルヴィンがやるの?」
「おたくにやらせるわけないでしょーよ」
「そうじゃないでしょ、アルヴィン」
 語気を強めてジュードが言うと、彼は少し怯んだように顎を引いた。だからジュードも思わず引いてしまった彼のコートの裾を離した。
「鳥葬師が捕まらなかったんだ。こればっかりはな……急な話、ってのもあるけど断界殻が消えて霊勢の偏りがなくなった所為か、鳥が読めなくなっちまったとかでことごとく全滅だったんだわ」
「もうそんなに、リーゼ・マクシアに影響が出てるなんて……」
「そ。だからこんな混乱した状態じゃ、アポもない俺の依頼は受けられないってことなんだろ」
 意図的に、であるのかは判らないが彼の声音は随分と明るいものだった。行くんだろ、とジュードの背中を叩いて歩き出す。その後を、少し遅れて小走りに追い掛けながらジュードは問いを重ねた。
「ねぇ、大丈夫なのアルヴィン」
 足がもつれて重い。ほんの少し走っただけなのに、呼気が乱れる。そんなジュードをアルヴィンは足を止めて待っていた。大丈夫じゃねぇのはお前だろ、と言って溜め息を吐かれた。けれど、待っていろとも帰れとも言われなかったので、呼吸を整えながら彼の隣りに並んだ。
「……まぁ、大丈夫なんじゃねぇの。前に人手が必要とかで手伝ったこともあるから、手順や要領も分かってるしな」
 ジュードの息が整ったのを待って、アルヴィンはまた歩き出した。だが、その足取りは先程より幾らも緩慢だ。走るとコケるぞ、と肩越しに言われたので大人しく歩いて彼の背を追う。
「それもアルヴィンが今までやってきたっていう『汚い仕事』のひとつ?」
 そういう意味で訊いたんじゃない、と喉元まで込み上げた言葉をジュードは飲み込む代わりに軽口を叩いた。軽快な笑い声と共に、アルヴィンは肩を揺らす。それから、死体の処理なんて「汚い仕事」の内にも入らないさ、と彼は言った。
 その後も何度か彼の殊更緩やかな足取りに、それでも遅れながらジュードは歩いてついていった。アルヴィンはその都度立ち止まってジュードとの足並みを揃えて水分の補給を促した。差し出された水筒を素直に受け取って喉を潤しながら辺りを見渡すと、薄紅色の空が徐々に彩度を落とし始めていた。木々は益々疎らになり、身体に吹き付ける横殴りの風ばかり随分と強くなったように感じられる。前を歩く男が、そんな風からジュードを庇うように歩いていることにも気がついた。そういえば、旅を始めて間もない頃はよくこんな彼の背中を見ていた気がする。旅慣れないジュードやミラをその背で庇って、彼はいつも数歩先を歩いていた。やがて隣りに並び前線を駆るようになると、寧ろ先陣をきるように戦場を走るジュードの支援が多くなったアルヴィンの背を目にすることは殆どなくなった。
 途中、アルヴィンは何度か肩を揺らして麻布の包みの位置を直した。そう辛そうな様子ではなかったが、長時間一点に重みが架かるのは彼でも負担になるのだろうな、とジュードは思った。
 深い呼吸を心掛けながら歩を進めていると、また一つ男が身じろぎをした。その拍子に麻布の包みが僅かながら解けて、隙間から腕が落ちた。アルヴィンが舌打ちをしながら足を止める。拾おうと振り返る彼を制して、ジュードはその足元に屈んだ。奇妙に柔らかく張りを失った肉が、指の間に入り込んでくる。あまり強く握ると崩れてしまいそうな危うさがあった。慎重に拾い上げると、腐肉と骨の覗く断面からはらはらと小指の爪程の大きさの蛆が零れて落ちた。
「悪いな」
 アルヴィンが手を伸ばしてきた。ジュードは首を横に振る。
「いいよ。また落としちゃうかも知れないし、僕が持つよ」
「……あんま気分のいいもんじゃねぇだろ」
「何言ってるの。僕、医学生なんだよ?」
 ポケットからハンカチを出して、丁寧に彼の母親の腕を包む。少しはみ出たが、これくらいならば問題はないだろうとジュードが満足して頷くと諦めたのか彼は風にかき消されてしまいそうな程小さな声で「好きにすればいいさ」と言って背を向けた。その背中に「好きにするよ。ずっと好きにさせてくれてるくせに」とジュードは声を投げた。
 「……もう少し行くと山小屋があるから、そこで包み直す」心底忌々しそうに彼は告げた。「そうしたら、今日はもう歩かない」
 確かに、辺りはもう随分と暗くなり始めていた。シャン・ドゥの一帯は霊勢の偏りの為に一年を通して夕暮れに包まれていたが、断界殻が解かれたことによってごく僅かな時間だが朝や夜が訪れるようになったらしい。やがてその時間も長くなりリーゼ・マクシア全体の霊勢も安定するだろう、と言っていたのは確かローエンだった。それだけに今までの霊勢の移り変わりは当てにならない。だから、アルヴィンの提案は尤もだ。けれどジュードは何となくそれが気に入らないな、と思った。或いは、後ろめたさのようなものがそこにあったからなのかも知れない。
「……まだ歩けるよ」
 気がついたら口に出していた。当然のことながら、アルヴィンは怪訝そうな視線をジュードに向けた。
「俺が疲れたんだよ」
「嘘。嘘吐き。アルヴィンっていつも嘘ばっか。嘘だよ」
 首を横に振る。頭が痛かった。蝿が煩い。風の音かも知れないがどちらでも構わなかった。耳鳴りがして、吐き気がした。
「……お前、取り敢えず落ち着け。水飲めよ」
「嫌だ。さっき飲んだ」
 彼の母親の腕を抱え込んで、ジュードはその場にうずくまった。俯いてしまったのでアルヴィンの表情は見えなかったが、困っているのは気配で判った。違う。困らせたいわけじゃないんだ。助けになりたいんだ。頼って欲しいんだ。そんな感情がぐるぐると渦巻くけれど、息が苦しくて言葉にならなかった。置いて行かれるかも知れない、と急に奇妙な不安に襲われて泣きたくなった。彼が盛大な溜め息を吐いた所為かも知れない。
「ジュード」
 名前を呼ばれた。顔を上げるよりも、返事をするよりも早く、アルヴィンに腕を掴まれた。そのまま力任せに引かれて、自然と腰が浮いた。彼の母親の腕を落としてはいけない、とジュードが慌てている間に水筒を押し付けられる。少し迷ってから、ジュードは水筒を受け取った。その時、彼のあからさまな安堵の表情を見てしまって何も言えなくなった。空いた手で彼はコートのポケットを探り、飴玉を二つ取り出すとジュードの手に握らせた。
「飲み終わったら行くぞ。歩きながら舐めてな」
 離れ際に、頭を柔らかく一撫でされる。ジュードが水筒の中身を飲み干したのを見届けるとアルヴィンはまたゆっくりとした足取りで歩き出した。言われた通り飴玉を一つ口に放り込んでジュードも後を追った。風が随分と冷たくなってきたように感じられて、彼の巻いてくれたスカーフを巻き直した。まだアルヴィンの匂いがする。腕の中には相変わらず彼の母親の一部があって、それが何故だかとても不思議だった。

 言葉通り、十分程歩いた所に無人の山小屋が建っていた。宿泊を目的にしたような施設ではなく本当に中継地の単なる休憩所といった風体の質素な石造りの小屋だったが、中には毛布やストーブが備え付けられていて外で野宿することを思えば上等だった。かなり暗くなっていたので周囲の様子はよく解らなかったが、吹き付ける風の相変わらずの強さから遮るものが辺りにないことが知れた。アルヴィンはジュードから母親の腕を受け取ると、先に小屋に入って火をおこすように言った。外で包み直すつもりらしい。気を遣われているな、と感じてまた先程の言い知れない不愉快さがこみ上げてきたが、もう彼を嘘吐きと罵る気も起きなかったので大人しく山小屋の中に戻った。
 小さい窓が一つあるだけの小屋の中は外よりも一段と暗く、ジュードは手探りでストーブまでたどり着くと火をおこしに掛かった。幸い空気が乾燥していたこともあって、火はすぐに点いた。部屋の中が暖まり始めたところで、改めて備え付けられている備品を調べる。毛布だけでなく寝袋や缶詰め、茶葉に加えてポータブルストーブなども揃っていた。アルヴィンとは違い山に登ることになるとは思ってもいなかったジュードは、勿論何の準備もしていない。これ以上彼の負担になるわけにはいかなかった。そこまで考えてふと、缶詰めを物色していた手をジュードは止めた。
 負担になっているのは、間違いない。アルヴィンは、ずっとジュードに気を遣っていたように思う。風から身を呈してジュードを庇い、努めて緩やかに歩を進めた。一人だったら、アルヴィンはもう山頂に辿り着いていたかも知れない。だが、決定的な一言を彼は口にしない。或いは、医学生であるジュードが何も言わない為に、ハ・ミルでの出来事を境に彼が患い続けている病がそうさせているのかも知れない。だとしたらそれはそれで業腹なことだ、とジュードは思ったが何にせよここに来て彼の考えが全く読めなくなってしまった。ただ、これまでのアルヴィンの様子から素人判断ながらもジュードの状態を把握しているということは解る。そして、その諸症状への対処も的確に彼は行っていた。それらの結果から察するに、次に彼はきっと山小屋での待機か下山を言い渡すのだろうな、とジュードは思った。歯噛みをする。事実を突きつけられても、断る言葉が思い付かなかったからだ。最悪、アルヴィンも一緒に山を下りると言い出しかねない。それだけは何とか避けなければ、と思うと矢張り自ら彼に申告するのが妥当なところだ。
 豆を煮たスープの缶詰めを二つ手に取ると、ジュードはストーブの近くへと戻った。缶切りで蓋を開けて火に掛けているそこに、アルヴィンが戻ってきた。外気が吹き込んでその温度差に肩を震わせると、彼は慌てて扉を閉めた。
「悪い」
「ううん、平気。外、大分寒い?」
「だな。やっぱ今日はこれ以上はキツいって」
 両手を擦り合わせながらストーブの前へとやってきたアルヴィンの為に脇に避ける。彼は火に向かい暫く手のひらをかざした後、手袋を外した。そこでふと気になってジュードは背後を窺った。次いで、周囲を見渡す。隣から「どうしたよ、優等生?」という声が湧き上がったので、そこでやっとジュードはアルヴィンの方を見た。目が合う。
「あれ?……お母さんは?」
「外に置いてきた。あっちのが寒いし」
 言ってから、彼はゆっくりと炎に向き直った。それから火にかけられた缶詰めを見て、これだけじゃ足りねぇかもなぁ、と言った。結局彼は自分の分とジュードが半分程残した缶詰めを平らげて、その後も物足りないと言って携帯食をかじっていた。その際の食欲のないジュードへの言及は特になかった。だからジュードもそれに甘えて、とうとう自分の症状を言い出せなかった。ただ、彼は相変わらず水分の摂取を要求し続け、食後にバター茶を淹れてジュードに渡した。一杯目は良かったが、カップが空になる度に注いできて最終的に体調不良の所為で気持ちが悪いのかバター茶の所為で気持ちが悪いのか判らなくなってしまった。正確な時間は鐘の音が聞こえない場所だったので解らなかったが、ジュードが頻繁に目を擦り始めるとアルヴィンに眠るよう促された。
「アルヴィンはまだ寝ないの?」
「いや、俺ももう寝みぃわ流石に。でもその前に荷造りだけ済ませちまうから、おたくは先に横になれば?」
 アルヴィンに毛布を手渡される。少しカビ臭い。
 酷く身体が怠いのは確かだったので、言われた通り横になると胃の中がかき回されて喉元までさっき食べたスープがせり上がってくる気がした。息を詰めてやり過ごすと、手足を縮こまらせて毛布にくるまる。すると何だか急に不安になった。思わず、口を開く。
「置いて行かないでね、アルヴィン」
 言ってから、後悔した。後悔してから、今更だと思った。彼に言おうと一度は決めた筈なのに、馬鹿な話だと自身にほとほと呆れた。けれど、ゆっくりと振り向いたアルヴィンの顔を見たらそうした諸々はすぐに消え失せた。浮かんだ表情こそ乏しかったが、彼は酷く驚いているように見えたからだ。だからジュードは、矢張り彼は足手まといの自分を残して黙って行ってしまうつもりだったのだろうな、と思って少し悲しくなった。置いていかないで、とジュードは繰り返した。独りにならないで、と祈るような心地で呟いた。それらの言葉に彼が返した答えをジュードは知らない。答えを待つより先に、意識が深く沈んでしまったからだ。
 眠りは浅く、ジュードは目を覚ました。その都度アルヴィンの姿を探そうとして視線を巡らせようとするのだが、姿を捉えるより先に手のひらで視界を覆われてしまう。夜明け前なんだからまだ寝てろ、と囁いてカップに注がれた水をジュードに飲ませた。何度目かの覚醒で空が明るんできたことが知れ、状態を起こそうとしたらむせた。咳き込んでいると、横になってるのが辛かったらもたれてろ、とアルヴィンは言ってジュードを背中から毛布ごと抱え込んだ。
「ちゃんと、寝てる?」
 重たくなる目蓋を押し止めながら、ジュードは訊ねた。寝てるさ、と耳元で声がする。背後からジュードを抱きすくめる彼が、額を肩に押し当ててきた。
「ちゃんと寝てるから、お前も寝ろ」 嘘吐き、と呟いてジュードは笑う。それからアルヴィンに体重を預けて目蓋を閉じた。彼の体温を追う。その後は意識が浮上することも夢を視ることもなかった。

 寒さで覚醒した。だが、目蓋は重くなかなか開かない。それでも、頬に感じる外気が冷たくて身震いする。そこで、ジュードは一息に目を開けた。
 アルヴィンが居ない。
 壁にもたれたまま小屋の中を見渡す。昨晩使用した機材は既にしまわれていた。寝る前に荷物をまとめる、と言っていたのでそのとき一緒に片付けたのかも知れない。
 一瞬、矢張り置き去りにされたのだろうか、と脳裏に浮かんだ。だが、すぐに否定する。根拠のようなものはなかったが、今一度ジュードは彼を疑うようなことをしたくなかった。彼を信じたかった。それに、まだアルヴィンのスカーフはジュードの襟元に巻かれたままだった。
 立ち上がるが、足元は安定しない。昨日より更に状態が悪くなっている。動いたことで頭が痛みを訴えた。咳き込むと、錆の味が口の中に広がった。だが、ジュードは何度か深い呼吸を繰り返すと毛布を肩に引っ掛けて小屋の外に出た。
 朝陽が目に突き刺さる。切り立った崖の向こうに菫色に染まった空の色と、昇る朝陽の光を淡く映し込んだ雲海が広がっていた。昨夜訪れた時には辺りも暗くなっていたので判らなかったが、かなりの高さまで登ったようだった。
 傍らを見ると丁寧にまとめられた麻布の包みが目に留まる。だから、まだ彼が近くに居るのだという確信が得られて安心した。
 風が強く、毛布が浚われないようにと抑えながらジュードは山小屋の周りを歩いた。何か意味があるのか、ところどころに奇妙な紋様の描かれた石を積み上げた塚が立ち並んでいる。丁度小屋の陰になるところに井戸があって、まだ新しい水を汲んだ後が残っていた。改めて辺りを見渡すと、空に向けて片腕を高く突き出したアルヴィンを見つけた。鳥の羽ばたく音がする。シルフモドキだ。黄金色に輝き菫色の滲む雲海へと消えるその姿を見届けると彼が振り返った。すぐに目が合う。アルヴィンは少し驚いた様子で目を見開いたが、それもほんの一瞬のことで低く唸るような声でジュードの名前を呼んだ。
「お前……起きたのか」
「寒くて目が覚めたんだよ」
 彼は黙って手指をジュードの額に寄せた。長く外に居たのか、手袋を外したその指先はかさついて冷え切っていた。指は額からこめかみへと滑り、そのまま頬に手のひらを添えた彼は、熱いな、とだけ言った。或いは、続く言葉があったのかも知れない。ただ、先にジュードが口を開いた。
「シルフモドキってこんな高度まで来られるんだね」
 彼はすぐに答えなかった。逡巡は、ジュードの投げた問い掛けに対するものではないと知れた。けれど、結局アルヴィンは小さく顎を引いて「そうだな」と言った。
「風の精霊術で気圧を制御してるみたいだから、こんくらいはな」
「そうなんだ。……えっと、それで?今の、船頭のお爺さんから?」
「ああ。また鳥を飛ばして連絡寄越せってさ」
 言いながらアルヴィンはジュードの頭をかき混ぜて、それから背中をそっと押した。
「戻ろうぜ。ずっと外に居たから寒ぃ」
「出発は?」
「……飯食ってから」
 促されるままに山小屋に戻ると、彼はバター茶を淹れながら何を食べるかジュードに訊いた。食欲がなかったジュードは何と答えるべきか、と言葉に詰まったがアルヴィンが「食べたくなけりゃ食わなくていい」と言ったので頷いた。ジュードがアルヴィンの淹れたバター茶を飲んでいると、彼も面倒だったのか携帯していた皮袋から粉を掬い取るとバター茶と混ぜて練り合わせそれを食べるだけに済ませた。見慣れない食べ物をジュードが不思議そうに見ているとア・ジュール原産の麦を轢いたツァンパという粉で、シャン・ドゥでは一般的な携帯食なのだと教えてくれた。
 出発前、少し腹が下った。眩暈は酷く、風の音よりも耳鳴りの方が大きい。だが、それらの不調をアルヴィンに伝えることはせずに、山小屋を発った。
 山頂へと続く道の足場は悪かった。ニア・ケリア山道とは異なり、閑散と広がる赤茶けて乾いた大地に小石ばかりが転がっている。土は堅く、靴底を通して足の裏に冷気を感じた。俯いて登るジュードの足元には、緑も陰もない。砂を孕む風に、何度か倒れそうになった。吐き気と眩暈は治まらない。目が霞んで、酷く寒かった。耳鳴りに全ての音を奪われて、そのくせ自分の息遣いばかりがいやに大きく鼓膜に届く。吐息が熱い。自分が確かに歩けているのか、彼について行くことが出来ているのか、不安になってジュードは顔を上げた。岩肌と、見たこともないような青い空とのコントラストが美しい。だが、アルヴィンの姿を見留めることは出来ない。そう思い至った瞬間、足を石に掬われる。倒れる、と身構えるより先に二の腕を強く掴まれた。アルヴィンだった。ジュードの背中側に腕を回して脇の下から押し抱えるように通すと、そのまま歩き出す。
「一人で歩けるよ」
 身じろぐが、体格に見合ったアルヴィンの力は強く、解けない。仕方なく、ジュードは「水が飲みたい」と言った。彼の手が緩むと、その隙に突き飛ばす勢いでアルヴィンの胸元を強く押した。腕は解けたが、振り払った筈の男は麻布の包みを抱えた状態であるにも関わらず僅かにバランスを崩しただけで踏みとどまった。だが、彼を気にかける余裕はジュードにはなかった。アルヴィンから少しでも離れようともつれる足で、二度、三度と踏み出すが結局膝をついてしまう。それでも立ち上がろうとしたそこへ、ジュードの名前を鋭く呼ぶ声がした。何かが落ちる音と、足音を聞きながら、咳き込むジュードは込み上げる胃液に耐えきれず吐いた。視界が涙で滲む。鼻の奥が痛んだ。うずくまるジュードの背中を、駆け寄ったアルヴィンがさすった。
「触らないで!」
 胃液で灼ける喉で、それでもジュードは声を振り絞り叫んだ。一瞬、怯むように背に触れていた体温が離れる。けれどその手はまたすぐにジュードの背中を案ずるようにさすり始めた。その間にも何度かむせて、咳き込んでいるのか吐いているのか判らない。さする彼の手を払いのけようとして暴れると、手首と腕を掴まれた。
「落ち着けって!」
 本当に、その通りだと思った。昨日からーーアルヴィンと再会してから、ずっと何かが可笑しいと思ってはいた。けれど、その理由は分からない。彼の真意も分からない。だから怖かった。ままならない身体と、不透明な彼の意図に、不安ばかりが増していった。
 恐らくはジュードの為に取り出し掛けたのだろう水筒が滲む不鮮明な視界に入り、手を伸ばす。自分の置かれている状態などとっくに知れていた。どうすればいいのかも解っている。アルヴィンの手を煩わせるまでもない。だのに彼は口煩く水を飲むことばかりを要求してくる。そこまで解っているなら、もっと別な最良の対処方法に思い至らない筈がないのにそれを彼は決して言わない。何を考えているのか解らない。どうして欲しいのか解らない。いつも彼はそうだった。大事なことは何一つ打ち明けてくれない。一人で抱え込んで、一人で結論に急いで、一人で追い詰められて、そこから動けなくなる。
 奪い取った水筒は、けれど口元に運ぶことすらかなわなかった。蓋の開いた口から零れた水が、袖口を濡らすが気に留めている余裕はない。血と胃液とが混ざり合った咳を繰り返す。苦しくて、アルヴィンがジュードから水筒を奪い戻したことにも気がつかなかった。手袋に覆われた彼の手が、頬に添えられる。もう一方の手は後頭部に回されて、顔が上向きになると少しだけ呼吸が楽になった。蒼穹を背にしたアルヴィンの顔で視界が埋め尽くされる。そうして息を吸おうとしたそこへ、彼の唇が触れた。一瞬、息苦しさも頭痛も消えたように思う。けれどすぐに口内へと注ぎ込まれた水を飲み下すことに必死になった。一息吐く頃、もう一度同じように唇を塞がれる。胃液で灼ける喉を流れていく水の感触が心地良かった。三度目の唇が降る前に顔を背け、息も絶え絶えにジュードは「もういい。要らない」と言った。頬に添えた手をそのまま背中に回してジュードを抱き込むと、アルヴィンは耳の裏に鼻先を埋めた。
 「ごめんな、ジュード」耳に掛かるアルヴィンの吐息がくすぐったくて、ジュードは思わず肩をすくめる。「ごめん」
 謝罪の言葉を繰り返す男の背に同じように腕を回そうとしたが、ままならない。腕は鉛のように重く、まるで自分のものではないようだった。だから仕方がなく、ジュードはアルヴィンに体重を預けて彼の肩口に頬を寄せた。
「……本当だよ。ファーストキスだったのに。酷いよアルヴィン」
 回された腕に、更に強く力が込められた。縋るような強さだった。彼は「犬にでも噛まれたと思ってくれ」と言った後、もう一度ジュードに謝った。だが、どうしてそんな風に謝罪の言葉を繰り返すのか、ジュードにはその理由が分からない。
 滲む視界は、それでも美しく空の青さを映し込んでいた。瑠璃色の空に、麻布がはためいている。彼の肩越しに見たその光景と、背中に回された腕の温もりとに何だか無性に泣きたくなった。

 不快な羽音に眉をひそめる。耳元で、鼻先で、掠めるように虫が飛び交う。卵を産みつける新たな腐肉を求めている。唇に止まり、鼻の穴の辺りに少しの間留まると、虫は頬の側へと這っていった。重たい腕を持ち上げて顔を擦ると、不快な羽音をたてて虫は飛び去った。
 鼻腔には、甘い匂いが刺さる。まるで何かを包み隠すかのように漂う、濃い香りだ。
 重たい目蓋をゆっくりと押し上げる。霞む視界に、濃い瑠璃色が移り込んだ。忙しなく飛び交う蝿は煩わしかったが、空は美しかった。仰向けに寝転んで、背中に硬く冷たい石を感じながらジュードは蒼穹を見上げていた。
 鼓膜を、風と虫の羽音でない音が揺らす。耳鳴りではない。聞こえた音は布を引き裂く音に似ている気がした。
 初めに視線だけ、次に頭をゆっくりと傾ける。案の定痛むこめかみを抑えて、ジュードは眉をひそめた。傾けた先の視界に乾いた大地が映る。だが、それでもそこかしこには小さく可憐な花々が風に踊っていた。甘い匂いの正体だ。途端、強い風と漂う甘い匂いの中に在って尚、鼻腔を突き刺す異臭が奇妙に意識された。思わず、喘ぐように口で大きく息をする。胸が詰まって反射的に胸元を握り締めたら、手触りの良い彼のスカーフに触れた。小さく咽せると、視界に捉えた異臭の中心に在る男が作業の手を止めて顔を上げた。暗い色をした外套のようなものを羽織った背中越しに目が合う。彼のコートはジュードの身体に掛けられていた。
「大丈夫か?」
 声は風の音にかき消されて届かなかったが、確かにそう動いた彼の唇にジュードは頷いて肯定の意を示した。アルヴィンは薄く微笑むと、また作業に戻った。
 呼吸もままならない程に状態の悪化したジュードに、アルヴィンが水を飲ませてくれたことは覚えている。彼の肩越しに打ち捨てられた麻布の包みを確かに見た。だが、その後の記憶が酷く曖昧だった。まるで夢のような心地の中で、彼に半ば抱えられるようにして歩を進めたような気もする。何となく懐かしい気がするのは、アルヴィンと初めて会った時にも彼の小脇に抱えられたからかも知れない。
 蒼穹を背に、外套を羽織った男が錆びた刃を振り下ろす。うつ伏せにした肉から頭が花の中に落ちた。血は出なかった。衝撃で、閉じられていた目蓋がめくれてアルヴィンによく似た赤褐色の、けれど薄ら白く濁った目が覗いた。だが、男は気にした素振りを見せずに鉈に似た刃を土に突き立てると、今度はナイフを取り出して切断面から背中に向けて切れ込みを入れていった。淡々と、男は手を動かす。そこには何の感情も見て取れない。よく似た光景を故郷でも見たことがあるな、とジュードは思った。
 昔、まだジュードがル・ロンドに居た頃珍しい家畜がレイアの実家が経営する宿に持ち込まれた。それはア・ジュールでは一般的によく食べられるというブウサギで、レイアの父親がその肉を切り分けて見せてくれた。その時彼女の父親が身に付けていたのは外套ではなく前掛けだった気もするが、肉に刃を振り下ろす様が丁度今のアルヴィンに重なる。確か、うつ伏せにするのは内臓が飛び出すのを避ける為だと彼女の父親は言っていた。
 背中の次は足だった。一息に切れ込みを入れて、足の裏を削ぎ取る。血は、矢張り出ない。それでも辺りには花の匂いに混じって、獣じみた脂の臭いが漂っていた。少し距離を置いて眺めているジュードですら、額から脳にかけて突き刺さるような刺激臭を感じる。だが、ナイフを逆手に持った男は淡々と足の指の間にも切り込みを入れて、今度は腕を手に取った。
 以前にも経験があると本人が言っていた通り、彼は実に手際良く肉を解体していく。そこには一切の情どころか、人間性すら感じさせない。
「何か、手伝おうか?」
 死斑の浮いた腕を切り裂き、手指の間に切り込みを入れるアルヴィンにジュードは身体を横たえたまま思わず声を掛けた。片膝を突いて俯いていたアルヴィンが顔を上げる。目尻が少し赤くなっていて、ジュードは声を掛けたことを後悔した。けれど彼はそんなジュードを寧ろ気遣うように「いいから寝てろ」と今度は風の音にかき消されないよう声を張り上げたかと思うと、噎せながらしゃがみ込んだ。すぐに背を向けてしまったので見えなかったが、あれは吐いたな、とジュードは思った。
 青空の下、風にそよぐ花々の中に横たわる腐肉というのは何だか酷く現実味を欠いていて、本来付随すべき嫌悪感や道徳観はまるで遠くに感じる。蝿は相変わらず煩わしかったが、髪を撫でる風は心地良かった。
「……鳥、どう?来そう?」
 緩く、目を閉じてジュードは呟くように問うた。彼に声が届かなくても構わなかった。だが、すぐに明瞭な声音で「わっかんねぇ。全然読めねぇ」と忌々しげな声が返されて、ジュードは笑った。目を開けると、視界に広がるのは雲一つない青い空ばかりで唸るような彼の声にも納得した。
「大丈夫。ミラが連れてきてくれるよ」
 囁くように、ジュードは言う。肉を引き裂く音が一瞬だけ絶えて、それから喉を鳴らす彼の笑い声と共に再開した。
「……どんだけミラ様頼みなのよ」
 楽しそうに、彼は肉の肋を砕きながら言った。溜まっていたガスで、悪臭が深みを増した。鷲掴みにされ引きずり出された内臓は、腐敗が進んでいる所為かところどころが緑や黄色に変色しているのが遠目からでもよく判った。
「いいんじゃない?……それくらいの責任、取っても」
 アルヴィンへの答えとしてではなく、もうここには居ない彼女にジュードは言った。ジュードの気がつかなかった彼の弱さに手を差し伸べた彼女に言った。
「アルヴィンは、ミラが好きだった?」
 空を見上げたまま今度こそ、彼に問う。それから、少し意地の悪い言い方をしてしまったことに気が付いてそれが可笑しくて笑った。現にアルヴィンは閉口したまま、身じろぎ一つしない。空から地上へと視線を落とせば蝿の集る腐肉の溜まり場で、内臓を掻き出す仕草のまま固まっている彼と目が合った。けれどジュードの視線に気が付くと、彼はくしゃりと顔を歪めて笑った。
 「わかんねぇ」言いながら、アルヴィンはまた手を動かし始めた。「分からない。だけど、多分……」
 繰り返された言葉は先と同じ質の答えでしかなかったが、その後に少しだけ続きがあった。その続きもまた途中で絶えてしまったが、ジュードは概ね満足した。そこに彼の嘘がなかったからだ。だから先の言葉を促すこともせず、ただ笑った。けれど彼は不満そうに「ミラを好きなのはおたくの方でしょーよ」とぼやいている。
「……そうだね。僕も、愛してる」
 確かに、彼の言う通り自分は彼女のことが好きなのだろうな、とジュードは思う。だから、そのまま言葉に出した。
 こうして離れた今ですら、彼女を感じ、愛している。その想いを口にしたことも、口にしようと思ったこともなかったが、変わらず彼女を愛している。豊かな小麦色と若草色とが織り成す不思議な色彩の髪や、強い意志を宿した鮮やかなピジョン・ブラッドの眼差しや、淀みない真摯な姿勢、その全てが愛しい。けれど同時に、それらジュードの愛する彼女の像は彼の抱くものとは違うものであるように思えた。或いは、変質してしまった、と言い換えても良い。
「とても、愛してる」
 もう一度強く、ジュードは言った。そうか、と彼は穏やかに返して笑った。
 重たくなる目蓋と息苦しさに耐えながら鳥の影を探してジュードが空を仰いでいると、鼓膜を揺らしていた骨の音が絶えた。砂利を踏み締める足音が近付いてくる。ジュードが視線を巡らせるより先に、蒼穹との間を遮るようにしてアルヴィンが顔を覗き込んできた。
「寝てないよな?」
「……起きてる。大丈夫」
 汚れた外套と手袋を取り払って、アルヴィンはジュードの額に手のひらをあてがった。ずっと身体を動かしていた筈なのに、彼の手はとても冷たかった。
 ジュードの髪を撫でながら、アルヴィンは空を仰いだ。蒼穹が、少しずつ薔薇色に滲み始めている。遮る影はない。寝るなよ、と言って頬を一撫でしアルヴィンの手が遠ざかった。その感触を名残惜しい、と思う前に右腕を引かれる。もう一方の手を浮いた背中に滑らせて、アルヴィンはジュードの上体を引き起こした。頭が痛み、息が詰まった。ひゅう、と喉が鳴って咳き込む。前のめりに丸くなる背中をさすりながら、彼はまたあの冷たい手をジュードの頬に添えた。それから、彼は微かに開いたジュードの唇を割るように親指を差し入れる。歯に、潜り込んだ彼の唇が触れたかと思うと、口内が水で満たされた。ああまたこの男は、と頭の片隅で冷めた声がする。口にしないのは口の中の水を飲み下すのに必死な為だ。お陰で、喉を動かす度に逃げ遅れた彼の上唇が歯に触れる。反射的に甘噛みすると、アルヴィンが慌てたようにジュードの身体を引き剥がしに掛かった。恐らく、彼は何らかの抗議の声を上げようとしたのだろう、と思う。だが、濡れた唇から言葉が紡がれるより先に、ジュードは彼の襟元を強く引いた。今度こそ明確な意図を以ってその唇に噛み付く。彼は何度か逃げるように顎を引き、ジュードの上体を圧しやろうとした。だが、その度にジュードは逃げる唇を追った。やがて諦めたのか大人しくなったアルヴィンの唇を満足がいくまで舐めたり吸ったりした後、漸くジュードは身体を離した。上手く息継ぎが出来なかったので、気が付いたら肩で息をする有り様だった。そんなジュードを、アルヴィンは気遣わしげに眉をひそめて見つめている。
「おいおい、大丈夫かおたく……自分で飲むか?」
 気に入らない、と歯噛みして呼吸も整わない内にジュードはまた男に手を伸ばした。手渡そうとした水筒をすり抜けて手首を掴む。
 「そんな気休め、要らないよ」掴んだ手首を引き寄せてジュードは言った。「こんなどうしようもなく戻れないところに連れてきたのは、アルヴィンなんだから」
 口付けると、彼は困惑も露わに視線をさまよわせる。鼻先が触れ合う距離で吐息を交わすと、まいった、と言ってアルヴィンは目を伏せた。

11.30.09:25

鳥をまつひと2

 高原の冷気を遮る地下道を抜けると、乾いた冷たい風が頬を撫でた。渓谷に造られた古都は数日前に視た夢の記憶より、少し明るいように感じた。
 闘技大会の時期も過ぎて人の波は疎らだったが、念のため先に宿を確保しておくことに決める。ロビーで名前を書くジュードを残して、レイアとエリーゼは隣のカウンターへ携帯食の注文をしに行ってしまった。「二人分だけなんだから、買い過ぎないようにね」と声を掛けるが、返されたのは生返事だけだった。そんな二人を諦観を以って眺めながらふと、アルヴィンもまだこの街に居るのではないだろうか、と過ぎる。もしかすると、宿に滞在しているかも知れない。そんな思いに突き動かされて、口を開こうとしたジュードを呼ぶ声が背後から掛けられた。
「ジュード、こっちは終わったよ。そっちは?部屋取れた?」
「……うん。大丈夫」
 振り返ると、レイアとエリーゼが立っていた。
「じゃあ、雑貨屋さんで道具を補充しましょう」
 少女はそう言って促すようにジュードの手を取った。その手を柔らかく握り返しながら、ジュードは開こうとした口を噤んで笑みの形に吊り上げた。
 渡し舟に乗り、闘技場の受付近くにある雑貨屋で道具を補充すると特に寄り道をすることもなくジュードたちは宿へ戻ることにした。野盗や魔物にこそ手こずりはしなかったものの、慣れない雪道を歩いてきた所為で足が痛い。そう思っているのはジュードだけではないらしく、街の中を見て回るのが好きな筈のレイアとエリーゼも特に何も言わずについて来た。
「あー……足だるーい」
「余ったハートハーブを乾燥させたものがありますから、フロントで桶を借りて足湯でもしましょうか」
「さんせーい」
「そうだね。明日も歩かなきゃならないし」
 エリーゼの提案に賛同したレイアに、ジュードも同意する。部屋に入ると夕食の前に、借りてきた桶に湯を張って素足を浸した。温かい湯と緊張を和らげる効果のあるハートハーブの芳香で、張っていた足が徐々に解きほぐされていくような心地がする。
「これ、前にアロマにしたとき大変だったよね」
 動かなくなった足の補助器具として取り付けた医療ジンテクスの痛みを緩和する目的で、一度ミラの為にハートハーブを探したことがあった。その時のことを思い出して、ジュードは笑う。
「ああ、あれね!ミラのしゃっくりが止まらなくなったやつ」
「でも、ミラ嬉しそうでした」
 口に出して笑い合うレイアとエリーゼも嬉しそうだ。香草の薫りを孕む湯気の合間を漂うティポがはしゃぐようにして辺りを飛び交う。
「皆が採ってきてくれた、ってことがミラは嬉しかったんだろうね」
 そんなミラを見て、ジュードも嬉しかった。彼女の役に立てるだけで、その時は良かった。そんな些細な全てが今は遠い。
「でもさぁ、あの時は皆一緒だったのに三人だけになっちゃったねー。やっぱ何かサミシー」
 エリーゼではなくレイアの膝の上に収まりながら、ティポが言った。困惑した様子でエリーゼが縫いぐるみの名前を呼ぶ。けれど少女の深層は取り繕うでもなく「だってホントのことでしょー」と言った。
「す、すみません」
「いいよ。多分、僕もレイアもエリーゼと同じ気持ちだから」
 旅の途中、色々な所へ行った。大きな滝の下をくぐったり、深い森を抜けたり、果てのない荒野をさ迷ったりもした。その全てを、ミラや仲間たちと乗り越えた。その暖かな記憶の気配を感じずに居られる場所は、あまりにも少ない。
 浮遊する縫いぐるみがレイアの膝から定位置であるエリーゼの元へ戻る途中「明日にはジュードともお別れだしー」と寂しそうに呟いた。喉元まで出掛かった謝罪の言葉より先に、レイアが「私は、カラハ・シャールまで一緒だからね」と言ってエリーゼの手を握る。エリーゼもすぐに朗らかな笑顔を見せて頷いた。そんな二人のやり取りを眺めながらジュードはレイアに感謝した。ティポはそれ以上何も言わなかった。

 夢を視る。眠りに就いた時と同じその場所で目覚める夢を視る。
 上体を起こし、黄昏が浮き彫りにする陰影の濃い部屋の中をジュードは見渡した。窓を一瞥し、すぐに逸らす。常ならば窓辺に寄り流れる川と石畳を眺めたが、今日の夢においてはジュードはすぐに背を向けて扉へと向かった。
 扉は難なく開くと、密室は荒野へと転じた。水音は遠退いて、眼前には乾いた大地が広がる。ジュードは躊躇なく一歩を踏み出した。
 ままならない明晰夢の中、今やジュードは自由だった。扉は記号でしかなく、距離もまた意味を成さない。鈍く輝く空の下、ジュードはただ強く強く呪詛のように念じた。放たれた夢の中で、確信だけを胸に抱いて彼を探した。
 やがて、夢はひしゃげた枯木の元へと辿り着く。狂気のように鮮明な夕陽が辺りを真っ赤に染めていて、曲がった枯木は腰の折れた老人の影にも似て見えた。そして、その根元にジュードは彼の姿を見留めた。
 歩調を緩め近付いていく。アルヴィンは錆びた剣先スコップを手に、穴を掘っていた。やっとのことで見つけたというのに、彼はジュードが傍らに立っていることに気付いた様子もなく一心不乱に穴を掘り続ける。ジュードは、アルヴィンの名前を二度呼んだ。一度目は特に意識することもなく、二度目はやや強い口調で呼び掛けたがそのどちらにもアルヴィンは顔を上げはしなかった。こうなるとどうにもならない夢の中のルールのようなものを、いい加減に理解していたジュードは諦めて周囲を見渡す。広がるのは矢張り荒涼とした大地ばかりで、陰を作るものは無機質な岩ばかりだ。
 鳥の一羽もなく、獣も絶えた、虫の鳴き声すらしない世界で、枯れた木の根元を掘る男はジュードに気がつかない。何だこれは、とうんざりしながらジュードは溜め息を吐いた。男は手を止めることなく穴を掘り続けた。その時にはもう既に、半ば夢の終わりを望み朝の気配を探り始めていたジュードはふとあることに気がついた。穴を掘る男の傍ら、やけに規則正しく立ち並ぶ岩が気にかかった。迂回し、ジュードは岩へと近付く。そして、それらが自然物ではなく人の手の加えられたものであると知れると、全てを直観的に悟った。それから、ゆっくりとアルヴィンへと向き直る。彼は、相変わらず穴を掘っていた。
「アルヴィン」
 名前を呼ぶ。男は穴を彫り続けた。返事はない。分かっていた。それでも、縋るような心地でもう一度ジュードはアルヴィンの名前を呼んだ。
 人の手の加えられた形跡のある岩は、全部で三つあった。それぞれに文字が彫られていたが、夢である所為かジュードが「彼ら」の正確な名前を知らない所為なのか、読み取ることは出来なかった。ただ、読み取ることは出来なくてもその文字が名前であることが解ったように、その読み取れない文字が示す人物が誰なのかジュードは正しく理解した。だから、戦慄く声で彼の名を呼んだ。
「……アルヴィン、やめて」
 固く、凍れる大地を掘り進める男に言った。いつだったか、男自身の口から聞いた言葉を思い出す。黄昏に輪郭を滲ませて、死を眺める男の横顔をジュードは見つめていた。
「やめて」
 人の手の加えられた岩は、墓標だ。彼の言うような精霊信仰にまつわるア・ジュールの埋葬方法は知らなかったが、それでも聞きかじりの知識や馴染みのあるラ・シュガルの埋葬を都合良く継ぎ接ぎしてこの夢が成っていることは容易に知れる。何より、岩に刻まれていたことごとくの死者はアルヴィンに縁ある人々だった。彼の母親や、彼を想い続けた女、彼を疎み続けた彼の叔父――それら死者の傍らで男は穴を掘り続ける。その意味を、辿り着く先を考える。ここはジュードの夢の中だ。夢は、深層の代弁者だ。その意味を、考える。
「やめて……やめなよ、アルヴィン!」
 叫ぶようにして声を張り上げるが無駄だった。ジュードは決して浅くない彼の掘った穴へ躊躇なく身を踊らせると腕に掴み掛かる。それでも尚、手を動かし続けるアルヴィンを力ずくで制止した。そのままの勢いで、彼を自分の正面へと向き直らせその顔を睨み上げた。
「何やってるんだよ。何を、やってるんだよ!」
 アルヴィンは何も言わなかったが、それでもジュードを見ていた。裏切り者の酷薄な笑みも、大人の顔色を窺う子供のような卑屈な笑みも、その顔には浮かんでいない。ただ平坦に凪いだ赤褐色の中に、ジュードは自分の焦燥に駆られた表情を見留めた。
「……ち、違う。僕は」
 戦慄く声で、ジュードは言った。アルヴィンは瞬きもせず、ただジュードを見つめていた。
「違う!そんなこと、思ってない」
 頭を振る。けれど、乾いた土の色をした彼の双眸から視線は外せなかった。だったら彼に何を求めていたの、という声が聞こえた気がした。誰の声なのか考えを巡らせるより先に、目の前のアルヴィンが瞳を閉ざしてしまう。ただそれだけで、ジュードの伝えるべき全ての言葉を拒絶されたように思えた。
 違うんだ、とジュードは繰り返した。こんな結末だけは求めていなかった。それだけは確かなんだ、と語り掛けた。許すでも罰するでもなくただ、彼の信頼と誠実さが得られたらそれだけで良かった。けれども、本当に伝えたい筈の気持ちは夢の中ですら言葉に成らず、ジュードが目覚めるまでとうとうアルヴィンは瞳を閉ざしたままでいた。


 目覚めは最悪だった。夢見が悪かったということもあったが、それよりも頭が痛かった。ア・ジュールはラ・シュガルに比べると標高も高く、つい昨日まで雪深い高原を歩いていた。一度ミラの治療の為に帰郷はしたものの、慣れない環境での強行軍に身体が悲鳴をあげはじめているのかも知れない。
 着替えて顔を洗い部屋を出る頃には気分も幾らか良くなっていた。階下に降りると、既にレイアとエリーゼがロビーで待っていてジュードの姿を見つけると大きく手を振ってきた。
「おはよ。ジュードが私たちより遅いなんて珍しいね」
「そうだね。疲れてたのかも?」
「えー?大丈夫?」
 顔色悪いよ、とレイアに言われてジュードは曖昧に笑う。見たところレイアはいつも通りの様子で、エリーゼも元々この辺りに住んでいただけあって元気そうだ。ならばこれ以上話を長引かせる必要もないだろう、とジュードは早々に話題を今日の二人の出立へと切り替えた。
 宿を出ると、三人で朝食を取ることにした。ラコルム海停まで歩かなくてはいけない二人はまた暫く携帯食ばかりになるので、今の内に暖かいものを食べるのだと随分張り切っていた。ジュードも二人と同じものを頼んで食べたが、ブウサギの腸詰めウィンナーを一本残してしまった。食べている途中で、また少し頭が痛み出した為だ。レイアとエリーゼには訝しがられたが「二人の食べっぷりを見てたら食欲なくなっちゃって」と言ったらティポに顔面に吸いつかれた。人目はひいたが、話は逸れたようでそれ以上の言及もなくジュードの残したウィンナーを二人は仲良く切り分けて食べていた。アルヴィンのようなはぐらかし方をしたな、と思ったら少し頭痛が増したようだった。誤魔化すように、ぬるくなった野菜ジュースを飲み干すジュードの前に追い討ちをかけるようにピーチパイの乗った皿が出てきて今度こそ頭を抱えたくなる。甘ったるいばかりのこのパイは彼の好物だ。旅を始めるようになってから過去に二度、作ったことがある。
 一度目はエリーゼの為に作った。旅慣れない内気な彼女に、優しい味を食べさせたくて選んだのがピーチパイだった。フィリングは缶詰めの桃で簡単に済ませてしまったがエリーゼはとても喜んでくれた。だから今度作る時はフィリングから作ろう、とジュードは思った。エリーゼも一緒に作りたい、と言ってくれたので約束をした。アルヴィンは出掛けていて、その時は居なかったように記憶している。大方アルクノアか、取り引きをしたというア・ジュールの参謀と連絡を取り合っていたのだろう、と今にして思う。シャン・ドゥで彼の好物がピーチパイであることを知る前の出来事だ。
 二度目は、エレンピオスでアルヴィンの従兄が住むアパートの台所を借りて作った。約束通り、エリーゼと一緒に水と塩を加えた小麦粉にバターを挟んで伸ばして生地を作り、フィリングも桃を煮詰めるところから始めた。途中で少しバターが溶けてしまったがそれでも初めてにしてはよく出来た、とエリーゼと二人で手を合わせて喜んだ。ローエンの淹れてくれた紅茶と共に舌鼓を打ちながら、ミラはいつも通り一口食べて「美味しい」と顔を綻ばせ、後は口を開く間も惜しいといった様子で黙々と手を動かしていた。今度作る時は私も呼んでよ、と言うレイアをティポがからかう。その様子を楽しそうに笑って見ているエリーゼの隣で、ピーチパイをアルヴィンも突っついていた。ジュードの視線に気が付いて顔を上げた彼は、控え目に微笑みながら「美味いよ」と言った。だから、返す言葉をなくした。隣に居たエリーゼが、嬉しそうに「本当ですか?」とアルヴィンに訊く。彼女がこのタイミングで約束のピーチパイ作りを提案したのは、アルヴィンを思ってのことだと薄々気付いていたジュードは息が詰まる思いでいた。恐らく、アルヴィンもエリーゼの優しさに気付いていたのだと思う。彼女の頭を撫でながら、同じ言葉を繰り返したからだ。その後、一人トイレに籠もって嘔吐を繰り返す扉の向こうの彼を、ジュードは責めることが出来なかった。彼の嘘を、咎めることが出来なかった。

 食事を終えると、シャン・ドゥを発つ二人を街の出入り口まで見送った。「カラハ・シャールにまた遊びに来て下さいね」とエリーゼに言われたので、彼女の頭を撫でながら頷いた。レイアにも源霊匣の本格的な研究に入る前に一度ル・ロンドに戻るのか、と問われたのでイル・ファンに戻ったら寮にある荷物の幾つかを送るので整理を手伝って欲しいと頼んだ。
「全部が全部必要なものでもないからね。イル・ファンを研究の拠点にするにしても、一度綺麗にしておきたくて」
 寮の住所を書いたメモをレイアに渡しながらジュードは言った。
「そーいうとこ、ホントきっちりしてるよねぇジュードは」
「そうでもないよ。普通だって」
「まぁいいや。ジュードの恥ずかしい物とか見つかるかもだし、任せといて!」
「あくまでも整理整頓を手伝ってもらうのであって、探し物が目的じゃないからねレイア?」
 頼む相手を間違えたな、とジュードは少し後悔した。
 川沿いの路に建ち並ぶ巨像の脇を抜けると街道が見えてきた。レイアは「それじゃあまた、イル・ファンでね」と言った。エリーゼも「また会いましょうね、ジュード」と言って笑った。ジュードも二人に「またね」と言った。そして二人の背中を見送ると、少し遅れてエリーゼの後に浮いていたティポがジュードに向かって「ばいばいジュード!」と叫んだ。そんなティポにレイアは「どうしたのティポ、いきなりそんな大きな声出して」と言って苦く笑ったようだった。エリーゼはジュードに背を向けたまま、レイアにもティポにも何も言わず真っ直ぐ前だけを向いて歩いていた。そんな彼女の背中から目が離せなかったジュードは、二人の姿が見えなくなって随分経ってから「さよなら」と呟いた。


 人々の喧騒の合間を縫って、橋を渡る。いつか宿の窓から覗いた水辺には、祈りの旗は揺れていなかった。
 対岸の日陰に足を踏み入れると、意識が鮮明になって少し頭痛が和らいだ気がする。ジュードの目指す船着場へと向かう道の人通りは少ない。湿地に棲息する魔物は強く、忘れられたマクスウェル信仰の聖地に人々の足が遠退いて久しい今、当たり前といえば当たり前の光景なのだろうな、と流れる水面に揺れる巨像の陰を見るともなしに眺めながらジュードは思った。だが、ジュードもまた魂を清め導く川へは向かわず、その脇の階段を上る。その先の昇降機に乗り込むと、記憶の中から一つの数字を拾い上げて該当するボタンを押した。
 昇降機から下りると、強い風が頬を撫でた。開けた広縁の手摺りへと近付く。石造りの手摺りに手を這わせて階下を覗き込むと、街を彩る長い祈念布の合間に先程眺めていた川が見えた。
 ガイアスの説得へ向かう前に、一度だけ異世界エレンピオスからリーゼ・マクシアに戻ってきたことがあった。もともとあまり自分から進んで先の提案をすることのなかったアルヴィンは、ハ・ミルでの一件以来更に輪をかけて自己主張らしい自己主張をしなくなった。それが、珍しくシャン・ドゥへ行きたいと彼が言ったのでジュードは二つ返事で了解し、仲間と共にこの昇降機に乗り込んだ。その時はまだ彼の母親が亡くなっていることをジュードは知らなかった。だからこの広縁に姿を見せた女性――アルヴィンが母親の世話を頼んでいた闇医者であるイスラに「母さん、死んだんだってな」と平坦な声で告げたときジュードは文字通り言葉を失った。それは一緒に居たエリーゼも同じで、ただ一人ミラだけが思案深げに目を細めてアルヴィンの様子を伺っていた。だからジュードは、既にミラは彼の母親が亡くなっていたことを知っていたのだろうな、とその時思った。
 手摺りから手を離して踵を返すと、ジュードはアルヴィンの母親が亡くなった家の扉の前へと立った。彼の母親は亡くなった。ここはもうアルヴィンの帰るべき場所ではない。現に、今はもう違う人間に貸し与えている。だから遺品の整理の為立ち寄ったとしても彼がいつまでもここに留まる道理はないし、増してジュードがこうして扉の前に立つ理由もない。ただ、ふと、イル・ファンの自分の部屋のことや、最近また立て続けに視るようになった不可解な夢――そうした些末な引っ掛かりが積み重なってジュードをこの扉の前に立たせた。
 アルヴィンのリーゼ・マクシアでの二十年は母親の為にあったと言っても過言ではない。それなのに彼は母親の亡骸が何処へ埋葬されたのかすら知らない。母親の最期を看取ったであろうイスラが、今やまともに受け答えの出来る状態ではなかったからだ。彼は部屋の物にはあまり執着もないようで、イスラと彼女の婚約者この部屋を譲り渡してしまった。だが、あの時は状況が状況であったし、そうでなくても自分の我が儘に付き合わせてしまったという負い目が彼の中にあっただろうことは想像に難くない。本当はアルヴィンは、あの場でもっときちんと遺品を整理したかったのではないだろうかとか、母親が何処に埋葬されたのか知りたかったのではないかとか、とジュードは思った。
 少し迷ってから呼び鈴を鳴らす。ややあって扉の向こうから耳に馴染んだ声が聞こえた。ユルゲンスだ。訪問者がジュードであることを知ると、彼は驚いた様子で扉を開けてくれた。
 彼が招き入れてくれるままに部屋に入ると、かつて来たときより心持ち黄昏の薄らいだ室内は少し雑然として見えた。アルヴィンの母親が伏せっていた寝台の上では、イスラが安心しきった穏やかな顔で寝息をたてている。
「……アルヴィン、来たんですよね」
 窓を開け換気をするユルゲンスの背中に声を掛けた。ああ、と彼は肩越しにジュードを見やって頷いた。
「今日の朝まで居たんだがね……丁度君と入れ違う形で出掛けてしまったんだよ」
「まだシャン・ドゥに居るんですか?」
 改めて部屋の中を見渡す。開け放された引き出しに衣服が無造作に引っかかっていたり、無造作に積み上げられた本が半ばで崩れていたり、確かに遺品を整理する目的で彼が訪ねてきたというわりには、何もかもが中途半端だ。
「イスラがね、アルヴィンさんのお母さんを埋葬した場所のことを話したんだよ」
 穏やかに、ユルゲンスは告げた。エリーゼの生家のことがあったのであまり驚きのようなものはなかったが、それでもすぐに言葉が出てこなかった。目を閉じて、唇を引き結び、頭を垂れる。ここには居ない男を、酷く罵倒したい衝動に駆られた。
 肩に温かいものが触れて、それが人の手であるということは目を閉じたままでも知れる。顔を上げるとユルゲンスが、柔らかく微笑んでいた。
「きっと、まだ彼はそこに居るんじゃないかな」
 本当にユルゲンスは良い人だな、とジュードは思った。

 昇降機を下りると、ジュードは川辺の船着き場へと向かった。湿地帯へ行くのかと訊ねてきた船頭に、ユルゲンスから教えて貰った場所を伝えると彼は怪訝そうに眉根を寄せながらそれでも舟を出してくれた。
 舟に乗っている間、初老の船頭はジュードの告げた土地があまり人の寄り付かない場所だと言った。罪人や病人の亡骸を「処理」する為の、鳥も通わぬ不浄の地であるのだという。誰に聞いたか知らないが観光なら止めておきなさい、と言われたのでジュードは首を横に振って「違います」と告げた。
 「……全く、今日は何て日だろう」ジュードの方は見ず、独り言のような調子で船頭は言った。「あんな辺鄙な場所に行きたいだなんて言う奴は今日だけで二人目だ」
 ジュードは返事をしなかった。舟の揺れに頭痛が益々酷くなって、吐き気がしていたからだ。だから舟の縁にもたれかかり、大人しく薄紅に輝く雲を眺めながらアルヴィンも同じ物を見ただろうか、と考えていた。
 桟橋に着くと船頭はここで待っている、と言ってくれた。だが、いつ戻るとも知れない、とジュードが言うと二時間程したら迎えに来てくれることになった。
 船頭を見送り一人きりになると、ジュードは改めて辺りを見渡した。山の陰になっている所為か辺りは薄暗く、草木は乏しい。寂寞とした荒野に、乾いた風の音ばかりがいやに大きく響いている。だが、この何処かにアルヴィンが独りきりで居るのだろうと思うと、こうして立ち止まっている時間も惜しかった。頭は相変わらず痛んだが、揺れない地面の上で吐き気は少し治まった。
 歩き出して暫くすると、雲の切れ間から陽の光が差し込んだのか暗い視界が明るく晴れた。赤茶けた不毛の大地はアルヴィンを探す夢の中の光景に似ていたが、足取りは重くままならない。だが、だからといって引き返すという選択肢はない。まだ、ジュードはアルヴィンを見つけていなかったからだ。
 斜陽の差す緩やかな傾斜を登りきり、小高い丘の上に立つと陰になるものがなくなり視界が大きく広がった。周囲は相変わらず荒涼としていたが、すっかり葉の落ちてしまった背の低い裸の木が疎らに生えているのが見えた。その中の一つに、寄り添うような人影を見留めて一瞬、ジュードは確かに息を詰める。
 夢の中、陽の光はもっと鮮烈で、全てを暴き立てるような苛烈さで、大地や、木や、そして彼を、赤く染め上げていた気がした。朝陽とも夕陽とも知れない光に輪郭を滲ませて、死者の名を刻んだ岩に囲まれた彼は木の根元に穴を掘っていた。死者を埋める為の穴なのだと、自身の深層に由来する夢を渡るジュードは即座に理解していた。だからこそ、いつか彼が話してくれた埋葬の意図を感じ取り思わず制止の声を上げた。だが、それらは全て眠りの中での話だ。目覚めてしまえば、夢は目まぐるしく流れる現実の片隅で大人しくしているしかない。だのに、今ジュードは言い知れない焦燥と既視感とに苛まれていた。
 差異はある。空はもっと彩色に富んでいたし、荒野と称するには疎らだが緑の見留められるこの寂寥とした丘は、夢の中で彼を見つけた最果ての地ではない。けれど幾つかの符号の一致に、ジュードは良くない胸の高鳴りを感じた。
 木の根元に深く、深い穴を掘る男がそこに居る――焦燥を促す理由はそれだけでいい。それだけで、ジュードは拳を固く握り締め、踏み出せる。
「アルヴィン!」
 名前を呼んだ。風が強く吹いていたので、その音にかき消されてしまわないように声を張り上げた。夢の中では、声は決してアルヴィンに届かなかった。そんな焦りもあったかも知れない。けれど、そんなジュードの不安を余所に穴を掘る男の動きは止まった。屈めていた上体を起こすと、撫でつけられた鳶色の前髪がはらはらと落ちる。よく見ると髪は大分乱れていて、こめかみにはうっすらと汗が浮いていた。トレードマークのコートやスカーフも取り去って腕を捲った出で立ちの男は、赤味の強いブラウンの瞳に驚きの色を滲ませる。
「……ジュード?」
 その酷く幼い呼び掛けに、ジュードは何故かどっと疲れた。だが、同じくらい取り繕うことのない珍しい彼の表情に安堵もした。
 乾いた大地に空いた不自然な窪みまで数歩というところで、ジュードは足を止めた。窪みのほぼ中央に居るアルヴィンは、居る筈のない子供の姿を訝しげに見上げている。眉根を寄せて「何で居んの?」と彼は訊いてきた。
「……何、してるの?」
「いや、訊いてんのはこっちなんですけどね」
「何で、穴なんて」
 何を埋めるの――とは、続けなかった。口を噤んで、視界からアルヴィンを追いやった。彼の少し困ったような気配がして、それから大地を穿つ乾いた音が鼓膜を揺らした。剣先スコップを突き立てて離すと、男は窪みから這い出てジュードの近くにまでやってきた。
「見て分かんない?ほら――」
 促されて一度彼の顔を見上げ、それから穴を見やる。中央にはところどころが薄汚れた白い麻布の包みがあった。その周りを蝿が二匹、飛び回っているのが見える。
「お宝でも埋まってると思った?」
 久しく見ることのなかった不透明な笑みを貼り付けて、アルヴィンが喉を鳴らした。ジュードは返事をしなかった。そんなジュードの様子に彼は肩を竦めて首を横に振ると、また窪みへと戻っていく。今度はジュードも止めなかった。
 突き立てたスコップを引き抜くと、アルヴィンは作業を再開した。麻布の包みの周りの土を丁寧に掻き出していく。彼がどれだけ穴を掘り続けているのかは判らなかったが、こめかみから顎にかけて汗が流れ落ちる度に何某かの言葉が喉元にまでせり上がってきた。それを、ジュードは飲み下す。乱れた髪を振り乱し、手の甲で滴る汗を拭ったりなどしながら穴を掘り続ける男をただ眺めた。
 やがて麻布の全容が穴の中で露わになると、アルヴィンはジュードの足元へスコップを置いた。ちょっと下がってろ、と言い残して彼は窪みの中央で屈む。それから、麻布の包みを肩の上に担ぎ上げた。彼の意図を汲み、ジュードは手を伸ばす。
「いいよ、下がってろって。汚れるぞ」
「いいから、ほら」
 アルヴィンの返事は待たずに麻布に手をかけると、少し饐えた臭いがした。引き上げるジュードに合わせて、アルヴィンは麻布の包みを下から押し上げる。そのままの勢いで穴から這い出ると、衣服を軽く叩きながら「サンキュ」と言った。
「……ねぇ、アルヴィン」
 麻布の包みから目の離せないまま、ジュードはアルヴィンの名前を呼んだ。何だよ、と彼はコートを羽織りながら軽い調子で返してくる。スカーフは少し迷ってから、首に引っ掛けてジュードの方へ近付いてきた。
「何で、こんなこと……」
 半ば呆然とした心地のまま、包みから目の離せないジュードは言った。対照的に、彼は淡々とした様子でジュードの足元にしゃがみこみ麻布へと左の手を伸ばす。その手を、ジュードは反射的に掴んだ。アルヴィンは一瞬、本当に一瞬の間だけだが、それでも確かに身体を強ばらせた。もしかすると、ジュードの手を振り払おうとしたのかも知れない。けれど彼はただ緩く拳を固めただけだった。それから逡巡するように視線をさまよわせた後、結局その赤褐色の瞳にジュードを捉えた。
「鳥に、食わせようと思って」
 そう言って、掴んでいるのとは異なるもう一方の手をジュードの手に添えて、丁寧にゆっくりと解いた。そしてまた麻布に手を掛ける。そんな彼をジュードはただ黙って見ていた。汚れてほつれた布を解いていく彼の手は慎重だったが、迷いはない。
「ジュード」
 名前を呼ばれて、顔を上げた。
「あー……開ける、けど」
「……どうぞ」
「いや、そうじゃなくてだな」
 乱れて落ち掛かった前髪を掻き上げながら、何処か困った様子で彼は言葉尻を濁した。手袋に土でもついていたのか、こめかみが少し汚れた。今更何を躊躇するのだろう、とジュードが小首を傾げるとアルヴィンは大袈裟に肩を落として見せた。
「……もう、何でおたくこんなとこ居んの。まじで?」
「探してたんだ。アルヴィンを」
 彼のこめかみについた土を手袋に覆われた手で拭いながらジュードは言った。あまり、深く考えずに言葉を発したものだから言ってから自分で少し驚いた。
「何だそれ」
 訝しげな眼差しを向けて、アルヴィンが眉をひそめる。だが、ジュードも彼の発したものと全く同じ問い掛けを自身へと投げたくなった。
「何、だろう……?」
「何かあったのか?会ってからずっと変だぞ、お前」
 そう言って、アルヴィンは苦く笑った。だから、頭が痛いからだよ、という言葉は飲み込んだ。彼がせっかく笑っているのに、この場の空気が変わってしまいそうに思えたからだ。それに、この頭痛も単に夢見が悪かった所為だ。すぐに治まる。そこに至り、ふと気がついた。
 「でも、本当に……ずっと探してた気がする」言葉と共にこぼれたジュードの笑顔も、苦いものになってしまったかも知れない。「やっと見つけた」
 笑みをひそめて、アルヴィンは瞬く。それから居心地が悪そうに顔を背けながら、そりゃ悪かったな、と言って手を動かし始めた。その様子が奇妙に可笑しくて、ジュードは声を出して笑った。アルヴィンは「うっせぇ」とだけ言って、それ以上ジュードが彼を探してた理由を訊くことはなく、麻布を開きに掛かった。
 アルヴィンが麻布を寛げると、仄かに漂っていた腐臭が一瞬だけ密度を増す。次いで、数匹の蝿が中から飛び出してきた。不快な羽音に眉をひそめるジュードを、アルヴィンが笑った。離れてろって、と言われて首を横に振ると彼はやれやれといった様子で肩に引っ掛けたスカーフを抜き取り、ジュードの口と鼻を覆うように巻き付けた。腐臭が和らぎ羽音が遠くなる代わりに、硝煙と整髪剤の入り混じったアルヴィンの匂いが鼻腔を突いた。
 改めて、ジュードは彼の暴いたものを見下ろした。麻布から覗く死んだ女の顔を、ジュードは知っている。
「……レティシャさん」
 手袋を引き抜いて、ジュードは彼女に手を伸ばした。その冷たく固い、土気色の頬に触れる。アルヴィンは手を出さなかった。ジュードを止める素振りもない。顔だけでなく身体に掛かっていた麻布も取り去り、ジュードは彼女に触れた。
 腐敗網と死斑の浮かんだ暗青色の肩から、乳房を掠めて腐敗性水泡で肥大化した腹部へと手を滑らせる。手のひらに、生きている人間とは異なる類いの熱を感じた。側腹部にも腐敗網が見られ、淡青色に変色している。その間、手持ち無沙汰だったのか隣で屈んでいたアルヴィンは腐肉から這い出た蛆を摘んで除けていた。
「状態は悪くなさそうだね」
 一通り触れて調べてから、ジュードは言った。アルヴィンは蛆を摘み続けながら何か言いたそうに口を開き掛けたが、結局唇を引き結んでしまった。そこで気がつく。
「あ……ごめん。やっぱ嫌だよね、目の前でお母さんの身体をまさぐられたら」
「優等生がまさぐるとか言うなって」
「大丈夫!別にやましい気持ちとかはないよ、安心して?」
「何の心配してるんだよ」
 頭を抱えてアルヴィンが呻いた。息子としては裸の母親の身体を、子供とはいえ男に暴かれるのを眺めているというのは落ち着かない気持ちになるものではないか、と考えた結果の配慮の言葉を掛けたつもりだったが上手く伝わらなかったようだ。もういいから退けよ、とアルヴィンに上体を押しやられジュードは立ち上がる。頭を垂れてまた母親の身体を麻布で包み始めた彼を見下ろしながら、もし自分が来なければアルヴィンは自ら腐敗の状態を調べたのだろうな、と思った。
 すっかり母親の身体を包んでしまい、最後に顔を布で覆うだけといったところでアルヴィンが急に手を止めた。それまで彼は流れるように手際よく作業をしていたので気になってジュードが注視していると、彼の母親の色味の薄くほつれた髪と頭皮との間から蛆が覗いているのが見えた。だが、その蛆を気に留めた様子もなくアルヴィンは母親の頬に手を添え、それから乾いてひび割れた唇をそっと親指でなぞった。
 「正直、面影もないくらいもっとぐちゃぐちゃになってると思ってた」俯いたまま、アルヴィンは言った。「二節近くも前なのに、綺麗なもんだな」
 抑揚を欠いた声音は、容易く風に消されてしまいそうな程小さい。ジュードは肩から下がり掛けた彼のスカーフを巻き直した。
「腐敗菌の多くは嫌気性だからね。空気中よりも水中、水中よりも地中の方が遺体は傷み難いんだよ」
 恐らく、彼女を死に追いやった女はその証拠を少しでも早く隠そうと埋葬を急いだのだろう。その事実が彼女の息子の目の前に形になって横たわっていた。それを皮肉と言うべきなのだろうか、とジュードは考える。彼はただ「流石だな、医学生」と言って笑うだけだ。そこに感傷のようなものは見て取れない。
「あー……でもあれか、除籍になったんだっけか」
「それなんだけど、ガイアスの口添えで復学出来そうなんだ。卒業は遅れるかも知れないけど」
 カン・バルクで源霊匣やこれからのエレンピオスとのことを話している途中、それまでの流れからジュードがタリム医学校の学生だったことが話題に上がった。四象刃が潜伏していたことで事態を把握していたガイアスが医学校に直接書状を送ることを約束してくれた。ジュードとしてはすぐにでも源霊匣の研究に着手する気でいたのだが、ローエンも今までやってきたことを無駄にすることはない、と背中を押してくれたのでガイアスの厚意を有り難く受けることにした。
「へぇ、それはまた……粋なもんだね、あの王さまも」
「確かに、色々あって医師の数も不足してるからね。ハウス教授みたいに医者をしながら研究っていうのもありなのかな、って」
 そんな余裕――猶予が許されているとは思えなかったが、だからといって源霊匣に全てを捧げることを精霊の主と成った彼女が望んでいるとも思えない。
 気がつくと、アルヴィンは顔を上げていた。肩越しにジュードを見上げている。何、とジュードは首を傾げた。
「いや?……まぁ、何にせよ良かったな」
 曖昧に答えを濁して、アルヴィンはまた俯いてしまった。それでも更に言及を深めようという気にならなかったのは、直前に彼がとても嬉しそうな笑顔をジュードに向けたからだ。
 生前の面差しがくっきりと残った死体の額にアルヴィンは唇を落とし、今度こそ完全に麻布で覆った。耳鳴りに混ざる蝿の羽音が鼓膜を揺らす中、ジュードは今彼を独りにしなくて済んだ偶然に何となく感謝した。

11.30.09:22

鳥をまつひと

 風が強く吹いていた。雲一つない空は抜けるように青い。ニア・ケリアの空を思い出す。
 少年に振り払われた手は、行き場をなくして彷徨っていた。大した力ではなかったのに怯んでしまったのは、そこに確かな拒絶の意が込められていたからだ。背を向けて屈み噎せる子供に手を延ばすべきか、迷う。肩に懸かる重みを理由に、その場を動けずにいた。
 少年に、名前を呼ばれた時のことを思い出す。男は穴を掘っていた。何処までも掘り進めても掘り進めても、凍った土はただ冷たく固かった。頬を伝う汗が不快で、何度も手の甲で拭う。一向に終わりの見えない穴は、けれど掘り進める内に少しずつ冷たい予感を漂わせた。それが余計に自分の手を重たくしている事実に、男は気が付かないふりをした。もしかすると贖罪でもしているつもりなのかも知れない、と脳裏に過ぎって、堪らなく可笑しくなった。そんな高尚さとは程遠いことを、男自身が一番よく理解していたからだ。ただ、一人でなければ意味がなかった。一人で向き合わなくてはならなかった。一人で成し遂げなくてはならなかった。それが、せめてもの報われなかった二十年へのけじめなのだとそう、そう何度も念じながら、男は重たい腕を動かし続けた。
 だからこそ、名前を呼ばれ振り返ったそこに見開かれた美しい榛を見つけた時、ああもう駄目だ、と思った。もう本当に、駄目になってしまった。一人であることに意味があったのに、心は容易く折れてしまった。
 肩が軽くなる。背負った荷を乾いた大地に放って、男は少年の背中に手を伸ばした。温かい、生きている人間の温度に涙が出そうになる。子供が、こんな風に甘やかすからどうしようもなく一人で行けなくなってしまった。ともすれば自分の墓穴を掘っているような錯覚すらしたあの時、延ばされた子供の手があまりにも温かくて放せなくなってしまった。
 小さく丸くなった子供の背を掻き抱きながら、空を仰ぐ。山の頂きはまだ遠い。


鳥をまつひと


 その夢をジュード・マティスが視るようになったのは、イル・ファンを離れて旅をするようになってからだ。正確には精霊の主を自称し、またそれに見合う数々の人智を超えた「奇跡」のようなものを起こしたミラ=マクスウェルと出会い、彼女共々祖国から指名手配されなし崩しに旅をする羽目になってからだ。あの時、身に覚えのない罪状に困惑するジュードの脇をすり抜けてミラは出港する船に乗った。そのある種潔く優雅な身のこなしを、まるで猫のようだと困惑する頭の片隅で思ったのを覚えている。非日常への処理が追いつかない頭が行った現実逃避のようなものなのだろう、と客観的にその時のことを思い返すことが出来るようになったのは随分と時が経ってからだ。そうして、訳も分からず立ち尽くすジュードは罪人を捉えるべく伸ばされた既知の手を、半ば絶望しながらただ見つめていた。だが、その手がジュードへと届く前に事態と世界は反転する。精霊の主としての奇跡を失ったミラは既に出港した船の上だ。それなら何が、誰が、行動を起こしたというのだろう――思い到る前に、身体は重力から解放されていた。アルヴィン、と名乗る傭兵が猫の子供を浚うような気安さでジュードをあの窮地から救ったからだ。だから、ジュードの旅は力を失った精霊の主と、この素性の知れない奇妙で何処か酷薄な傭兵との出会いから始まったのだとも言い換えられる。
 その夢を初めて視たのはハ・ミルの村長の家だった。それからも頻繁に視るようになった夢はいつも、見慣れない天井から始まった。故郷ル・ロンドの自室とも、イル・ファンの部屋の天井とも違う。そしてジュードは夢の初めに改めて、今自分が旅をしているのだということを必ず思い出す。そういった幾つかのルールが、この夢にはあった。夢は先ず、そうして目覚めるところから始まる。覚醒しきらない意識の外で蝶番の軋む音が鼓膜を震わせると、ジュードは寝台に身を横たえたまま頭を傾ける。隣に並べ置かれた寝台が、空であることを確かめる為だ。そうして、間違いなくそこに身を横たえるべき人間が居ないことを確かめると、ジュードは漸く上体を起こす。そこで視線は、空の寝台から扉へと向かう。必ずだ。けれど、蝶番は二度軋むことはない。夢の中で、その扉が開かれる様子をジュードが目にしたことはただの一度もなかった。扉の向こうから「誰か」が入ってくることもなかったし、ジュードがその扉を開けることも出来た試しはなかった。部屋の中にただ一人取り残される、そんな夢だった。
 繰り返しその夢を視るようになって、その法則性に気が付いたのはカラハ・シャールに着いた頃だ。夢を視た朝、同室であることの多いアルヴィンが必ずと言って良い程部屋を抜け出しているということに気付き、だからあの夢は単なる現実の延長に過ぎないのだということが知れた。その時はただ実直に、そして先行きの見えない不安な旅の中で頼れる「大人」として、ジュードは彼を信じていた。夢のことも、矢張り真正面から少しの疑いの眼差しすらなくアルヴィンに訊ねると、悪戯っぽく口の端を吊り上げて「そんなこと面と向かって訊いちゃうなんて、案外野暮だね優等生?」と言って彼は笑った。今思えば体よく話を打ち切られたに過ぎないからかいを含んだ声音はそれでも、当時のジュードを納得させるには充分な説得力を持っていた。その程度には、ジュードは彼を信頼していた。だからミラの負傷に際しての彼の突き放した態度にジュードは傷ついたし、彼の不在に少なからず落胆と不安を感じた。そして、彼の居ない三旬――とうとう開かない扉の夢を視ることはなかった。
 ミラの傷が快復した頃姿を現したアルヴィンは、また何食わぬ顔で旅への同行を申し出た。だが、それからそう時の経たない内に、夢はすぐに疑念にすり替わった。シャン・ドゥで、彼が精霊の主であるマクスウェルーーミラの命を脅かす組織アルクノアと、繋がりがあるのだという事実が知れたからだ。
 アルヴィンは、時折アルクノアから仕事の依頼を請けることもあったのだと語った。彼は傭兵なのだから、そうした偶然も或いはあるのかも知れない、とその時ジュードは思った。彼の言葉を信じたというより、惰性から疑うことを忌避した。だからただ、アルヴィンにもうアルクノアの仕事は請けないよう釘を刺し、彼の気安い二つ返事に満足した。そしてまた裏切られた。
 多民族国家ア・ジュールの首都カン・バルクで、アルヴィンはいとも容易くジュード達に背を向けた。仲間である老軍師の機転で逃げおおせはしたもののシャン・ドゥへと逃走する道すがら、ジュードは肩越しに見留めた手を振り微笑む男のことで頭がいっぱいだった。だのに、彼はそう時を置かずにまるで悪びれた様子もなく姿を見せると、ジュード達の疑念も不信感も笑顔で一蹴して共にイル・ファンへと向かう意志を示した。
 アルヴィンの真意はまるで不透明で、既にジュードは無条件に彼に信頼を寄せることは出来なくなっていた。けれど、そんな幼い思惑を見透かしたかのように彼は仲間を売った裏切り者の口でジュードの信頼を「知っている」と言った。知っているからこそ裏切る「ふり」をしてもまた戻って来られるのだとでも言うかのように、その実、何者をも拒絶する口振りで彼はジュードを絡め取る。それら全ては未だ記憶に新しい、昨日の出来事で、だからなのかイル・ファンへ発つ前に一泊したこのシャン・ドゥの宿でジュードはまた、あの夢を視た。
 石造りの天井を、焦点の定まらない視界が捉える。開け放たれた窓からは柔らかな故郷の陽射しともイル・ファンの夜を照らす街灯樹とも異なる、黄昏の色が射し込んでいた。吹き込む風と共に、砂を孕んだ冷たい空気が室内を満たし、ジュードは毛布を抱き込み寝台の上で一つ身を震わせる。白く吐いた息の向こうで、風に煽られて細かな刺繍の施された祈念布が微かに揺れていた。身体を起こし、脇に並ぶ寝台を見遣れば矢張りそこは冷たく乾いている。ジュードはそのことだけを確認して、すぐに視線を逸らした。先には、街中を彩るア・ジュール独特の垂れ幕にも似た旗が山脈から吹き込む風に揺れる様子が、窓から切り取られて見て取れた。風と衣擦れの音以外何も聞こえてこないのはこれが夢だからなのだろうな、とジュードは思った。そして、この夢の中で思考らしい思考を巡らせるのは初めてだと気が付いた。
 寝台から靴を履かず床に素足を付けるとジュードはそのまま立ち上がった。夢の中だからなのか、感触らしい感触は返らなかった。開け放された窓辺に寄れば、風に踊る祈念布の合間からシャン・ドゥ中心を流れる川面が見えた。人影はなく、鳥の声もない。ただ風と、水と、旗が揺れていた。水辺に見慣れない文字が刺繍された五色の布の並ぶ不思議な旗を見留め、頬杖を突き窓の外を眺める。扉は無理でもこの開け放された窓ならば或いは、この部屋から出ることもできるだろうかとそんなことを考えている内に夢は閉じた。
 目覚めてしまえばそこは夢の中と然して変わらない宿の一室で、違いがあるとしたら風や衣擦れの音に混ざり人々の喧騒や生活音が耳に届くくらいのものだった。それから、使う者の居ない空の寝台に奇妙な既視感を覚え、窓辺の人影に今度こそ明確に、ジュードは動揺する。夢の中、ジュードが頬杖を突き川面を眺めた窓辺に、アルヴィンが居たからだ。
 シャン・ドゥの暖色の光に輪郭を滲ませる、鳶色のコートに覆われた背中に声を掛けようと口を開き掛ける。けれど紡ぐべき言葉が見当たらず、ジュードはそのまま俯いた。そんなジュードの困惑を察したのか、アルヴィンの肩が明確に揺れる。それから、僅かだが顔を傾けてジュードへと視線を寄越した。
「おはよう、ジュード君」
 やや下がり気味の目尻を細めながら、アルヴィンは言った。「おはよう」とジュードも返した。それから、夢の中でそうだったように寝台を下りると、窓の外を眺める無防備な背中に近付いた。
「戻ってたんだね、アルヴィン」
「戻って来ただろ、ちゃんと」
 喉を鳴らして彼は笑う。だが、視線は交わらない。窓辺に腰掛けた彼の頭頂から背中に掛けてのラインを見下ろすだけのジュードからは、その表情までは伺い知れなかった。
「昨日のことじゃなくて……」
 何処まで、ジュードの苛立ちと疑念を察して彼は言葉を選んでいるのだろう、そんなことを考えながら僅かに語気を強める。アルヴィンはそんなジュードを特に気にした様子もなく「母親のところだよ」と言って肩を竦めた。
 寝台の上に横たわる、一人の女性の姿が脳裏を過ぎった。薄ら白く土気色をした肌が、シャン・ドゥの柔らかな陽射しの下で不気味に浮き上がっていたのを覚えている。落ち窪んだ眼孔から覗くアルヴィンと同じ色をした眼が、まるで小さな子供のようにきらきらと輝いていた。背中を向けて母親に優しく、それでいてよそよそしく話し掛ける彼の表情はジュードからは分からなかった。ただ、「レティシャさん」と女性の名前を呼ぶアルヴィンの硬質な声が酷く耳に残った。彼の守るものを見た。その事実が彼への疑念を咎める。
 ジュードは窓の外を眺めるアルヴィンの隣に立った。夢の中とは違い、行き交う人々の活気で眼下は賑わっている。風にそよぐ色とりどりの祈念布だけが、変わらない光景だった。けれどそうして並び立ち、同じものを目にしていてもアルヴィンが何を考えているのかジュードには少しも解らなかった。それどころか、彼が今何を見ているのかさえ解らない。人の波を追うようにも、流れる川を無為に眺めているだけのようにも見える。何に焦点を定めることもなく、ただ思案に耽っているだけのようにも見える。同じ黄昏を孕んだ空の下、忘我の淵に沈む彼の守るものに思いを馳せているようにも、次の裏切りの算段に思考を巡らせているようにも見えた。
「誰か、死んだみたいだな」
 アルヴィンが言った。窓の外を見て、彼の視界をなぞっていたジュードは唐突に紡がれた不穏な言葉に驚きアルヴィンの方へと視線を引き戻した。しかし、変わらず彼は頬杖を突いて窓の外を眺めるばかりだった。
 ほら、と言ってアルヴィンは革の手袋に覆われた手で水面を指した。
「あの祈念布、昨日からあそこにずっと出てやがる」
 指し示された方を見やれば確かに、水辺に程近い所に他の祈念布とは形状の異なる五色の旗が風になびいて揺れていた。また、奇妙な既視感に胸が騒いだ。
「……あの旗、夢に出てきた気がする」
「へぇ?そいつは縁起がいいんだか悪いんだか」
 そう言って、アルヴィンはやっとジュードの方を見た。浮かんでいる相変わらずの人を食ったような笑みに、ジュードはまた昨日のことを思い出して腹の底が重くなった。それでも、背を向けられたまま話をされるよりずっと良かった。
 アルヴィンは五色の旗には特別な祈りが込められていること、その祈りはア・ジュールの伝説に出てくる聖獣とその獣を討った英雄とに纏わるものなのだということを教えてくれた。
「死人が出るとああして葬儀の場に旗を吊すんだよ」
「聞いたことあるよ。ア・ジュールでは死んだ人の魂は川を流れて精霊になる、って」
 それ故に、精霊信仰の厚いア・ジュールに在って、水の大精霊ウンディーネは魂の導き手としての側面も持つのだという。
「まぁ、精霊になれんのは強者だけみたいだけどな。負けた奴は海の底らしいぜ?」
 確かに、放っておけば川の流れが行き着く果ては海だろうし、精霊の主であるマクスウェルが泳げないことを目の当たりにしているジュードは事実と伝承とを照らし合わせて奇妙に得心がいった。そんなジュードの様子が可笑しかったのか、赤褐色の双眸を細めてアルヴィンが笑みの色を強める。
「まぁ、川を流れんのは基本的に魂だけだよ。身体の方は……そうだな、鳥葬が多いな、この辺りは」
「そうなの?」
「水葬や火葬もないわけじゃないけどな。基本的に精霊信仰が盛んだから、水や火を穢したくねぇんだと」
 カン・バルクの王城でも、燭台とは明らかに違う意図で灯されているらしい焔が揺らめいていた光景は、ジュードの記憶にも新しい。そこに宗教的な理由があったとしても不思議ではないな、とアルヴィンの話を聞きながらジュードは思った。
「ラ・シュガルでは土葬が多いかな。最近では衛生面を考慮する声もあって、火葬も主流になってきたみたいだけど」
 記憶の糸を手繰り寄せるようにして、ジュードはこめかみに指先をあてがう。遺体の処理方法に関しては、医学校で何度か上がったことのある話題でもあった。
 もともと、ジュードは精霊術による治療を専攻していた為、生身の身体に刃を入れるような原始的な治療法への造詣はあまり深くない。ただ、それでも書物以外で得られる人体の正確な構造を知る目的で遺体の解剖現場に立ち合う機会が何度かあった。確か火葬が増えたことで質の良い解剖用の遺体が出回らなくなってきた声を耳にした気がする。そうした医学校での日常を、非日常の一端とも言うべきアルヴィンとの会話の中で連想するのは少し変な気持ちがした。
「まぁ、ラ・シュガルでは確かに合理的だわな」
「精霊研究も進んでるしね。ア・ジュールみたいに宗教的な理由で埋葬方法が変わる、っていうのは今はもうあまりないんじゃないかな?」
 死者を悼む気持ちがないわけではないが、そこにはどうしても合理性が付きまう。そんな言葉が脳裏によぎったところで、不意に、自分の目の前で溶けて消えた男の最期が思い出された。彼は医学校に通っていたジュードの、研修先の教授だった。思えば彼の死からジュードの非日常は始まった。そんな彼の死は、あの夜の街でどう処理されたのだろうか、とジュードは思った。
 思考の海に沈んでいたジュードは、男の喉から漏れた笑い声に意識を引き戻される。アルヴィンはいつの間にかジュードに背を向けて、また窓の外を見ていた。
 「ア・ジュールでも、宗教的な理由なんてのは後付けに過ぎないさ。要は樹木の育ちにくいこの環境じゃ、火葬は高価ってこと」快活な声音で、アルヴィンは死を語った。「土は堅くて凍ってるから土葬にも適さない。この辺で鳥葬が主流になるのは必然なんだよ」
 言われて、語るアルヴィンの背中から自然とジュードの視線は空へと向かった。イル・ファンの常闇ともル・ロンドの夜と暁の混ざる空とも異なる、黄昏を孕んだ雲が乾いた風に流されていく。そこに、アルヴィンの言うような死者を運ぶ鳥の姿は見つけられなかった。
「火葬が高価、っていうのは木材の希少性が関係してるんだよね。全くないわけじゃないんだ?」
「だな。火を汚さないくらいの徳の高い人間や高貴なご身分の方々なら、払いも悪くないだろうしね、ってこったろ」
 確かに、ア・ジュールを束ねる黎明の王は焔のような男だった。瀝青炭にも似た暗い色の髪の合間から、鮮烈な紅い瞳に射抜かれた。ジュードはその苛烈な眼差しの前に、ただ言葉を失うばかりだった。そして、芋づる式に思い出されるのは、矢張りこの男の裏切りだ。
「ガイアスも、死んだら荼毘にふすのかな」
 鬱屈した思いに突き動かされるようにして、ジュードは言った。もしかすると、アルヴィンの反応が見たかったのかも知れない。
「いや、王族なら塔葬じゃねぇの?俺もよくは知らねぇけど」
 屈託なく笑いながら「そもそもあの御人が死ぬとか想像出来ないけどね」とアルヴィンは付け加えて言った。その様子に、裏切りに対する後ろ暗さは少しも感じられなかった。
「狡いねアルヴィン」
 空を見上げたまま、ジュードは言った。「何が?」と言って、アルヴィンがジュードを仰ぎ見てきたので、そこでジュードは視線を落とす。
「空に還すのに、旗を吊すのは水辺なの?」
 アルヴィンの問いに、ジュード答えなかった。独白を問いにすり替えて、口を開く。
 彼はジュードを、下から真っ直ぐに見据えたまま、何かしら思案するように赤褐色の双眸を緩く細めた。そこに映る自分の顔が今にも泣きそうに見えて、冷ややかな思考との落差に少しだけ驚く。
「……あれは水葬」
 ややあって、アルヴィンは口を開いた。水葬だから水辺に旗が飾られているのだ、と丁寧に付け足して彼はジュードの問いに正確に答えた。
「鳥葬も金が掛からないわけじゃない。だから、女や子供や、金のないやつは水葬が多いんだよ」
 死の畔を穏やかな眼差しで眺めながら、彼は笑う。そんな笑みを横目で見下ろしながら、ジュードは彼が死者を送った水辺を眺める理由を考えた。それから、昨夜視た夢に祈りの旗が揺れていた理由を考えた。
「どうして見てたの?」
「うん?たまたま目に入ったから、だけど……何だよ?起き抜けだってのにやたらめったら質問責めだな」
「アルヴィンに質問するのは面白い、って最近知ったからね。叩けば埃しか出てこないんだもん」
 揶揄するように呟いても、彼は肩を竦めて笑うだけだ。
 昨日も、宿に向かう前にアルヴィンを問い詰めた。ア・ジュールの王の側近であり、聖獣の名を冠する四象刃[フォーヴ]の一人が彼と顔見知りだった件に関してだ。
「それも嘘かも?」
 片目を瞑り、ふてぶてしく言い放つその様子にジュードは一つ溜め息を吐いた。
「アルヴィンって、変なとこ子供っぽいよね」
「おいおい、一回り以上も離れた相手にそりゃねぇよ。もちっと敬え、青少年」
 もう一つ、ジュードは溜め息を吐いた。
 最初は、非の打ち所のない大人だと思った。今まで自分の周りには居なかったタイプの人間だったが、だからこそミラとはまた別の意味で惹かれた。人当たりが悪いわけではないが決して社交的であるとは言えないジュードの気持ちを察して気を遣ってくれる様や、戦闘のときに先陣を駆って活路を切り開くその背中に一つの大人の在り方として憧れていた。けれど、今は少し違う。アルヴィンの気紛れとさえ言える不透明な言動に振り回されて、約束をすれば破られて、信じていると言えば突き放される。だのに彼は何食わぬ顔をして、また姿を見せこうして隣で窓の外を眺めている。まるで、頭の良い子供の気紛れに付き合っているようだ。それこそ彼の言うように、ジュードとアルヴィンは一回り以上歳が離れているのだから、そんな相手を「子供のよう」と形容するのは間違っているのかも知れない。それでも、今のジュードには彼が「大人」であるとは決して思えなくなっていた。
 鳶色の髪を風に揺らせて、図体ばかり大きな頭の良い子供が笑っている。ジュードの溜め息を彼はどんな意図として捉えたのか、考えようとして止めた。最近のジュードの思考はこの男のことばかりだ。いい加減に疲れてきた。
「じゃあさぁ、ジュード君。堅くて冷たい土を苦労して掘って埋められんのは、どんな奴だと思う?」
 口の端を吊り上げて彼は言った。こんな時ばかり、アルヴィンはしっかりと上体をジュードの方へと向けて正面から見据えてくる。勿論、宗教的な慣習ーーそれも他国への造詣などそう深くはないジュードは不意打ちのような問いに言葉を詰まらせた。アルヴィンはというと、それはもう底意地の悪い満面の笑みを浮かべて頬杖を突いていない方の手で耳を貸せとでも言うようにジュードを手招きした。
 一日も始まったばかりだと言うのに、もう何度目になるかも分からない溜め息を吐きながら窓辺に座るアルヴィンに合わせてジュードは上体を屈める。すると、途端に腕を絡め取られてジュードの体勢は大きく崩れた。そのまま座るアルヴィンの膝に半ば抱き込まれるように乗り上げる。膝の上の子供の肩に男は腕を回して覆い被さりながら、耳元に唇を寄せる。
「罪人」
 笑みの色の濃い吐息がジュードの耳に掛かる髪を揺らした。反射的に耳元を手で覆い、アルヴィンから身体を引き離そうともがく姿を彼がどんな目で見ていたのか、ジュードには分からない。そんなことにまで気を回す余裕は恐らくなかった。
 結局、アルヴィンの腕をほどくことには成功したものの相変わらず上体が離れただけで、その膝の上に乗り上げたままのジュードを見て彼は笑った。外気の冷たさに反して顔が熱くなるのが分かるジュードは、その視線に耐えきれず目を逸らした。逸らした先に、水辺で揺れる五色の旗を見留めた。
「あとは、病人」
 一層強く、風が吹く。囁くだけのアルヴィンの声は、それでも強くジュードの耳に残った。
 嘘吐き、と喉元にまで込み上げた罵倒を飲み下す。その代わりに、ゆっくりとアルヴィンへと向き直った。だが、アルヴィンは水辺の旗を眺めていてジュードを見てはいなかった。
 脳裏に浮かぶのは、病床に在る彼の母親の姿だ。時を止めて、ただ「息子」を愛し案じる、儚くも美しい女性だった。病に伏す母を持つ彼が「たまたま」死の畔を見つめるなどということがある筈がない。彼は常に終わりに寄り添い、終わりを見つめてきた。それが、死を感じさせる人間を身内に持つということだ。
 恐らく、既に彼はある種の諦念を以って母親と常に対峙している。何れ冷たい土の下に埋もれるだろう予感に、ジュードは彼に返すべき言葉を見失ったままでいた。
「土を掘って、埋められるんだろうな」
 彼は揺れる旗を見つめて、死の片鱗を語った。どうしてそんな風に中途半端に己の手の内を見せるようなことをするのかと、喚き立てながら掴み掛かりたい衝動にも駆られた。けれど、ジュードがしたことと言えばただ固く、拳を握り締めただけだった。
「俺も」
 端的な呟きに、少し、ジュードの反応は遅れた。そうして、その意味を理解する頃もう一度アルヴィンは同じことを呟いた。その声は酷く乾いていて、彼は矢張り遠くを見たままで、ジュードは掛けるべき言葉を持っていなかった。ただ、どうして、自分はアルヴィンのことをこんなにも何一つ解らないままで居たのだろう、とそれだけが不思議と悔しくてたまらなかった。それでも、昨日のような無様を晒さないようにと空を仰ぐと、鳥の陰を雲間に見た気がした。


 斜光に沈む街で、寝台に身を横たえる夢を久しぶりに視た。最後にその夢を視てから二節程経っていた。
 夢の中で、ジュードはいつもの通りに上体を起こす。灯り取りの窓は開け放されて、差し込んだ暖色の光に剥き出しの岩壁が濃い陰影を浮き彫りにしていた。
 シャン・ドゥでアルヴィンと話をしてからも、ジュードはこの類いの夢を視る機会に事欠かなかった。寧ろ、アルヴィンへの疑念は日を追う毎に濃く深いものへとなっていき、夢を視る頻度は増した。だが、頻度が増したばかりで全く変化がなかったということでもなかった。今まではその旅の空、宿泊した宿の一室であったり、平野や森での野宿であったりした夢の情景は、必ず彼の母親が病に伏し、そして死んだ崖の街の宿の一室になった。その部屋で必ずジュードは目覚めるようになった。そこに、死を語る彼の感傷や執着に触れた事実が関係しているのか、そこまでは分からない。ただ、穏やかな悪夢のように付きまとったアルヴィンの片鱗は、彼の故郷であるエレンピオスへと訪れた頃からぴたりと成りを潜めてジュードの眠りを邪魔することはなくなった。
 夢の記憶はあまり代わり映えはしなかった。最後に現実でシャン・ドゥに訪れてから一旬も経っていない筈だが、その時はアルヴィンが母親の遺品を整理する為だけに立ち寄ったので宿には泊まらなかったせいも知れない。
 あれから、ラ・シュガルの王ナハティガルが死に、アルヴィンの裏切りで断界殻[シェル]が割れ、ジュード達の住む世界リーゼ・マクシアの「外」の存在が知れた。そうして、ミラが万物の守護者である精霊の主マクスウェルではないという事実が彼女の死に因って発覚した。ジュードは失意に沈み、寄る辺を失ったアルヴィンは銃を手にした。ジュードは、向けられたその銃口を無感動に見上ていた。銃を向ける男は無表情を装い、激情を押し殺していた。その姿は哀れみを誘い、早く楽になってしまえばいいのに、とジュードは思った。ミラはもう居ないのに、思考し、苦悩する彼が不思議だった。けれど、その後のことはあまりよく覚えていない。漠然と起きた事実だけを把握しているだけで、アルヴィンの銃口が震える理由や余裕をなくして歪んだ表情の意味、そしてそこにどんな感情が伴っていたのか――そうした子細がすっぽりとジュードの中から抜け落ちていた。一瞬、霞掛かった視界が晴れるような、まるで素晴らしい宝物を見つけたかのような高揚感を覚えたが、それは一発の銃声と奇妙に近い幼馴染みの虚ろな表情を前に呆気なく霧散してしまった。そして、衝動に任せて大地を蹴ると、大きく腕を振りかぶり喚き立てまるで見知らぬ余裕のない男に拳を向けた。
 結局、アルヴィンのことも自分の感情もよく分からないまま、ジュードは精霊として再び姿を顕したミラと共にリーゼ・マクシアとエレンピオス双方の世界の在り方を良い方向へ変える為の手段を模索することにした。そして、彼女が戻ったその頃から、黄昏の支配する出口のない部屋の夢をジュードが視ることはなくなっていた。
 夢の窓に祈念布が揺れる。眠りに落ちる前にも窓の外に同じものを見たが、その布は凍てつく風雪に揺れていた気がした。
 寝台から這い出ると、ジュードは窓辺へと近付く。黄昏に沈む石造りの街並みは最後の記憶と違わず、静謐の中に沈んでいた。人の波もなく、鳥の声もしない。風の音と川のせせらぎだけが、耳鳴りのように鼓膜を震わせている。窓辺から見下ろす川の畔には、以前の夢にも確かに見留めた五色の祈念布が揺れていた。あの旗が死の祈りだとアルヴィンに教えられてから、ジュードの夕暮れの夢には必ず死の気配が付きまとうようになった。
 だが、何故、今になってこの夢を視るのだろう、と揺れる旗を眺めながらジュードは不思議に思う。彼の母は死んでしまった。故郷に帰ることなく、思い出に沈んだまま、けれどその死の間際のほんの一時現実へと意識を向けて、彼女は死んだ。
 アルヴィンが口にした以上の彼女の最期は、ジュードには分からない。己を害する誰かを思いやるその姿は、アルヴィンの穏やかな口調も相俟って非常に美しくもあったが、その実息子である彼自身、自らの置かれた状況に付随する感情は一つとして語られずじまいだった。死者はただ沈黙を守り、その亡骸の行方すら知れない。
 ジュードは夢の窓辺を離れると、踵を返した。黄昏に沈む石造りの部屋の中、ささくれ立った木製の扉がいやに浮いて見えた。扉へ向けて、ジュードは足を踏み出す。そして扉の前に立つと、手を伸ばしてドアノブに指先を掛けた。扉は、何の抵抗もなく開いた。
 扉の先には、唐突に荒涼とした大地が広がっていた。薄暗い空の下に広がる乾いた光景はシャン・ドゥに程近い岩砂漠にも、精霊の死に絶えた彼の故郷にも見えた。踏み出した夢の足取りは重い。けれど振り返っても開けた筈の扉は消えていて、ジュードは仕方なく歩を進めることにした。風の音も、水音も鳥の声も、虫の鳴き声もしない。まるで全てが死んでしまったかのような大地を、ジュードはひたすらに歩いた。夢の中の感覚は酷く不鮮明で、何もかもが遠く感じた。自分以外何も動くもののない世界で、それでも不思議と後悔はなかった。やがて自分が歩いているのか立っているのか、乾いているのか餓えているのかも解らなくなった頃、唐突に視界が開けた。霞掛かった視界に、目が眩むような鮮烈な緋色が痛かった。その焔のような色を黎明王の瞳のようだな、とジュードは思った。それから、猛る蘇緋が乾いた大地を照らし暴く陽の光であることに気付く。周囲を見渡せば、ひしゃげた枯木がジュードのすぐ傍らに立っていた。その幹に触れると、手袋越しであるにも関わらずざらついた感触が手のひらに伝わった。そのまま手のひらを枯木の幹に押し当てて、反対側の死角へと回り込む。そこには、赤々と燃える陽射しが荒涼とした大地を照らす光景が続いているだけだった。空を仰いでも、周囲を見渡しても、何の、誰の姿も見留めることはかなわない。空はただ無慈悲に赤々と輝き、不毛の大地には無機質な岩が横たわっている。だから、ジュードはきっと間に合わなかったのだろうな、と思った。ジュードは間に合わず、彼女の愛した世界と、彼の焦がれた世界を救う筈の研究は実らず、世界は死んでしまったのだろうな、と思った。それから、ジュードは今一度ゆっくりと、周囲を見渡した。彼の――アルヴィンの姿を探した。結局、この夢の始まるところはいつもあの男にあったからだ。今まで決して一つの部屋から出ることのかなわなかった夢は、けれどどうした自身の心境の変化なのかこうして外への扉を開いた。だから、きっと、この夢の終わりには彼が必ず居るのだろうとそう、奇妙な確信を以ってジュードはアルヴィンの姿を探した。けれど荒野に見える陰はどれも岩ばかりで、結局ジュードはアルヴィンを見付けることが出来なかった。

 覚醒は、目を開けるより先に肌寒さをジュードに促した。無意識に鼻の頭にまで上掛けを引き上げて、瞼を持ち上げる。寝起きは決して悪い方ではなかったが、この寒さに睡魔は助長する一方だ。今一度眠りに落ちれば、夢の中のアルヴィンが見付かるかも知れない、などという甘やかな言い訳すら脳裏に浮かぶ。そうして寝返りを打った先に、白く雪の降り積もる街並みと山脈とを縁取る窓を見留めて、途端にジュードはその動きを止めた。一拍を置いて上体を起こす。上掛けと毛布がずれ落ちて、肌着一枚の肩は確かな寒さを感じたが気に留めることなくジュードは素足を冷たい床に晒した。
 裸足のまま窓辺へと歩み寄る。外は一面の銀世界だ。険しい岩壁と、風雪に揺れる祈念布の間から堅牢な黎明王の城が見えた。滞在した宿の一室はカン・バルクへ訪れた際、男性三人に宛がわれる一室だったので、一人で使うといやに広く寂しく感じるものだな、とジュードは思った。そこまで考えてから酷く自然に、自分がそれまで横たわっていたすぐ隣の寝台に目が行く。彼は居ない。当たり前だ。昨日、雪原に消える背中を見送ったばかりだった。なのに何故あの夢を視たのだろうか、とジュードは寝台を見つめたまま小さく首を傾けた。
 昨日、遅くまでジュードはあの城の会議室に居たのだということを、ぼんやりと思い出す。断界殻が消え、ミラと途を分かち、リーゼ・マクシアへと帰還したジュード達が最初に降り立った地がカン・バルクだった。今となってはリーゼ・マクシアにおける唯一の王となった黎明王ガイアスと共に、これからのことについてある程度話を纏める必要があった。現状はリーゼ・マクシアとエレンピオスの双方を救おうというジュードやミラの主張に難色を示していたガイアスを漸く説得出来たというところで、まだエネルギー代替案に対しての深い理解を彼から得られたとは到底思えない。だが、彼の存在がなければ、リーゼ・マクシアの理解も得られず、エレンピオスと対等に渡り合うことも難しい。だからジュードは精霊を殺す黒匣[ジン]に代わる、源霊匣[オリジン]への可能性をガイアスに正しく伝えなければならなかった。
 リーゼ・マクシアへと帰還してから数日、ジュードと仲間――殊元ラ・シュガル軍の軍師であるローエン・J・イルベルトは真摯にガイアスと向き合い、源霊匣の可能性を説いた。そんな彼がもう暫く、ガイアスの側近だった四象刃の穴を埋める意図も兼ねてカン・バルクへの残留を決め、その旨を現在のローエンの主であるドロッセル・K・シャールへの言伝として二人の少女に託すことが決まったのが、丁度昨夜遅く日付の変わる鐘の鳴る直前だった。ローエンとはそのまま城で別れ、城下町の宿に向かう途中でアルヴィンもエレンピオスの従兄に源霊匣の共同研究の話を本格的に通す前に、今一度シャン・ドゥの自宅へ寄りたいと告げてその日の内にカン・バルクを発った。だが、別れ際に「また連絡する」と言って、シルフモドキにジュード達の霊視野[ゲート]を覚えさせていたので誰も彼を引き止めなかった。
 彼の真意は、相変わらず不透明で「母親の為」という最優先事項を欠いた今、判断基準を測ることはますます難しくなった。居場所を無くしたアルヴィンに声を掛けたのは確かにジュードだが、それは彼を独りにしたくなかっただけなのだと思う。その時はまだレイアへの彼の仕打ちやジュード自身へ向けられた殺意も記憶に新しかったので、そこにいつもの――それこそ彼がずっと疎み続けていたお節介やお人好しという打算があったとは考え難い。だから、そこに伴う筈の感情にどんな名前を付けるべきだったのか、ジュードは未だに判らない。ただ、きっと居心地が悪いことこの上ないだろうジュードたちの傍にいつまでも留まりはせず、また持ち前の奔放さでふらりと姿を消す――そんな予感はあった。だが、そんな予感に反してアルヴィンはジュードたちと行動を共にし続けた。
 結局、旅が終わっても彼の真意は遂に知れることはなく、ジュードは言うべき言葉や示すべき行動を見失ったままでいる。或いは、彼に対して抱いていた感情の在処も解らないままだ。信頼を裏切られ、憎悪を植え付けられ、失意と嫌悪を覚えた。だのに、とうとう諦念を以って彼という存在を黙殺することだけは出来なかった。その理由が分からない。自分自身に対しても、両親に対しても、友人に対しても、ずっとそうやって生きてきた筈なのにあの男だけは諦められなかった。

 身支度を整えてジュードは部屋を出た。階段を下りてロビーに向かうが、少女達の姿を見留めることは出来ない。すぐに降りてくるだろう、とストーブに近いソファを選んで座ると備え付けの棚に並ぶ観光客向けの冊子が目を引いた。おもむろに手を伸ばし、特に選り好みすることもなくその中の一冊を手に取る。内容はア・ジュールにおける精霊信仰とその聖地に関するもので、それらが挿し絵付きで如何にも大衆向けな紹介文と共に掲載されていた。中にはジュードにも馴染み深いニア・ケリア霊山の名前などもあり、ほんの少し複雑な気分になる。それからふと、ミラを祀るニア・ケリアの人々に彼女の選んだ道――新たな「使命」を報せるべきだったのではないか、という思いが脳裏を過ぎった。マクスウェル信仰の薄れゆく中、それでも彼らはミラ=マクスウェルを信奉し続けていた。真実を知った彼らがどのような選択をするのかは分からない。それでも、彼らもまたミラの選択と決意を知るべきなのだろうな、とジュードは思った。
 カン・バルクからニア・ケリアに向かうのなら、シャン・ドゥを流れる川を経由して湿地帯を抜けていくのが最短距離だろう。道筋を頭に思い描きながら、ジュードは無作為に冊子のページをめくり続けた。そして、流れる挿し絵の一つに今までの思考を停止させ、手を止める。描かれていたのは、黄昏に沈む夢の中でいつも揺れていたあの五色の祈念布だった。 そうすると、その祈りの意味とそこに寄り添う死の気配を語る男の声音を自然と思い出す。今朝方の夢との奇妙な既視感を感じた。
 五色の旗はア・ジュールの大地と成った聖獣と聖人クルスニクの顕れである、といつか彼が言っていたのと同じようなことが冊子には書かれていた。また、五色は四大と元素の精霊に由来するという説も説かれ、五葬にも通ずるとの記述もある。死を見つめていた男とも、確かにア・ジュール独特の宗教観や埋葬法の話をした。だからなのか、不意にジュードは彼が母親の死に目に立ち合えなかったのだという事実を思い出した。彼の母親の最期を見取りその亡骸を知る唯一の女は、今や意味のある受け答えの出来ない状態に在る。そんな彼女に母親を亡くした男は、強くその行方を訊ねることをしなかった。
 思考の底に沈むジュードを現実に引き戻したのは、凝視する挿し絵が露骨な陰りを見せた為だ。顔を上げるとそこには幼馴染みの少女と、縫いぐるみを抱く少女とが立っていた。
「お待たせ、ジュード。やっぱカン・バルクの朝って寒いねー」
「レイア、なかなか布団から出て来てくれなくて大変だったんですよ」
 栗色の髪の寝癖を気にするようにいじりながら幼馴染み――レイア・ロランドが笑う。その横でストーブの焔を照り返す美しいアッシュブロンドを揺らして、エリーゼ・ルタスが小首を傾げた。
「おはよう、二人とも。昨日はよく眠れた?」
 冊子を戻しながら、ジュードはソファを立ち上がった。そのまま彼女たちの部屋の鍵を受け取り、自分のものと纏めてフロントに返す。
「うん。もうぐっすり!」
「寒かったからぁ、レイアったらエリーゼの布団に潜り込んで来たんだよー」
 エリーゼの抱く不思議な縫いぐるみが、ジュードに弾む声を投げた。彼女の深層の代弁者である縫いぐるみが嬉しそうに話すその声に、ジュードもまた暖かい気持ちになって耳を傾ける。 早くに両親と死別したエリーゼにとって、レイアの過剰なスキンシップは新鮮な驚きと優しさであるようだ。肉親の情に代わるものには決して成り得ないだろうが、それでもエリーゼがその温もりを大切にしてくれたらいいな、とジュードは思った。
 宿を出るとジュードは少女たちと共に朝食を済ませ、道具と携帯食の補充をした。シャン・ドゥへと向かうにはモン高原を抜けなくてはならない。棲息する魔物や野盗の類いこそ今のジュードたちの敵ではなかったが、舗装もろくにされていない雪道を歩くのはまだまだ不慣れだった為、準備を怠るわけにはいかなかった。
 一通り必要な物を買い揃え、モン高原へと向かう。白い息を吐きながら、道具袋を覗くエリーゼが「これ、美味しいですよね」と買ったばかりの携帯食を指して言った。
「あ。私もそれ好き!」
「じゃあ、お昼はこれを食べようか」
 レイアがエリーゼの手元を覗き込んだのでジュードも倣うと、そこには生クリームのたっぷり掛かった牛丼が湯気を立てていた。ちゃんと確認してから提案すれば良かった、と少なからず後悔しながら以前この奇妙な牛丼を食べたときに「普通の玉子焼きが食べたい」と嘆いた男が居たことを思い出してしまう。何だか今日は彼のことばかりだな、とうんざりしながらジュードは溜め息を吐いた。いつだったか、裏切りを繰り返す彼を寧ろ目の届くところに置いておく方が安心だ、とミラがローエンに言っていたことを思い出したせいもあるかも知れない。今更のように過去に共感するジュードの隣で恐らくは溜め息に対する理解を違えたレイアが、小さく噴き出して笑った。
「いいじゃない。美味しいよ、クリーム牛丼!ね、エリーゼ?」
「はい。私の、大事な思い出の味ですから」
 少女たちはそう言って朗らかに微笑みを交わし合う。そんな彼女たちをジュードは少し離れたところから疎外感に苛まれながら見つめた。普通の玉子焼きが食べたい、と思ったからだ。
「でも、あんまり早いペースで食べるとすぐになくなっちゃいますね」
 精霊の主のように量こそ必要とはしないが、意外と食に対しては貪欲な少女が若草色の瞳を伏せ目がちにして呟いた。
「モン高原を抜ければすぐシャン・ドゥだし、その時にでもまた買えばいいよ」
 すかさずレイアが入れたフォローに、「そういえば」とジュードは切り出した。
「僕、ラコルム海停には向かわずにシャン・ドゥからニア・ケリアに行こうと思うんだ」
 そう告げると、矢張り二人の少女は驚いたようだったので、ジュードはミラを信仰するニア・ケリアの人々には真実を伝えるべきだという考えを口にした。
「……そっか。なら、ちょっと遠回りだけど寄ってこっか」
「駄目だよレイア。レイアはエリーゼをカラハ・シャールに送らなきゃ」
 エリーゼはローエンの言伝をカラハ・シャールの領主に伝えなくてはならない。暗に臭わせるとレイアは頬を膨らませて顔を逸らした。
「別に、そんな急がなくたっていいじゃない」
「でも、急に断界殻が消えてドロッセルさんも色々大変だと思う。カラハ・シャールも霊勢が特殊な場所だし……早いに越したことはないよ」
「だったら、わざわざ別行動なんてしないでニア・ケリア行きを後回しにしちゃえばいいじゃん」
 確かに、レイアの言う通りだった。もともと霊勢も安定し、外界からも隔絶しているあの集落は酷く緩慢な時の流れの中に在る。だから、彼女の提案を跳ね除ける理由も見つからずジュードは言葉と共に息を詰めた。
「でも、ジュードは今、ニア・ケリアに行きたいんですね」
 それまで黙ってジュードとレイアのやり取りを聞いていたエリーゼが、おもむろに口を開いた。視線は、胸に抱いた縫いぐるみへと向けられたままだったので上から見下ろすジュードからその表情は伺い知れない。
「……けじめ、ですか?」
 ともすれば風雪に掻き消えてしまいそうな声音で、彼女に問われる。ジュードはあまり迷うこともなく「そうだね」と答えた。
 旅の中でミラの存在が大きくなるのに、そう時間は掛からなかったように思う。だからこそ彼女を亡くした時の喪失感も大きかった。それ程までに、ジュードはミラ=マクスウェルという存在に依存していた。そんな彼女と奇跡的な再会を果たし、けれど再び訪れた別離にジュードは今度こそ覚悟を以って対峙した。
「でもやっぱり、僕の中でミラの存在は大きくて……割り切れない、って思いがあるんだ。だから、気持ちを整理したいんだと思う」
 努めて穏やかに主張すると、レイアが力無くジュードの名前を呼んだ。何かを言い淀むような、諦めたかのような声音は共に旅をするようになってから何度も耳にする機会があった。そのことを申し訳なく思いながら、ジュードは彼女に微笑んだ。
「しょうがない、ね……よっし。カラハ・シャールには私と二人で行こっか、エリーゼ」
 レイアに促されると、エリーゼは一度強く胸に抱いた縫いぐるみを抱き締めてから、ゆっくりと顔を上げた。灰色を帯びたブロンドに付いた雪が音もなく落ちる。橄欖石に似た瞳を真正面に受け止めながら、ジュードは彼女の髪を撫で梳きながら言葉を待った。
「わかりました。頑張って下さいね、ジュード……私も、頑張ります、から」
 頬を紅潮させ、エリーゼは一息でそこまで言いきると縫いぐるみを抱いていた腕を大きく広げてジュードに抱き付いてきた。腕に収まっていた縫いぐるみ――ティポは抱きついたまま顔を埋めるエリーゼの周りを一度大きく飛んで見せると、ジュードの目線の高さに舞い降りた。
「ジュードが頑張るなら、エリーゼも頑張れるってさ」
 彼女の深層の代弁者が、少女の意図を伝える。その意味するところをこの上なく正しく理解しながら、ジュードもまたエリーゼを強く抱き返した。
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